2019年10月3日 更新

山一抗争とは?山一抗争の当事者達やモデルにしている映画についても

暴対法が施行されてから、暴力団の話を耳にすることが滅多になくなりました。バブル経済真っ最中で映画にもされたほど、日本中を震撼させ国民をも巻き込んだ『山一抗争』は、日本最大の暴力団組織による四代目跡目争いが発端でした。山一抗争の功労者とは?ヒットマンって?

目次

Film Projector Movie - Free image on Pixabay (670227)

日本人は、昔から『極道もの』の映画やドラマが大好きです。そこには、義理人情や仁義など、日本人が大好きな『感情』がたっぷり含まれており、日頃の「納得できない」というような理不尽なストレスを、観ることで発散させることができるからでしょう。

「日本最大の暴力団組織」が巻き起こした「史上最悪の暴力団抗争」である「山一抗争」をモデルにした映画は、スケールも壮大で、豪華な映画にするのにピッタリの物語だったのではないでしょうか。

激動の1750日

Film Photography Negatives - Free photo on Pixabay (670229)

原作は、作家『志茂田景樹』の「首領を継ぐのは俺だ」で、山一抗争をモデルに、構成員12,000人の神岡組の四代目争いで分裂した、神岡組と八矢会の抗争事件を描いた作品です。

監督は、深作欣二と共に、様式的な従来の任侠物に代わる「実録ヤクザ映画路線」を邁進した『中島 貞夫』でした。

俳優陣は、主演が中井貴一、 そして萩原健一、 渡瀬恒彦、中尾彬、中条きよし、 陣内孝則、 加藤雅也など豪華キャストが揃えられ、山一抗争に関わった多くの幹部がモデルにされました。

1990年9月15日に公開

Lens Camera Photographer - Free image on Pixabay (670231)

一和会会長『山本広』が、神戸市の東灘警察署に出頭し、自身の引退と一和会解散を表明し会が消滅したのが1989年3月19日。山本広が稲川会本部長『稲川裕紘』に付き添われて山口組本家を訪れ謝罪して山一抗争が終結したのが3月30日。

1990年9月15日に公開されたこの映画は、ほぼリアルタイムで「山一抗争」がどのようなものであったかを知ることができ、時代背景も、1986年12月~1991年2月まで、日本で起こった資産価格の上昇と好景気の『バブル経済』であったことから、莫大な制作費がかけられました。

組名や登場人物の名前は違うが山一抗争を具体的に表現している

Cinema Movie Camera - Free image on Pixabay (670230)

「百聞は一見にしかず」という言葉がありますが、多くの人物が絡んでいる物語は、本で見たり話で聞いてもなかなか理解しにくいですが、組名や登場人物の名前は違う具体的に表現された映画で「山一抗争」を見ることで、何がなぜそうなったのか?を知ることができました。

日本最大の暴力団組織が巻き起こした「史上最悪の暴力団抗争」は、ヤクザの世界だけの問題でなく、一般市民の生活も巻き込んだものだったので、多くの日本人に共感を得ました。

山一抗争関係者への配慮から面白みに欠けるといった意見も

Camera Photography Lens - Free photo on Pixabay (670232)

ドキュメント映画ではないので、物語は「大人の事情」とされカットされたり「制作側が描きたかった方向」へ変えられたりで、100%リアルには描かれていません。

もちろん、山一抗争関係者へ配慮される箇所も多く、本物の「山一抗争」を知っている人にとっては面白みに欠けるという意見もでました。

しかし、どのような物語も、違った方向から見ることで、違った内容に見えてしまうものです。この映画で描きたかったものが、この映画にされたのでしょう。

ドラマや映画以上に過激な極道の世界

 (670237)

ドラマや映画の中での極道の世界は、最終的にどうなるかが決まっているので安心して観ることができますが、リアルな極道の世界は、ドラマや映画以上に過激で毎日が波乱万丈でしょう。

しかし、1992年3月1日に施行された「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」により、極道の世界も激変しました。。暴力団員数は減少し、対立抗争事件数も減少し、活動が法律に触れぬように巧妙になり、暴力団員が一般社会へ進出することは、ほぼあり得なくなりました。

山一抗争のような事件は、もう幻のような事件になったのです。

9 / 9

関連する記事 こんな記事も人気です♪