目次
- 唯一裁かれた食人事件「ひかりごけ事件」
- ひかりごけ事件とは
- 1943年12月7人を乗せた日本陸軍微用船が遭難
- 知床半島ペキンノ鼻に降り立つ
- 船長は最年少の青年と過ごす
- やせ衰えた青年が死亡
- 死亡した青年を食す
- 1944年2月漁民一家に助けを求める
- 船長は故郷へ帰還「奇蹟の神兵」とされる
- 周囲が食人を疑い始める
- 2月18日・5月に遺体発見
- 6月に死体遺棄及び死体損壊の容疑で船長を逮捕
- 船長が食人を行った動機
- 「どうしても我慢できなくなった」
- 「未だに経験したことがないくらい美味しかった」
- 「脳みそを食べた時が最も精力がついた気がした」
- 武田泰淳が小説「ひかりごけ」を出版
- 武田泰淳は船長と接触したことがない
- 事件をモチーフにし噂を元に制作
- 船長が船員を殺害し食べたという噂のきっかけに
- 船長への判決
- 船長の言葉・心情
- 何故食人をしたか理解できない
- 懲役1年では軽い、死刑でも足りない
- なんで殺さなければならないの
- ペキンノ鼻への想い
- 「ひかりごけ事件」関連作品
- 合田一道「ひかりごけ事件 :難破船長食人犯罪の真相」
- 伊藤博子「サイカイ武田泰淳」
- 映画「ひかりごけ」
- 食人=カニバリズムとは?
- 人肉の味
- クールー病
- エンドカニバリズム
- エクソカニバリズム
- 本当にあったカニバリズム事件
- パリ人肉事件
- 小笠原事件
- ソウル20人連続殺人事件
- アルバート・フィッシュが起こした事件
- ジェフリーダーマーは起こした事件
- 究極の選択が引き起こした食人事件
唯一裁かれた食人事件「ひかりごけ事件」
via pixabay.com
人間が人間の肉を食べるのは、最も危険で最もタブーとされている行為だとされています。ですが、人を食べる行為「食人行為」は、世界各国で幾つか発生しています。
元々、概念など何もない時代や場所で、おこなわれていた食人行為も現代では、厳しく取り締まっている国も多数あります。
人間を食べる行為はとても危険で、死に至る病にかかるとも言われており、人間の肉を食べたいがために殺人を犯す事件も多数発生してしまっています。自然界でよく見る共食いという行為も、人間の間では嫌悪感を抱く行為であり、そのような行為は、世界共通で社会的、倫理的にありえないものだとされています。
元々、概念など何もない時代や場所で、おこなわれていた食人行為も現代では、厳しく取り締まっている国も多数あります。
人間を食べる行為はとても危険で、死に至る病にかかるとも言われており、人間の肉を食べたいがために殺人を犯す事件も多数発生してしまっています。自然界でよく見る共食いという行為も、人間の間では嫌悪感を抱く行為であり、そのような行為は、世界共通で社会的、倫理的にありえないものだとされています。
via pixabay.com
社会的にも倫理的にも絶対タブーだとされている食人行為に対して、日本の刑法には、食人行為に対する規定がありません。
ですが、食人事件が日本でおきた事がないから、日本の刑法に規定がない訳ではありません。実際に、日本でも食人事件はありました。日本で唯一裁かれたことのある事件が「ひかりごけ事件」と呼ばれている事件です。
今回は、「ひかりごけ事件」がなぜ起こったてしまったのか、また裁判でどのような判決が下ったのかなど、ひかりごけ事件についてご紹介していきます。
ですが、食人事件が日本でおきた事がないから、日本の刑法に規定がない訳ではありません。実際に、日本でも食人事件はありました。日本で唯一裁かれたことのある事件が「ひかりごけ事件」と呼ばれている事件です。
今回は、「ひかりごけ事件」がなぜ起こったてしまったのか、また裁判でどのような判決が下ったのかなど、ひかりごけ事件についてご紹介していきます。
SOS遭難事件の概要と真相!発見された死体の身元と事件の不思議も - POUCHS(ポーチス)
この事件は1989年に北海道大雪山系で起こった謎の多い遭難事件です。ただの遭難事件で終わるはずの事件が一変、二変していきます。発見された遺体の身元は分かりましたが、遭難者が残したSOSの文字やカセットテープには謎も多く、いまだに真相は解明されていません。
ひかりごけ事件とは
via pixabay.com
ひかりごけ事件は、刑法に規定がない日本で唯一裁かれた食人事件として有名な事件なのですが、日本の中で人間が人間の肉を食べるという衝撃的な事件の内容に、人々が驚きとショックを受け、当時とても注目された事件です。
ひかりごけ事件は、歴史上たびたび発見されている食人事件の中で、「初めて刑を科せられた事件」、「日本で唯一裁かれた事件」として小説のモチーフにもなっている事件です。
実際に起きたひかりごけ事件がどのようにして起きたものなのか、まず事件の内容についてご紹介していきます。
ひかりごけ事件は、歴史上たびたび発見されている食人事件の中で、「初めて刑を科せられた事件」、「日本で唯一裁かれた事件」として小説のモチーフにもなっている事件です。
実際に起きたひかりごけ事件がどのようにして起きたものなのか、まず事件の内容についてご紹介していきます。
1943年12月7人を乗せた日本陸軍微用船が遭難
via pixabay.com
ひかりごけ事件は、遭難事故から生まれた人食事件で事の発端は、1943年の12月太平洋戦争真っ只中、暁部隊の廻航命令により、5隻の日本陸軍徴用船が乗組員7人を乗せ、船体の修理の為に根室港を出港したことでした。
根室港を出港し、オホーツク海廻りで小樽市へ向かう途中、天候が悪化し猛烈な吹雪と高波に襲われ船は故障してしまいました。船が故障したことで通信も途絶え、漂流中に暗礁に乗り上げ船では、身動きが取れない状況になってしまいます。
根室港を出港し、オホーツク海廻りで小樽市へ向かう途中、天候が悪化し猛烈な吹雪と高波に襲われ船は故障してしまいました。船が故障したことで通信も途絶え、漂流中に暗礁に乗り上げ船では、身動きが取れない状況になってしまいます。
知床半島ペキンノ鼻に降り立つ
via pixabay.com
小樽市へ向かう途中の知床半島で船が座礁してしまいました。座礁した船では、身動きが取れない乗組員達は、船から退避しオホーツ海の南端にある知床半島ペキンノ鼻に降り立ちました。
北海道の真冬は、氷と雪に覆われた地域、徴用船の船長(当時29歳)と乗組員の中で最年少の青年(当時18歳)は、なんとか上陸できましたが、他の乗組員達とははぐれてしまいました。
後に乗組員7人のうち5名は、上陸する際に高波に襲われ上陸できなかったり、上陸できたものの飢えと寒さですぐに亡くなったとされています。
北海道の真冬は、氷と雪に覆われた地域、徴用船の船長(当時29歳)と乗組員の中で最年少の青年(当時18歳)は、なんとか上陸できましたが、他の乗組員達とははぐれてしまいました。
後に乗組員7人のうち5名は、上陸する際に高波に襲われ上陸できなかったり、上陸できたものの飢えと寒さですぐに亡くなったとされています。
船長は最年少の青年と過ごす
via pixabay.com
他の乗組員達とは、はぐれてしまったもののなんとか上陸することができた船長は、運良くすぐに一軒の小屋(番屋)を見つけ、吹雪や寒さを凌ぐ為にその小屋で避難していました。
しばらくすると船長が避難している小屋に、同じく上陸することのできた最年少だった青年も猛吹雪の中なんとか辿り着く事ができたのです。
そして、2人は最初に避難した小屋から近場にあった小屋へと移動し、しばらくその小屋で過ごすことにしました。
しばらくすると船長が避難している小屋に、同じく上陸することのできた最年少だった青年も猛吹雪の中なんとか辿り着く事ができたのです。
そして、2人は最初に避難した小屋から近場にあった小屋へと移動し、しばらくその小屋で過ごすことにしました。
やせ衰えた青年が死亡
via pixabay.com
なんとか座礁した船から逃げ出し、移動した小屋に避難することができた船長と青年でしたが、今度は寒さと飢えが2人を襲ってきます。
しばらく、極寒と飢えに耐え凌いでいた船長と青年だったのですが、食料がある訳もなく、全く栄養も取れずにいた青年は、寒さと飢えで体力が激しく消耗していき、しばらくして痩せ衰え亡くなってしまったとされています。
当時最年少で1番若かかったにもかかわらず寒さと飢えで、青年は亡くなってしまい、船長はたった1人で過酷な環境の中を過ごす事になります。
しばらく、極寒と飢えに耐え凌いでいた船長と青年だったのですが、食料がある訳もなく、全く栄養も取れずにいた青年は、寒さと飢えで体力が激しく消耗していき、しばらくして痩せ衰え亡くなってしまったとされています。
当時最年少で1番若かかったにもかかわらず寒さと飢えで、青年は亡くなってしまい、船長はたった1人で過酷な環境の中を過ごす事になります。
【チェック】死恐怖症の症状と原因は?治療方法と他にもある恐怖症 - POUCHS(ポーチス)
死恐怖症という言葉をご存知ですか?うつ状態になるなど日常生活に支障をきたす前に原因を知り、克服する必要があります。自分が死恐怖症の可能性がある人は自己診断チェックをしてみましょう。当てはまる人は薬物療法や精神療法で治療することをおすすめします。
死亡した青年を食す
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しばらく共に過ごしていた青年も亡くなってしまい、船長は孤独と過酷な環境に一人耐え凌いでいかなければならない状況になりました。
そして、寒さとあまりの空腹に耐えきれなくなった船長は、先に亡くなってしまった、青年の遺体を口にしてしまいます。
過酷な環境を生き延びるために、船長が亡くなった青年の遺体を口にしてしまうというこの悲しい出来事が、後にひかりごけ事件と呼ばれるようになった食人事件の全容とされています。
そして、寒さとあまりの空腹に耐えきれなくなった船長は、先に亡くなってしまった、青年の遺体を口にしてしまいます。
過酷な環境を生き延びるために、船長が亡くなった青年の遺体を口にしてしまうというこの悲しい出来事が、後にひかりごけ事件と呼ばれるようになった食人事件の全容とされています。
1944年2月漁民一家に助けを求める
via pixabay.com
1944年2月、船長は羅臼町岬町に住んでいた漁民一家に助けを求めました。船長の話を聞き、現地の過酷さを知っている老夫婦はとても驚きます。
助けを求めた老夫婦に船長は「船が難破してしまい、他の乗組員は全て死んでしまったが自分はなんとか上陸して、避難した小屋には備蓄されていた食料があり、味噌やフキの漬物、わかめなどと流れ着いたアザラシの肉を食べて生き延びた」と語っていたという。
さらに船長は「吹雪の中、小屋にたどり着けたのは自分と炊事夫の男性だけだった」とも語っていたと言います。
助けを求めた老夫婦に船長は「船が難破してしまい、他の乗組員は全て死んでしまったが自分はなんとか上陸して、避難した小屋には備蓄されていた食料があり、味噌やフキの漬物、わかめなどと流れ着いたアザラシの肉を食べて生き延びた」と語っていたという。
さらに船長は「吹雪の中、小屋にたどり着けたのは自分と炊事夫の男性だけだった」とも語っていたと言います。
船長は故郷へ帰還「奇蹟の神兵」とされる
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