2019年10月3日 更新

山一抗争とは?山一抗争の当事者達やモデルにしている映画についても

暴対法が施行されてから、暴力団の話を耳にすることが滅多になくなりました。バブル経済真っ最中で映画にもされたほど、日本中を震撼させ国民をも巻き込んだ『山一抗争』は、日本最大の暴力団組織による四代目跡目争いが発端でした。山一抗争の功労者とは?ヒットマンって?

目次

山一抗争後の山口組には、山口組三代目組長『竹中正久』の実の弟が残されていたことで、新たな火種が撒き散らかされ、その火種を横目に見ながら、実力者たちは静かにドッシリと力を進めるべき方向へ進めていきました。

山一抗争の参加者でありながら、身近で物語を見ていることで「竹中正久のようにやりすぎもよくないし、山本広のようにやらなさすぎてもダメだ」と感じていたのでしょう。

組織のあり方というか、人や物事との関わり方が非常に重要だと、あらためて気が付かされた事件になったのです。

竹中正久の実弟が無断で山本広宅を襲撃

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稲川会の仲裁で、山一抗争は表面上終結しましたが、あくまで抗争継続の構えを見せた竹中正久の実弟で竹中組組長『竹中武』は、終結に動いた渡辺芳則・中西一男・岸本才三ら山口組執行部と対立していました。

竹中武は、山口組が抗争終結を決定した直後に、竹中組を山口組からを離脱させる構えも見せ、山口組側からの慰留で中止しました。

そして1988年5月14日、竹中組安東会会長『安東美樹』が山本広宅を襲撃し、警備していた警察官3人が巻き込まれて負傷したのです。

山口組執行部渡辺の逆鱗に触れ竹中武を破門する

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竹中組安東会会長『安東美樹』が山本広宅を襲撃し、警備していた警察官3人が巻き込まれて負傷したことは渡辺芳則の逆鱗に触れ、山口組では表向きは薬を禁じており、薬をしていると言う発言は最大級の侮辱となるため「シャブ打ってやったとしか思われない」と安東美樹を非難しました。

竹中武は「渡辺芳則が山口組五代目になっては、強い山口組にはなれない」「渡辺芳則の組の、山広組事務局長『浜西時雄』を射殺し、覚せい剤取締法違反で逮捕された『井上浩』がシャブ中だろ」と発言したのです。

この事件は、山口の厄介者になっていた竹中武を山口組離脱へ導く決定打になりました。

六代目山口組組長司忍

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1942年、大分県出身。高校卒業後、地元の大手水産会社に就職した後、大阪と名古屋に移りました。1962年、三代目山口組系鈴木組内弘田組に入り、中京地区の抗争で武闘派として活動し弘田組若頭になっていました。

山口組四代目跡目問題で、弘田組組長『弘田武志』は「山本広派」でしたが、若頭『司忍』らの説得で一和会に参加せず引退しました。1984年6月、司忍が弘田組の構成員らで『弘道会』を結成、山口組直参に昇格。1988年6月、渡辺芳則が山口組五代目に決まり、司忍は山口組若頭補佐に就任し、中部ブロック長を兼任しました。

1997年8月28日、五代目山口組若頭『宅見勝』が射殺された内部抗争で「銃刀法違反」容疑で逮捕・起訴され、10億円の保釈金で保釈。2004年2月24日、逆転有罪判決を受け収監され、10億円の保証金で即日保釈。2005年3月に二代目弘道会総裁に、5月に五代目山口組若頭に就任し、7月に六代目山口組組長に就任しました。

山一抗争後の一和会

山一抗争後もしばらくは存続

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1987年2月に「山一抗争」は形式上で終結しましたが、結成時から山口組側の金銭的・実力行使による「一和会切り崩し工作」で、山口組へ寝返るものが続出し、ほぼ一方的な山口組からの猛攻撃を長期間受け、最高幹部たちが脱退したり引退したりが加速していき、1988年10月には構成員数200人にまで衰退していました。

一和会No.2の副会長兼理事長『加茂田重政』は、山一抗争の中で賭博罪で服役していました。1988年4月、北海道の傘下組長が山口組弘道会系組員に暗殺され、対応を巡り加茂田組は内部から崩壊し、5月7日、自身の引退と加茂田組の解散を表明しました。

1989年3月山本広引退及び解散を宣言、山口組本部へ出頭し謝罪

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1989年3月19日、山一抗争で惨敗した山本広は、神戸市の東灘警察署に出頭し、ヤクザからの引退することと一和会解散を表明し会は消滅しました。

3月30日、稲川会総裁稲川聖城の実子で長男の稲川会本部長『稲川裕紘』に付き添われた山本広は、山口組本家を訪れ謝罪し「史上最悪の暴力団抗争」とも呼ばれた『山一抗争』は終結しました。

山本広はその後、神戸で生活したましたが殺害されることもなく、1993年8月27日、満68歳で病院で死去しました。

山一抗争の勝因

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山一抗争の勝因は、日本最大の暴力団組織を作り上げた『田岡一雄』の山口組は、思ったほど分裂していなかったことではないでしょうか。組長が変わっていったん出ていった者たちが、外に出たことで「山菱の代紋」のちからを思い知らされたのです。

これは、現実の世界でもよくある話なので、人々の共感を得られたのでしょう。結局、壮大なスケールの人間関係の話しなので、誰かが誰かに共感してしまいやすいのです。そして、全ての物語は「勝てば官軍負ければ賊軍」として認知されます。

田岡文子

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山一抗争の勝因は様々な見方がありますが、田岡一雄の妻『田岡文子』の支持がなによりも大きかったとされています。田岡一雄の妻『田岡文子』の支持は、対内的には直参の支持に繋がり、対外的には稲川会の支持に繋がることになったからです。

特に対外関係では、一和会を支持したのは竹中正久と因縁があった広島の諸勢力のみで、山菱の代紋をなくした一和会は、現場のシノギでも競合相手に遅れを取ってしまいました。山菱の代紋をなくしただけで競合相手に遅れを取ってしまたことで山口組の力を知り、離反やお家騒動が相次いだのです。

岩手及び地方の指示

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竹中正久を支持した多くの組長は、若手及び地方出身者で、山本広派の古参・近畿出身者とは性格や人間性が対照的でした。

若手の支持があったことは前述の一和会の内紛にも通じ、地方出身者が多かったことは82年の入れ札延期につながった。すでに山口組が近畿の暴力団ではなく、全国区の暴力団であることに山広は気付いていなかったとも言われる。さらに、山広支持者は元来山広と同格の者たちが多く、上位下達式の組織運営は望めなかった。

根回しの見誤り

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なぜ「山本広派」が、数の上で山口組より有利になったのか?が疑問とされます。盃も弟分のような形式であったことから、そもそも山本広への忠誠心の数が竹中正久より多かったのではなく、山本広の方がキレて皆を引っ張っていくような竹中正久より扱いが簡単だという理由での参加も少なくなかったとも。

分裂後も山口組と併存できると言う甘い期待もあったようですが、存在自体を否定され、金銭的・実力行使による「一和会切り崩し工作」で、山口組へ寝返るものが続出するという根回しの見誤りが大きかったようです。

山一抗争をモデルにした映画

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