2019年9月5日 更新

日本史上最悪の「津山三十人殺し事件」の概要とその真相とは?

日本史上最悪の事件と言われる「津山三十人殺し事件」をご存知でしょうか?今回は、事件から80年以上経った今でも、風化することなく残る津山事件について、その真相や事件の現場、犯人が残した遺書や事件を題材にした映画などの作品についてご紹介します。

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また「姉上様」という姉に宛てた遺書も残しており、そこには「お姉さん、早く病気を治して下さい。(自分の分まで)この世で強く生きて下さい。」といった内容が書かれていたようです。

都井は3歳年上の姉を強く恋い慕っていたのではないかと言われています。それはまだ都井が高等小学校に在籍していた頃のことです。都井は、1学年年下の後輩に恋心を抱き、その相手に自分で描いた肖像画を贈って告白したそうです。その肖像画は都井の姉に良く似ていたのだそうです。

また、姉が結婚した頃から都井が引きこもりがちになっていった事からしても、都井は姉に特別な感情を抱いていたことが推測され、これが都井の女性に対するある種の執着心に繋がっているのではないかと考えられています。

自殺現場の遺書

Man Face Psychosis - Free photo on Pixabay (602537)

都井睦雄が自殺現場に残した遺書には、まず冒頭で自分が殺した祖母に対する謝罪の念がつづられています。また、祖母を殺さなければならなかった事情やその首を切り落とすという殺害方法についても後悔を感じていることを書いています。

次に文章は姉に対する謝罪へと移って行きます。このような事件を起こした自分に墓はいらないこと、結核によって村の中で冷淡な扱いを受け辛く悲しかったこと、社会にはもっと結核患者に対する同情心を持って欲しいこと、そして今度は強い体に生まれたいそんな思いがつづられています。

そして最後に、今日この犯行を決行したのは、以前関係があったのに他家に嫁いだ寺井ゆり子と自分の悪口を言った西山良子が里帰りしているためと説明し、さらに寺元倉一、岸本順一という特定の人物に対する非難をつづっています。この遺書からは、都井が非常に分かりやすく自身の思いを説明している様子が伝わってきます。

事件の報道とその後の事件現場

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現在でも津山三十人殺し事件は人々の注目を集めており、事件が起こった本当の理由を知るために、事件の生存者の証言や都井睦雄の残した遺書などから、事件に至った原因の究明が行われています。

事件から80年以上経った今でも人々の関心を集める津山三十人殺し事件は、当時世紀の大事件として新聞やラジオで大々的に報道され新聞は号外も出されました。また、「少年倶楽部」などの少年向け雑誌でも特集が組まれたこともあり、いかに人々の注目を集めていたかが分かります。

事件後の報道

Hand Woman Female - Free photo on Pixabay (602548)

事件後の報道では、その当時村に「夜這い」と言われる風習があったことが取り上げられています。「夜這い」とは、夜になると女性の寝床に男性が侵入して性行為を楽しむことを言います。現在のようにゲームやアニメ、テレビや娯楽施設などの楽しみが全くない村では、性行為が唯一の楽しみだったのだそうです。

都井は徴兵検査で軽度の結核と診断されるまでは、村一番の秀才と言われ村の女性達にモテていたそうです。そのため、村の数人の女性達と性的な関係があったようです。ですが、結核と診断されると手のひらをかえしたかのように、村の女性達から避けられ陰口をたたかれるようになりました。

報道ではこうした悪しき風習であった「夜這い」を、戦時中の愚劣な不貞行為として強く非難しています。また、事件のその日のうちに、「昭和の鬼熊事件」という見出しで号外が出されています。

事件後の貝尾集落

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この津山三十人殺し事件が貝尾集落に与えた影響はとても大きく、事件によって一家全滅した家もあれば、一家の働き手の大部分を失った家もあり、集落のほとんどの家は農業で生計を立てていたため、村人たちの生活は苦しくなったと言われています。

また、都井の親族や襲撃を免れた一家が以前から都井の計画を知っていながらも隠し立てしたのではないかと疑われ、村八分に近い扱いを受けたとも言われています。

一方で、事件の生存者のほとんどは、亡くなった被害者と親戚関係があり、都井自身が死亡してしまったため、全ての罪を都井にかぶせてしまう者が多かったという意見もあるようです。

現在の事件現場

Autumn Road Fallen Leaves - Free photo on Pixabay (602558)

津山三十人殺し事件が起こった貝尾集落が現在どうなっているのか気になりますよね。結論から言ってしまえば、貝尾集落はなんと現在でも存在しているようです。

ただし、近年の少子高齢化で限界集落(人口の50%以上が65歳以上で、集落の維持が困難になりつつある集落)になっており、2010年の国勢調査では13世帯37人と報告されているようです。ちなみに、事件の起こった当時に住んでいた人は、亡くなったり、村を出ていくなどして一人も残っていないのだそうです。

2015年には、長い間廃墟となっていた都井家も取り壊されてしまったようです。

被害者 寺井ゆり子とは

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都井が津山三十人殺し事件を起こした原因は、結核により村の人達から冷淡に扱われ、村八分にされたことによる強い怨恨と言われていますが、実はそれだけではないとも言われているのです。

実は都井には幼馴染の婚約者がいたようで、結核になってしまった都井とその女性を引き離すために、村の人たちがその女性と他の男性を結婚させたことが大きな原因と考えられています。しかも、都井と引き離されてしまった女性は当時妊娠していたも言われており、子どもは直ぐに殺されてしまったのだそうです。

この女性は寺井ゆり子さんと言われており、都井が遺書で殺そうとしたけれど殺せなかった女性に該当するようです。ここでは、被害者寺井ゆり子さんについて見て行きましょう。

犯人との関係

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都井睦雄と被害者寺井ゆり子さんの関係ですが、もともと二人は幼馴染で当時村の名士だった都井と村の中でも美人と評判だった寺井ゆり子さんは、婚約していたと言われています。

さらに、二人の間には夜這いの関係があったとも噂されていますが、都井の一方的な妄想だったとも言われており真偽のほどは定かではありません。

しかし、都井が寺井ゆり子さんに対して強い好意を寄せていたことは確かなようです。都井が津山三十人殺し事件で寺井さんの実家に押し入った際「お前(寺井ゆり子)を残してはいけない」と言って、執拗に凶器の銃を乱射していた様子に、都井の思いの強さが表れています。

人物像

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都井とは幼馴染で婚約関係にあったとされる寺井ゆり子さんですが、都井が結核と診断されたことにより二人は破局してしまったそうです。寺井さんはその後、丹羽卯一という男性と結婚しています。

しかし最初の夫の丹羽卯一さんも結核で、出征してまもなく兵舎で亡くなったと言われています。寺井ゆり子さんは夫の死を役所に届けて申請し、多額の遺族年金を受け取っていたようで、それを見た貝尾集落の人たちは「都井睦雄を騙して、夫の死因を偽ってお金をもらうなんて、よく罰があたらないものだ」と話していたそうです。

そして寺井ゆり子さんは、結核で亡くなったことを理由に最初の夫と離婚し、隣村の坂本集落の上村岩男という男性と結婚しています。

事件で生き残る

Victim Candles Memorial - Free photo on Pixabay (602608)

寺井ゆり子さんの相次ぐ結婚・離婚の話を耳にした都井睦雄は何を思ったのでしょうか?都井睦雄は寺井ゆり子さんの里帰りに合わせて犯行を実行したと遺書にも書いていたように、寺井さんが弟の結婚式のために友人と実家に戻ってきた3日後に、事件が起こっています。

しかし事件当日、寺井ゆり子さんは実家に都井が踏み込んできたタイミングで隣家に逃げて助かっています。隣家の家人にかくまってもらい、床下に隠れたことで都井の発砲した猟銃の銃弾が喉をかする程度で済んだのです。

ですが一緒に里帰りをした友人や家族5人、自分が逃げ込んだ隣家の家人は殺害されてしまい、その時感じた恐怖や家族を失った悲しみ、自責の念がどれほどのものであったかは想像もつきません。

現在の生存は不明

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