2019年10月3日 更新

山一抗争とは?山一抗争の当事者達やモデルにしている映画についても

暴対法が施行されてから、暴力団の話を耳にすることが滅多になくなりました。バブル経済真っ最中で映画にもされたほど、日本中を震撼させ国民をも巻き込んだ『山一抗争』は、日本最大の暴力団組織による四代目跡目争いが発端でした。山一抗争の功労者とは?ヒットマンって?

目次

1913年3月28日、徳島県の貧しい小作農家に三女、二男の次男として生まれ、父は病没しました。小学校1年生で母親も過労で亡くし、一人だけ酒飲みで暴力を振るう神戸の叔父に引き取られました。高校卒業後、地元の造船所に入社しましたが現場主任を殴打して退社。

高校で山口組二代目組長『山口登』の弟と同級生だったことから、部屋で世話になり不良になり、1936年には二代目山口組の組員になり、傷害罪で1年服役。1937年には殺人罪で8年服役。出所後『田岡組』を組織。1946年、長老たちの推薦で約30名の山口組三代目組長を襲名しました。

主要な収入源を港湾荷役と神戸芸能社にし、数々のトップスター有名人から社会の落ちこぼれまで、沢山の人から慕われる人柄からも組は急激に発展しました。組員に「合法的な収入源を持つように」と勧め全国へ進出し、山口組を日本最大規模の指定暴力団に仕上げていました。

田岡文子(三代目山口組組長の妻)

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誰からも「他の姉さん方とは違う」と慕われていた、三代目山口組組長の妻『田岡文子』は、1920年、兵庫県出身です。

一代で山口組を日本最大の暴力団につくりあげた夫で組長の補佐役を務め、1975年に組長が狭心症で倒れてからは自然に『身代り』とされ組行事をきり回しました。

1981年、組長死去後には兵庫県警までが『3代目姐(あね)』と呼び、組の首領とみなされていましたが、山口組の分裂を招いた四代目選出の人事にも深くかかわりました。

山本健一(山口組若頭)

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1925年3月5日、兵庫県or広島県出身。出征し終戦後に愚連隊になります。1961年、三代目山口組の若頭となっていた『山本健一』が神戸山口組の二次団体『山健組』を結成。武闘派で「ヤマケンにあらざれば、ヤマグチにあらず」と言われるほどの勢力を誇りました。

三代目『田岡』組長の山本健一への寵愛ぶりは有名で、田岡組長の後継者と目されながらも田岡組長の後を追うように病死しました。

しかし山本健一の死後も、山健組の出身者は山口組の主要ポストに起用されていきました。

菅谷政雄(山口組若頭補佐)

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1914年、神戸市出身。少年時代に近隣の和尚から「この煩悩め!」と一喝されて以降「ボンノ」と呼ばれ始めました。戦前から神戸で愚連隊の旗頭として活動。戦後「国際ギャング団」として活動。32~45歳まで服役し、仮出所後に山口組『田岡一雄』の若衆となり『菅谷組』を結成し神戸で大勢力を持ちます。

山口組の集団指導体制が発足すると、三代目山口組の最高幹部にあたる『若頭補佐』に就任。山健組組長『山本健一』を若頭にする活躍をしますが、関係が疎遠になり内部抗争を起こし、山口組から絶縁されます。

山口組に絶縁された後も『菅谷組』は独自に存続しましたが、次第に離散する者が増え、勢力は縮退していきました。

山本広(山口組若頭候補)

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1925年2月15日、兵庫県出身。 2歳の時、姉の嫁ぎ先に養子に出され、海軍へ徴兵され、戦後に海軍一等兵曹となり復員。三代目山口組組長『田岡一雄』の舎弟で土建業者の若衆になり、山口組本家の若衆として直参に昇格後、山口組若頭補佐の要職に就いたが、自身で『山広組』を結成するため、一旦若頭補佐を退任。

2年服役した後、温厚な人物と評価され、山口組若頭補佐として再復帰し『山広組』は最盛期を迎えていました。若頭選挙に立候補し勝利しましたが、田岡の意向で山健組組長『山本健一』に譲ります。その後、若頭に次ぐNo.3の地位『筆頭若頭補佐』に昇格し、田岡と山本健一が死去すると組長代行に就任しました。

組長に就任するつもりでしたが、田岡の妻『田岡文子』の意向で、若頭で竹中組組長『竹中正久』が四代目山口組組長に就任。これに反発し山口組を離脱し『一和会』を結成。当初、一和会の勢力は優勢でしたが弱体化し、竹中らを銃撃して殺害し山一抗争の激化を招きました。

川内弘(川内組組長)

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数々のヤクザ映画で主役として扱われ「北陸の帝王」と呼ばれた、三代目山口組菅谷組川内組組長『川内弘』は、皆から「ボンノ」の愛称で呼ばれる三代目山口組菅谷組『菅谷政雄』組長から盃をもらい、副組長『坪川三彦』を絶縁し、弟『川内重信』を副組長に据えました。

『菅谷政雄』率いる『菅谷組』舎弟から山口組の直系に上がろうと画策したのですが、菅谷政雄との関係が悪化し破門され、菅谷組の刺客に射殺されました。

菅谷組が破門者を殺害するという事件が原因となり、菅谷組は山口組から絶縁されました。

佐々木道雄(佐々木組組長)

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鹿児島県徳之島出身。三代目山口組の二次団体で、三代目山口組若頭であった、地道組組長『地道行雄』の地道組若頭でした。

しかし、地道行雄の死後、地道組は2代目は立てられず名跡は絶たれたため、佐々木組組長『佐々木道雄』として三代目山口組の直参に昇格し、三代目山口組若中になりました。

佐々木道雄は、三代目山口組組長『田岡一雄』が病気で亡くなり、山口組四代目争いが起こった際『一和会』に合流し、一和会幹事長に就任しています。

稲川聖城(稲川会総裁)

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1914年、横浜市出身。柔道をしていましたが、二・二六事件に鎮圧軍側の一人として出動。網島一家五代目総長『鶴岡政治郎』の代貸になった後、静岡県熱海市の『山崎屋』一家五代目を継承し『稲川組』も結成。

稲川組は、横浜の愚連隊『出口辰夫』『井上喜人』『吉水金吾』『林喜一郎』を若衆とし、彼らは『四天王』と呼ばれ、一気に勢力を拡大しました。 その後『稲川組』主体で、東海道地方の『鶴岡政治郎』系一家を集め『鶴政会』を結成し、政治結社『錦政会』を結成するが錦政会解散。

『稲川組』を『稲川一家』に改称し、さらに『稲川会』に改め「稲川同士会」の唄も作られました。横須賀一家五代目総長『石井隆匡』に『稲川会』会長を譲り、稲川会総裁に就任し、四代目山口組組長『竹中正久』の後見人も務めました。

竹中正久(山本健一の腹心)

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1933年11月30日、兵庫県出身。祖父が助役、実父が議員を務めた村の農家に生まれるが、12歳の時に父が死亡し、難関の中学を中退。ヤクザに一目置かれる存在になり、地元の不良を集めた『竹中組』を結成。山口組から接触され、田岡組長から盃を受け直参になりました。

山口組内でも有数の『武闘派』として、山健組組長『山本健一』から絶大な信頼を受け、山本の若頭就任で若頭補佐に抜擢。 2年服役し出所時、約1000人が出迎えに来ました。

田岡組長、山本若頭の死で、若頭補佐『山本広』が組長代行に就任しましたが「山本健一の遺志」として竹中が若頭に就任。三代目の妻『田岡文子』の強い意向で、山口組四代目を受諾。そして『山一抗争』に発展しました。

田辺・長尾・立花(ヒットマン)

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一和会側の『田辺豊記』は二代目山広組組員、『立花和夫』は山広組広盛会舎弟頭、『長尾直美』は山広組組員で「竹中組長殺害事件」のヒットマンでした。

四代目山口組組長『竹中正久』に、一和会坂井組串本支部若頭補佐『潮崎進』を刺殺されて「山一抗争」が勃発してから、約半年かけて報復を狙っていました。

そして、No.1の四代目山口組組長『竹中正久』と、No.2の高知市内に本部を置く指定暴力団山口組の二次団体『豪友会』会長で四代目山口組若頭『中山勝正』を一挙に殺害し、警護役だった山口組南組で四代目山口組若中『南力』組長も殺害したのです。

山一抗争発端の詳細

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