目次
- ハーメルンの笛吹き男の伝承
- ハーメルンの笛吹き男のあらすじ
- 笛吹き男のネズミ退治
- 笛吹き男が子どもを連れ去る
- 子ども達はハンチントン舞踏病だった?
- 物語の子ども達の様子
- ハンチントン舞踏病とは?
- ハーメルンの笛吹き男は実話?男の正体は?
- 物語の起源は不明
- 子ども達の事故説
- 笛吹き男の小児性愛者説
- 笛吹き男の死神説
- 子ども達の軍事行動説
- 笛吹き男と子ども達の集団移民説
- ハンセン病患者説
- ハーメルンの町のその後
- 事件後にできた舞楽禁制通り
- 現在は観光名所に
- ハーメルンの笛吹き男に関連する記録
- マルクト教会のステンドグラス
- 合唱書パッシオナーレ
- リューネブルク写本
- 神学者ヨプス・フィンツェリウス
- ツィンメルン年代記
- 腐朽した知識の復権
- 憂鬱の解剖
- 伝説に基づく詩
- 日本に伝わったきっかけとなるグリム童話
- 児童向けに改変
- 原作と改作の違い
- 本当は怖いグリム童話の原作
- シンデレラ
- 白雪姫
- 眠れる森の美女
- 赤ずきん
- ヘンゼルとグレーテル
- ハーメルンの笛吹き男は集団失踪の記録だった
子ども達の事故説
via pixabay.com
行方不明の子供たちは、その後どこへ行ったのでしょう?一説には、子供たちが大人たちの真似をして山に火を灯そうとしたものの、真夜中の登山で足を滑らせ、底なし沼に転落死してしまったと言われています。
1284年6月26日は「ヨハネとパウロの日」という夏至祭りの日にあたり、ハーメルンの町ではポッペンブルク山に「夏至の火」を灯す習慣がありました。
この山には切り立った崖があり、真下に幅150mもの底なし沼が存在します。
1284年6月26日は「ヨハネとパウロの日」という夏至祭りの日にあたり、ハーメルンの町ではポッペンブルク山に「夏至の火」を灯す習慣がありました。
この山には切り立った崖があり、真下に幅150mもの底なし沼が存在します。
笛吹き男の小児性愛者説
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笛吹き男は、未成年者を溺愛する小児性愛者だったとも言われています。
この仮説によると、子供たちの失踪事件が起こったのは1484年6月20日で、犯人はザクセン人の村から誘拐した130人の子供を「口に出して言うのも憚られる目的」のために用いたそうです。
この目的が何だったのかは明らかになっていませんが、一説によると五体をバラバラにされ、森の茂みの中や木の枝から吊り下がっているところを発見されたという憶測が立てられています。
この仮説によると、子供たちの失踪事件が起こったのは1484年6月20日で、犯人はザクセン人の村から誘拐した130人の子供を「口に出して言うのも憚られる目的」のために用いたそうです。
この目的が何だったのかは明らかになっていませんが、一説によると五体をバラバラにされ、森の茂みの中や木の枝から吊り下がっているところを発見されたという憶測が立てられています。
笛吹き男の死神説
via pixabay.com
突拍子もない憶測ですが、笛吹き男の正体はマグス(魔法使い)だったとする説があります。行方不明になった子供たちは何らかの自然的要因によって死亡し、そのため笛吹き男は死神の象徴になったというのです。
ヨーロッパの死神は、笛吹き男のようなまだら模様の衣装を身にまとった姿で書かれることもしばしばです。子供たちが死の舞踏を踊ったことも、笛吹き男の正体を死神とする仮説に拍車をかけています。
ちなみに、マグスは魔法使いだけでなく悪魔という意味合いも含みます。
ヨーロッパの死神は、笛吹き男のようなまだら模様の衣装を身にまとった姿で書かれることもしばしばです。子供たちが死の舞踏を踊ったことも、笛吹き男の正体を死神とする仮説に拍車をかけています。
ちなみに、マグスは魔法使いだけでなく悪魔という意味合いも含みます。
子ども達の軍事行動説
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子供たちの集団失踪は、少年十字軍運動の一環であったとする説もあります。十字軍は中世ヨーロッパの連合軍で、エルサレムを奪還するために設立された軍隊です。
この中には少年十字軍という、神の啓示を受けて同地に遠征する少年少女の団体がいました。
この中には少年十字軍という、神の啓示を受けて同地に遠征する少年少女の団体がいました。
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少年十字軍の結末は惨たるもので、遠征中に衰弱死や病死などで子供たちが次々に脱落。最後は奴隷商人に騙されて売り物にされ、二度と両親の下へは戻らなかったと言われています。
この説では、名も無い笛吹き男は運動のリーダーか新兵徴募官であったと解釈されています。
この説では、名も無い笛吹き男は運動のリーダーか新兵徴募官であったと解釈されています。
笛吹き男と子ども達の集団移民説
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集団移民説は現在有力になっている説のひとつです。これは、ドイツ東部のウッカーマルク周辺にハーメルン周辺の地名と似たような地名が多数存在するためです。
この説では、子供たちが東ヨーロッパの植民地で自分たちの村を創設するため、自らの意志でハーメルンを出て行ったとされています。少年十字軍運動の説と同じく、笛吹き男も運動のリーダーだったと考えられています。
ただし他の町での移民、開拓者がせいぜい50人程度だったのに対し、ハーメルンは130人という大所帯だったため、この説にも疑問が残ります。
この説では、子供たちが東ヨーロッパの植民地で自分たちの村を創設するため、自らの意志でハーメルンを出て行ったとされています。少年十字軍運動の説と同じく、笛吹き男も運動のリーダーだったと考えられています。
ただし他の町での移民、開拓者がせいぜい50人程度だったのに対し、ハーメルンは130人という大所帯だったため、この説にも疑問が残ります。
ハンセン病患者説
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ハンセン病とは「らい菌」が神経を侵し、手足が動かなくなったり皮膚の形が極端に変形してしまう病気のことです。医学が現代ほど発展していない中世の人々にとってハンセン病は恐るべき病気であり、当時は患者を隔離するのが一般的でした。
ドイツでは子供たちの失踪がペスト(黒死病)患者を隔離させるためだったとする説もありますが、日本の医学者の中には、これがハンセン病の患者だったのではないかと唱える人もます。
失踪した子供たちは流行り病で亡くなったとする説もありますが、ハンセン病の感染率は非常に低く、この説はあまり有力ではないとされています。
ドイツでは子供たちの失踪がペスト(黒死病)患者を隔離させるためだったとする説もありますが、日本の医学者の中には、これがハンセン病の患者だったのではないかと唱える人もます。
失踪した子供たちは流行り病で亡くなったとする説もありますが、ハンセン病の感染率は非常に低く、この説はあまり有力ではないとされています。
ハーメルンの町のその後
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子供たちの失踪事件によって、ハーメルンの町は皮肉にも国際的な知名度を得るに至りました。
事件の記録や伝承を元に、ハーメルンがネズミ捕りの町と呼ばれるようになったのは言わずもがな。グリム童話ゆかりの地として名高い「ドイツ・メルヘン街道」にも名を連ねるようになりました。
ここではハーメルンの主な観光地、事件後にできた施設について詳しく紹介していきます。
事件の記録や伝承を元に、ハーメルンがネズミ捕りの町と呼ばれるようになったのは言わずもがな。グリム童話ゆかりの地として名高い「ドイツ・メルヘン街道」にも名を連ねるようになりました。
ここではハーメルンの主な観光地、事件後にできた施設について詳しく紹介していきます。
事件後にできた舞楽禁制通り
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ハーメルンの有名レストラン「ネズミ捕りの男の家」の隣に、舞楽禁制通りという細い路地があります。
笛吹き男の伝説によると、1284年6月26日の早朝。町外れの広場に集められた子供たちは、この道を通って大通りへと抜け、東門から町の外に出て行ったそうです。
「舞楽禁制」の名が示す通り、この通りで音楽や踊りを奏でることは現在でも御法度とされています。お祭りや結婚式のパレードでも、ここを通る時は演奏を中止するのが習わしとなっています。
笛吹き男の伝説によると、1284年6月26日の早朝。町外れの広場に集められた子供たちは、この道を通って大通りへと抜け、東門から町の外に出て行ったそうです。
「舞楽禁制」の名が示す通り、この通りで音楽や踊りを奏でることは現在でも御法度とされています。お祭りや結婚式のパレードでも、ここを通る時は演奏を中止するのが習わしとなっています。
現在は観光名所に
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現在のハーメルンには様々な観光名所が存在します。旧市街のメインストリートであるオスター通りは土産物屋、カフェ等で賑わい、通りの中ほどに町の歴史資料を展示したハーメルン博物館もあります。
東門から入ってすぐ左手に見えるのは「ネズミ捕りの男の家」。1603年に完成したルネサンス建築で、現在はレストランになっています。
東門から入ってすぐ左手に見えるのは「ネズミ捕りの男の家」。1603年に完成したルネサンス建築で、現在はレストランになっています。
via pixabay.com
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