2019年9月5日 更新

日本史上最悪の「津山三十人殺し事件」の概要とその真相とは?

日本史上最悪の事件と言われる「津山三十人殺し事件」をご存知でしょうか?今回は、事件から80年以上経った今でも、風化することなく残る津山事件について、その真相や事件の現場、犯人が残した遺書や事件を題材にした映画などの作品についてご紹介します。

都井睦雄が起こした津山三十人殺し事件は身の毛もよだつ凄惨なものだったと言われています。はらわたが飛び出してぶら下がった状態で倒れている被害者や両方の胸に猟銃で撃たれた大きな穴が開いた被害者の血で、事件直後は集落全体から血なまぐさい臭いがしていたのだそうです。

しかし、犯行に至るまでの都井の行動は非常に計画的で無駄のないものでした。そう考えると、都井という男は非常に高い知能を持ち、物事を深く考え理解することが出来る人物であったと推測されます。しかし一方で、その高い知能と強い自尊心が災いしたとも考えられるのです。

犯行の準備

Morgenrot Bright Sunrise - Free photo on Pixabay (602205)

都井は事件の数日前から、凶器の準備なども含めた犯行の準備を、用意周到に進めていたことが後の捜査で判明しています。その内容として、まず都井は隣町の加茂町にある駐在所まで、難を逃れた村人たちが助けを求めた際、どのくらい時間がかかるか自ら自転車を走らせて確認していたと言います。

そして、犯行の前日にあたる1983年(昭和13年)5月20日の午後5時頃、電柱によじ登って送電線を切断し、貝尾集落全体をわざと停電させています。しかし、集落の人々は停電したことを特に不審に感じることもなく、電気の管理会社への連絡や「なぜ、停電したのか?」調べることもしなかったそうです。

犯行を決行

Knife Stabbing Stab - Free photo on Pixabay (602209)

そして都井は、翌日の5月21日1時40分頃ついに行動を開始します。都井は真っ暗な村の中を移動しやすいよう詰襟の学生服を身にまとい、脛には軍用のゲートル足には地下足袋を身に付け、頭に巻いた鉢巻の両側に小型の懐中電灯を1本づつ結わえるといういで立ちで、さらに首から自転車用のナショナルランプを提げていたと言います。

そして腰には日本刀一振りに匕首(あいくち)2振り、手には自ら改造した9連発ブローニング猟銃を持ち近隣の村人たちを約1時間半のうちに、次々と襲い殺害して行きました。

事件現場と被害者

Hand Table Cloth Crime Black And - Free photo on Pixabay (602210)

都井が起こした事件の最初の現場となったのは、なんと自宅でした。都井は一番最初に、就寝中の祖母の首を斧ではねて即死させています。

次に、都井の自宅の隣であったA宅に侵入し、Aの妻と子ども3人を殺害、2軒目のB宅ではBの妻と娘2人を射殺、3軒目のC宅ではCとその妻、さらに農作業の手伝いにきていた親戚も射殺、4軒目のD宅ではDとその長男と長男の妻、Dの5女と6女を射殺、4女は隣のE宅に逃げ込みました。

そして5軒目にD家の4女が逃げ込んだE宅にも侵入し、Eの父親が射殺され、D家の4女とE家の4女が負傷しました。6件目はF宅で、Fとその母親を射殺、7件目のG宅ではGの妻と泊まり込みで養蚕の手伝いに来ていた娘2人を射殺、8軒目のH宅では、Hの妹と母親を射殺し、逃げ切ったHは隣町の駐在所に通報しています。
Background Blood Stain - Free image on Pixabay (602216)

さらに9件目のI宅では、Iの両親と妻・子どもを射殺し、10件目のJ宅では、Jの妻が雨戸を開けて外を確認している時に射殺、最後の11件目のK宅ではKとその妻を射殺しています。

無差別殺人ではない

Crime Criminal Murder - Free image on Pixabay (602221)

最終的に死者30名、重傷者3名の被害者を出した都井による一連の犯行は、非常に計画的かつ冷静に行われたと言われています。また、ただの無差別殺人ではないとも言われているのです。

その根拠としては、都井が3軒目のC宅に侵入した際、Cの母親が「頼むから、堪えて下さい」と足もとにひざまずいて懇願した際、「お前のところ(C家)にはもともと恨みは持っていなかったが、(都井が恨みを持っている家から)嫁をもらったから殺さないといけなくなった」と言って猟銃を発砲しています。

また、7件目のG宅に侵入した際、返り血を浴びて逃げる事もせず呆然と座っているGに対して「お前はわし(都井)の悪口を言わなかったから、堪えてやるからな」と言ってGを見逃したそうです。
Walkers Autumn Fog - Free photo on Pixabay (602222)

さらにあるお宅では、「決して動かないから助けてくれ」という家主の懇願に対し、「そこまで命がおしいなら、よし助けてやろう」そう言ってその場を立ち去ったのだそうです。

自殺と遺書

Cliff Ledge Wonder - Free photo on Pixabay (602233)

凄惨な事件の後、都井は自殺することを決意していたためか、隣の集落の一軒家を訪れ遺書を書くための紙と鉛筆を借りたそうです。家人は都井の異様な姿に驚いて動けない状態だったそうですが、その家の子どもは以前から都井と顔見知りであったため、その子に頼んで紙と鉛筆を用意してもらいました。

都井は去り際その子に向かって「うんと勉強して、偉くなれよ」と声をかけたのでそうです。そして、そこから3.5km離れた仙の城と呼ばれる荒坂峠の山頂で、あらかじめ書いておいたのとは別の遺書を書いた後に、猟銃で自らの心臓を撃ち抜いて自殺しました。

都井の遺体は翌朝の山狩りで発見され、即死だったと見られています。

犯行に至った動機とは

Discovery Offender Crime - Free photo on Pixabay (602235)

ここまで津山三十人殺し事件を見てきましたが、ただの無差別大量殺人事件ではないことは分かりましたね。都井は特殊な家庭環境で育ち、病弱な体質から徴兵検査で不合格となり、さらに現在では正しい治療で直る結核が当時は不治の病であったため村人たちから孤立していきました。

そんな都井の中で村人たちに対して強い怨恨が育っていったとしてもおかしくありません。こうした差別的な扱いは当時の日本社会の闇を表していますが、それがこれだけの凄惨な殺人事件につながったケースは記録に残っている限り、津山三十人殺し事件の他にはないと言われています。

残された3つの遺書

Old Letters Letter - Free photo on Pixabay (602496)

都井睦雄は約1時間半の間で村人を30人以上殺傷して回った後、午前3時半ごろ寝静まった隣村の一軒家に忍び込んでいます。その際都井は家主に対して「怯えなさんな急ぐんじゃ、紙と鉛筆をもらいたい。警察がこの下まで、自動車で(自分のことを)追ってきている」と話したそうです。

実は都井は子どもたちに紙芝居を見せることがあったそうで、そこで顔見知りだったこの家の小学5年生の孫に、怯えて動けない家主に変って遺書を書くための紙と鉛筆を用意してもらい、それを持って山の中に入りました。

そして遺書を書いた後に猟銃を左胸に当てて両手でしっかりと銃身を固定し、足で引き金を引いたのだそうです。都井の死亡推定時刻は午前5時ごろとされており、その後自宅でも2通の遺書が発見されたため、都井の書いた遺書は3つあったことになります。

自宅の遺書

Writing Pen Man - Free photo on Pixabay (602500)

都井睦雄は犯行の3日前に、犯行の計画書とも捉えることの出来る「書置」と言われる遺書を書いているようです。そこには、どうやら都井のことを「早くしないと病気のために弱るばかりだ」と悪口を言った女性の名前をあげて「復讐のために殺す」と書かれており、犯行の決意がうかがえる文面になっているようです。

また、そこには「自分がこの度死するに望み一筆書き置きます。」と始まって、真面目な学生として先生に可愛がられた自分がこんな運命になる(結核と診断され村八分に合う)なんて想像もつかなかったと書かれています。

そして、病気と付き合ってきたことなどが書かれており、自分が歩んできた人生の回顧録のようにも見て取れます。

姉宛ての遺書

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