目次
- 津山三十人殺し事件とは
- 犯人・都井睦雄の生い立ち
- 出身・家族関係
- 幼少期
- 学生時代
- 1937年の徴兵検査
- 凶器の入手
- 事件前の警察沙汰
- 事件の真相
- 犯行の準備
- 犯行を決行
- 事件現場と被害者
- 無差別殺人ではない
- 自殺と遺書
- 犯行に至った動機とは
- 残された3つの遺書
- 自宅の遺書
- 姉宛ての遺書
- 自殺現場の遺書
- 事件の報道とその後の事件現場
- 事件後の報道
- 事件後の貝尾集落
- 現在の事件現場
- 被害者 寺井ゆり子とは
- 犯人との関係
- 人物像
- 事件で生き残る
- 現在の生存は不明
- 津山三十人殺し事件をモデルとした映画
- 「八つ墓村」
- 「丑三つの村」
- その他の事件をモデルとした作品
- 漫画「負の暗示」
- ゲーム「SIREN」
- 演劇「<津山三十人殺し> 幻視行」
- 漫画「夜見の国から」
- 津山三十人殺し事件と類似性を持つ事件
- ワグナー事件
- 山口連続殺人放火事件
- 日本犯罪史上最悪の事件
津山三十人殺し事件とは
via pixabay.com
津山事件と聞いても、現代の日本人のほとんどはピンとこないかもしれません。津山事件とは、日中戦争中の1938年(昭和13年)5月21日に、岡山県津山市加茂町行重というところにある、貝尾・坂元の両集落で起こった大量殺人事件です。
わずか1時間半の間に、28人を日本刀や猟銃などを使って殺害し、そのうち5人に重軽傷を負わせ、うち2人は被害にあった日に亡くなりました。そのため、津山三十人殺し事件とも呼ばれています。
今回は、単独殺人犯による殺人事件では、20世紀以降世界で5番目に被害者の数が多いと言われる津山連続殺人事件についてご紹介します。
わずか1時間半の間に、28人を日本刀や猟銃などを使って殺害し、そのうち5人に重軽傷を負わせ、うち2人は被害にあった日に亡くなりました。そのため、津山三十人殺し事件とも呼ばれています。
今回は、単独殺人犯による殺人事件では、20世紀以降世界で5番目に被害者の数が多いと言われる津山連続殺人事件についてご紹介します。
綾瀬コンクリート事件の全貌!犯人達の生い立ちや現在の様子も - POUCHS(ポーチス)
未成年が犯人だった事件として知られる、綾瀬コンクリート殺人事件。この事件は、少年法で守られた少年のほとんどが再犯となり再び捕まります。この記事では、綾瀬コンクリート殺人事件の詳細と再犯や現在の様子、また噂されている飯島愛の真相についてもご紹介していきましょう。
犯人・都井睦雄の生い立ち
via pixabay.com
人間は誰しも殺意を感じる感情を持っているのだそうす。その中でも特に多いのが怨恨と呼ばれるもので、人は自分が愛する人に振られたり、お金に困っていて借金のお願いをしたのに断られたり、相手にたいする依存心を拒絶されたりすると、それが時として強い恨みに変ることがあるのだそうです。
そして、そこに何らかのきっかけが加わることで殺人になる可能性があると言われています。事件の犯人である都井睦雄(とい むつお)が犯行に至ったきっかけは何であったのか?まずは、都井の生い立ちにてついて見て行きましょう。
そして、そこに何らかのきっかけが加わることで殺人になる可能性があると言われています。事件の犯人である都井睦雄(とい むつお)が犯行に至ったきっかけは何であったのか?まずは、都井の生い立ちにてついて見て行きましょう。
出身・家族関係
via pixabay.com
犯人の都井睦雄は、1917年(大正6年)3月5日、岡山県苫田郡賀茂村大字倉見(現岡山県北部の津山市)に生まれました。都井睦雄の家族には父・母・祖母と姉がいましたが、都井がわずか2歳の時父が亡くなり、続いて3歳の時母を亡くしています。両方とも結核だったそうです。
そんな孫の睦男を不憫に思ったのか、祖母は睦男を溺愛して過保護に育てたそうです。子どもの頃から「お前は優秀だ」と言い聞かせていたようで、睦男は勉強のできる優秀な子に育ちましたが、両親の愛情を知ることはなく孤独な子ども時代を送りました。
そんな睦男にとって姉は、その孤独を唯一分かち合える特別な存在だったのではないかと推測されます。
そんな孫の睦男を不憫に思ったのか、祖母は睦男を溺愛して過保護に育てたそうです。子どもの頃から「お前は優秀だ」と言い聞かせていたようで、睦男は勉強のできる優秀な子に育ちましたが、両親の愛情を知ることはなく孤独な子ども時代を送りました。
そんな睦男にとって姉は、その孤独を唯一分かち合える特別な存在だったのではないかと推測されます。
幼少期
via pixabay.com
両親を亡くした都井姉弟は、後見人(親代わり)となった祖母と共に、現在の加茂町の中心部である塔中(たっちゅう)という場所に引っ越しました。そして、都井が6歳の時には祖母の生まれ故郷でもある津山三十人殺し事件の舞台となった貝尾集落に、一家で移り住んでいます。
都井家には、その当時ある程度の所得と資産があったため、畑仕事をしながら比較的余裕のある生活を送ることが出来ていたと言われています。祖母はこの頃、自分の体調不良などを理由に都井睦雄に家にいるよう要求したため、睦雄は同年代の友達を作ることが出来ず、尋常高等小学校への就学も1年遅れたと言われています。
都井家には、その当時ある程度の所得と資産があったため、畑仕事をしながら比較的余裕のある生活を送ることが出来ていたと言われています。祖母はこの頃、自分の体調不良などを理由に都井睦雄に家にいるよう要求したため、睦雄は同年代の友達を作ることが出来ず、尋常高等小学校への就学も1年遅れたと言われています。
学生時代
via pixabay.com
都井家に経済的な余裕があったこともあり、都井は尋常高等小学校に通いました。就学後も祖母のことがあり、度々欠席を余儀なくされましたが、成績は優秀で級長なども務める優等生だったそうです。
ちなみに尋常高等小学校とは、日本で国民学校令(小学校への4年間の就学を義務教育として定めるなどした法律)が制定される前に存在した学校(帝国大学・師範学校・小学校・中学校)のことで、国民学校令制定によって「尋常小学校」と「高等小学校」に分けられてしまったカリキュラムを「尋常高等小学校」1校で学ぶことが出来ました。
ですが今の義務教育とは違い、月謝という形で授業料を払う必要がありましたので、経済的に余裕のない家庭の子どもは通うことが出来ませんでした。また、子どもは家の手伝いをするのが当たり前という考えがまだまだ主流でしたので、そう考えると都井睦雄は経済的には恵まれた環境に生活していたということになります。
ちなみに尋常高等小学校とは、日本で国民学校令(小学校への4年間の就学を義務教育として定めるなどした法律)が制定される前に存在した学校(帝国大学・師範学校・小学校・中学校)のことで、国民学校令制定によって「尋常小学校」と「高等小学校」に分けられてしまったカリキュラムを「尋常高等小学校」1校で学ぶことが出来ました。
ですが今の義務教育とは違い、月謝という形で授業料を払う必要がありましたので、経済的に余裕のない家庭の子どもは通うことが出来ませんでした。また、子どもは家の手伝いをするのが当たり前という考えがまだまだ主流でしたので、そう考えると都井睦雄は経済的には恵まれた環境に生活していたということになります。
via pixabay.com
都井は尋常高等小学校を卒業後、肋膜炎(肺の外部を覆う胸膜に炎症が起こる疾患で、通常はガンや結核、肺炎などの後に発症する事が多いとされる)を患い医者から農作業を禁止されてしまったことで手持無沙汰な生活を余儀なくされました。
ですが、病状は直ぐに回復し実業補習学校(今で言う職業訓練校のようなもの)に入学しました。しかし、姉が結婚して家を出てしまうと、徐々に学校に行かなくなり家に引きこもるようになっていったと言われています。
ですが、病状は直ぐに回復し実業補習学校(今で言う職業訓練校のようなもの)に入学しました。しかし、姉が結婚して家を出てしまうと、徐々に学校に行かなくなり家に引きこもるようになっていったと言われています。
1937年の徴兵検査
via pixabay.com
1937年(昭和12年)は盧溝橋事件を機に日中戦争が勃発した年でした。都井は徴兵検査を受けましたが、結核を理由に入営には不適合と判断され、実質上の不合格とされたことで面目丸つぶれになりました。
当時日本は欧米諸国との緊張関係が高まっており、日中戦争を戦っている最中であったため、戦地に赴いて「国のために働く」ことが出来ない男性を、侮蔑する空気が国全体に漂っていました。そのため、兵隊に入り戦地に行くことが出来ないことは、都井のプライドを深く傷つけたようです。
さらに結核という噂が村の中を瞬く間に広がり、都井は村の人々から無視されたり悪口を言われたり、仲間外れにされたりと次第に孤独な立場へと追いやられて行きました。また、それまで都井と男女の関係があったとされる女性たちにまで拒否されたことで、都井は心の中に強い恨みを募らせていったと考えられています。
当時日本は欧米諸国との緊張関係が高まっており、日中戦争を戦っている最中であったため、戦地に赴いて「国のために働く」ことが出来ない男性を、侮蔑する空気が国全体に漂っていました。そのため、兵隊に入り戦地に行くことが出来ないことは、都井のプライドを深く傷つけたようです。
さらに結核という噂が村の中を瞬く間に広がり、都井は村の人々から無視されたり悪口を言われたり、仲間外れにされたりと次第に孤独な立場へと追いやられて行きました。また、それまで都井と男女の関係があったとされる女性たちにまで拒否されたことで、都井は心の中に強い恨みを募らせていったと考えられています。
凶器の入手
via pixabay.com
都井は徴兵検査に落ちてからしばらくして狩猟免許を取得し、津山で2連発の散弾銃を購入しています。そして翌年の1938年(昭和13年)には、その散弾銃を神戸で下取りに出し、さらに猛獣用の12番口径5連発ブローニング狩猟銃を購入しました。
猟銃を手に持って村の中を徘徊し、毎日山にこもって射撃練習に励む都井の姿は、近隣の村人たちに言い知れぬ不安を与えていたと言われています。都井はこの頃すでに犯行を計画しており、その準備のために自宅や土地を担保に借金をしていました。
猟銃を手に持って村の中を徘徊し、毎日山にこもって射撃練習に励む都井の姿は、近隣の村人たちに言い知れぬ不安を与えていたと言われています。都井はこの頃すでに犯行を計画しており、その準備のために自宅や土地を担保に借金をしていました。
事件前の警察沙汰
via pixabay.com
しかし、都井が計画した犯行の前に一つの警察沙汰が起こります。この頃、祖母の病気治癒を目的として、都井が食事の味噌汁に薬を入れていたのだそうですが、その姿を祖母に目撃されてしまい、祖母が「孫に毒殺される」と騒いだことで警察に訴えられ家宅捜索を受けることになったのです。
この家宅捜索により、都井が犯行目的で用意していたとされる猟銃一式の他、日本刀や短刀、匕首(あいくち)などが警察によって押収され、猟銃所持の許可も取り消されました。
都井はこの件で凶器類すべてを没収されましたが、その後知人を通じで猟銃と弾薬を購入し、刀剣愛好家からは日本刀を譲りうけるなどして、再び凶器を入手したと言われています。
この家宅捜索により、都井が犯行目的で用意していたとされる猟銃一式の他、日本刀や短刀、匕首(あいくち)などが警察によって押収され、猟銃所持の許可も取り消されました。
都井はこの件で凶器類すべてを没収されましたが、その後知人を通じで猟銃と弾薬を購入し、刀剣愛好家からは日本刀を譲りうけるなどして、再び凶器を入手したと言われています。
池袋通り魔殺人事件を起こした造田博の生い立ちは?事件後の現在とは - POUCHS(ポーチス)
池袋通り魔殺人事件は2名の死者と6名の重傷者を出した事件で、犯人の造田博は死刑を言い渡されて現在は東京拘置所に収監されています。複雑な生い立ちの持ち主ですが犯行動機は非常に身勝手なものです。事件の概要や生い立ちについてご紹介します。
事件の真相
via pixabay.com
1 / 5