目次
- 津山三十人殺し事件とは
- 犯人・都井睦雄の生い立ち
- 出身・家族関係
- 幼少期
- 学生時代
- 1937年の徴兵検査
- 凶器の入手
- 事件前の警察沙汰
- 事件の真相
- 犯行の準備
- 犯行を決行
- 事件現場と被害者
- 無差別殺人ではない
- 自殺と遺書
- 犯行に至った動機とは
- 残された3つの遺書
- 自宅の遺書
- 姉宛ての遺書
- 自殺現場の遺書
- 事件の報道とその後の事件現場
- 事件後の報道
- 事件後の貝尾集落
- 現在の事件現場
- 被害者 寺井ゆり子とは
- 犯人との関係
- 人物像
- 事件で生き残る
- 現在の生存は不明
- 津山三十人殺し事件をモデルとした映画
- 「八つ墓村」
- 「丑三つの村」
- その他の事件をモデルとした作品
- 漫画「負の暗示」
- ゲーム「SIREN」
- 演劇「<津山三十人殺し> 幻視行」
- 漫画「夜見の国から」
- 津山三十人殺し事件と類似性を持つ事件
- ワグナー事件
- 山口連続殺人放火事件
- 日本犯罪史上最悪の事件
都井睦雄が起こした津山三十人殺し事件は身の毛もよだつ凄惨なものだったと言われています。はらわたが飛び出してぶら下がった状態で倒れている被害者や両方の胸に猟銃で撃たれた大きな穴が開いた被害者の血で、事件直後は集落全体から血なまぐさい臭いがしていたのだそうです。
しかし、犯行に至るまでの都井の行動は非常に計画的で無駄のないものでした。そう考えると、都井という男は非常に高い知能を持ち、物事を深く考え理解することが出来る人物であったと推測されます。しかし一方で、その高い知能と強い自尊心が災いしたとも考えられるのです。
しかし、犯行に至るまでの都井の行動は非常に計画的で無駄のないものでした。そう考えると、都井という男は非常に高い知能を持ち、物事を深く考え理解することが出来る人物であったと推測されます。しかし一方で、その高い知能と強い自尊心が災いしたとも考えられるのです。
犯行の準備
via pixabay.com
都井は事件の数日前から、凶器の準備なども含めた犯行の準備を、用意周到に進めていたことが後の捜査で判明しています。その内容として、まず都井は隣町の加茂町にある駐在所まで、難を逃れた村人たちが助けを求めた際、どのくらい時間がかかるか自ら自転車を走らせて確認していたと言います。
そして、犯行の前日にあたる1983年(昭和13年)5月20日の午後5時頃、電柱によじ登って送電線を切断し、貝尾集落全体をわざと停電させています。しかし、集落の人々は停電したことを特に不審に感じることもなく、電気の管理会社への連絡や「なぜ、停電したのか?」調べることもしなかったそうです。
そして、犯行の前日にあたる1983年(昭和13年)5月20日の午後5時頃、電柱によじ登って送電線を切断し、貝尾集落全体をわざと停電させています。しかし、集落の人々は停電したことを特に不審に感じることもなく、電気の管理会社への連絡や「なぜ、停電したのか?」調べることもしなかったそうです。
犯行を決行
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そして都井は、翌日の5月21日1時40分頃ついに行動を開始します。都井は真っ暗な村の中を移動しやすいよう詰襟の学生服を身にまとい、脛には軍用のゲートル足には地下足袋を身に付け、頭に巻いた鉢巻の両側に小型の懐中電灯を1本づつ結わえるといういで立ちで、さらに首から自転車用のナショナルランプを提げていたと言います。
そして腰には日本刀一振りに匕首(あいくち)2振り、手には自ら改造した9連発ブローニング猟銃を持ち近隣の村人たちを約1時間半のうちに、次々と襲い殺害して行きました。
そして腰には日本刀一振りに匕首(あいくち)2振り、手には自ら改造した9連発ブローニング猟銃を持ち近隣の村人たちを約1時間半のうちに、次々と襲い殺害して行きました。
事件現場と被害者
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都井が起こした事件の最初の現場となったのは、なんと自宅でした。都井は一番最初に、就寝中の祖母の首を斧ではねて即死させています。
次に、都井の自宅の隣であったA宅に侵入し、Aの妻と子ども3人を殺害、2軒目のB宅ではBの妻と娘2人を射殺、3軒目のC宅ではCとその妻、さらに農作業の手伝いにきていた親戚も射殺、4軒目のD宅ではDとその長男と長男の妻、Dの5女と6女を射殺、4女は隣のE宅に逃げ込みました。
そして5軒目にD家の4女が逃げ込んだE宅にも侵入し、Eの父親が射殺され、D家の4女とE家の4女が負傷しました。6件目はF宅で、Fとその母親を射殺、7件目のG宅ではGの妻と泊まり込みで養蚕の手伝いに来ていた娘2人を射殺、8軒目のH宅では、Hの妹と母親を射殺し、逃げ切ったHは隣町の駐在所に通報しています。
次に、都井の自宅の隣であったA宅に侵入し、Aの妻と子ども3人を殺害、2軒目のB宅ではBの妻と娘2人を射殺、3軒目のC宅ではCとその妻、さらに農作業の手伝いにきていた親戚も射殺、4軒目のD宅ではDとその長男と長男の妻、Dの5女と6女を射殺、4女は隣のE宅に逃げ込みました。
そして5軒目にD家の4女が逃げ込んだE宅にも侵入し、Eの父親が射殺され、D家の4女とE家の4女が負傷しました。6件目はF宅で、Fとその母親を射殺、7件目のG宅ではGの妻と泊まり込みで養蚕の手伝いに来ていた娘2人を射殺、8軒目のH宅では、Hの妹と母親を射殺し、逃げ切ったHは隣町の駐在所に通報しています。
via pixabay.com
さらに9件目のI宅では、Iの両親と妻・子どもを射殺し、10件目のJ宅では、Jの妻が雨戸を開けて外を確認している時に射殺、最後の11件目のK宅ではKとその妻を射殺しています。
無差別殺人ではない
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最終的に死者30名、重傷者3名の被害者を出した都井による一連の犯行は、非常に計画的かつ冷静に行われたと言われています。また、ただの無差別殺人ではないとも言われているのです。
その根拠としては、都井が3軒目のC宅に侵入した際、Cの母親が「頼むから、堪えて下さい」と足もとにひざまずいて懇願した際、「お前のところ(C家)にはもともと恨みは持っていなかったが、(都井が恨みを持っている家から)嫁をもらったから殺さないといけなくなった」と言って猟銃を発砲しています。
また、7件目のG宅に侵入した際、返り血を浴びて逃げる事もせず呆然と座っているGに対して「お前はわし(都井)の悪口を言わなかったから、堪えてやるからな」と言ってGを見逃したそうです。
その根拠としては、都井が3軒目のC宅に侵入した際、Cの母親が「頼むから、堪えて下さい」と足もとにひざまずいて懇願した際、「お前のところ(C家)にはもともと恨みは持っていなかったが、(都井が恨みを持っている家から)嫁をもらったから殺さないといけなくなった」と言って猟銃を発砲しています。
また、7件目のG宅に侵入した際、返り血を浴びて逃げる事もせず呆然と座っているGに対して「お前はわし(都井)の悪口を言わなかったから、堪えてやるからな」と言ってGを見逃したそうです。
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さらにあるお宅では、「決して動かないから助けてくれ」という家主の懇願に対し、「そこまで命がおしいなら、よし助けてやろう」そう言ってその場を立ち去ったのだそうです。
自殺と遺書
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凄惨な事件の後、都井は自殺することを決意していたためか、隣の集落の一軒家を訪れ遺書を書くための紙と鉛筆を借りたそうです。家人は都井の異様な姿に驚いて動けない状態だったそうですが、その家の子どもは以前から都井と顔見知りであったため、その子に頼んで紙と鉛筆を用意してもらいました。
都井は去り際その子に向かって「うんと勉強して、偉くなれよ」と声をかけたのでそうです。そして、そこから3.5km離れた仙の城と呼ばれる荒坂峠の山頂で、あらかじめ書いておいたのとは別の遺書を書いた後に、猟銃で自らの心臓を撃ち抜いて自殺しました。
都井の遺体は翌朝の山狩りで発見され、即死だったと見られています。
都井は去り際その子に向かって「うんと勉強して、偉くなれよ」と声をかけたのでそうです。そして、そこから3.5km離れた仙の城と呼ばれる荒坂峠の山頂で、あらかじめ書いておいたのとは別の遺書を書いた後に、猟銃で自らの心臓を撃ち抜いて自殺しました。
都井の遺体は翌朝の山狩りで発見され、即死だったと見られています。
犯行に至った動機とは
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ここまで津山三十人殺し事件を見てきましたが、ただの無差別大量殺人事件ではないことは分かりましたね。都井は特殊な家庭環境で育ち、病弱な体質から徴兵検査で不合格となり、さらに現在では正しい治療で直る結核が当時は不治の病であったため村人たちから孤立していきました。
そんな都井の中で村人たちに対して強い怨恨が育っていったとしてもおかしくありません。こうした差別的な扱いは当時の日本社会の闇を表していますが、それがこれだけの凄惨な殺人事件につながったケースは記録に残っている限り、津山三十人殺し事件の他にはないと言われています。
そんな都井の中で村人たちに対して強い怨恨が育っていったとしてもおかしくありません。こうした差別的な扱いは当時の日本社会の闇を表していますが、それがこれだけの凄惨な殺人事件につながったケースは記録に残っている限り、津山三十人殺し事件の他にはないと言われています。
残された3つの遺書
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都井睦雄は約1時間半の間で村人を30人以上殺傷して回った後、午前3時半ごろ寝静まった隣村の一軒家に忍び込んでいます。その際都井は家主に対して「怯えなさんな急ぐんじゃ、紙と鉛筆をもらいたい。警察がこの下まで、自動車で(自分のことを)追ってきている」と話したそうです。
実は都井は子どもたちに紙芝居を見せることがあったそうで、そこで顔見知りだったこの家の小学5年生の孫に、怯えて動けない家主に変って遺書を書くための紙と鉛筆を用意してもらい、それを持って山の中に入りました。
そして遺書を書いた後に猟銃を左胸に当てて両手でしっかりと銃身を固定し、足で引き金を引いたのだそうです。都井の死亡推定時刻は午前5時ごろとされており、その後自宅でも2通の遺書が発見されたため、都井の書いた遺書は3つあったことになります。
実は都井は子どもたちに紙芝居を見せることがあったそうで、そこで顔見知りだったこの家の小学5年生の孫に、怯えて動けない家主に変って遺書を書くための紙と鉛筆を用意してもらい、それを持って山の中に入りました。
そして遺書を書いた後に猟銃を左胸に当てて両手でしっかりと銃身を固定し、足で引き金を引いたのだそうです。都井の死亡推定時刻は午前5時ごろとされており、その後自宅でも2通の遺書が発見されたため、都井の書いた遺書は3つあったことになります。
自宅の遺書
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都井睦雄は犯行の3日前に、犯行の計画書とも捉えることの出来る「書置」と言われる遺書を書いているようです。そこには、どうやら都井のことを「早くしないと病気のために弱るばかりだ」と悪口を言った女性の名前をあげて「復讐のために殺す」と書かれており、犯行の決意がうかがえる文面になっているようです。
また、そこには「自分がこの度死するに望み一筆書き置きます。」と始まって、真面目な学生として先生に可愛がられた自分がこんな運命になる(結核と診断され村八分に合う)なんて想像もつかなかったと書かれています。
そして、病気と付き合ってきたことなどが書かれており、自分が歩んできた人生の回顧録のようにも見て取れます。
また、そこには「自分がこの度死するに望み一筆書き置きます。」と始まって、真面目な学生として先生に可愛がられた自分がこんな運命になる(結核と診断され村八分に合う)なんて想像もつかなかったと書かれています。
そして、病気と付き合ってきたことなどが書かれており、自分が歩んできた人生の回顧録のようにも見て取れます。
姉宛ての遺書
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