目次
- フリッツル事件とは?
- フリッツル事件概要
- 事件のあった場所
- ヨーゼフ・フリッツルの虐待
- エリーザベトを地下室に誘い出す
- エリーザベトの監禁
- 失踪届けと無理矢理書かされた手紙
- 繰り返す近親相姦
- 地下室の拡張
- 24年間の監禁
- フリッツル事件の動機は?
- エリーザベトの監禁中の様子
- 最初の数日間
- 数日後からの様子
- 生活や食事
- 暴力的な行為で怪我をすることも
- 事件発覚の経緯
- 娘のケルスティンが病院へ
- ケルスティンの状態
- 病院スタッフが警察に通報
- ヨーゼフの主張
- 行方不明者として捜査
- エリーザベトと子供2人の解放
- ヨーゼフの逮捕
- 逮捕に踏み切った証拠はDNA鑑定
- エリーザベトは最初は口を閉ざしていた
- 監禁中にエリーザベトが産んだ子供たち
- 1人目
- ケルスティン・シュテファン
- リザ
- モニカ
- アレクサンダー
- フェリックス
- なぜ24年間も気づかれなかったのか
- 逃げないように脅していた
- 地下室には妻も近寄れなかった
- ヨーゼフのごまかし行為
- ヨーゼフの地下室詳細!画像は残ってるの?
- ヨーゼフが違法に部屋を追加
- 隠し地下室の広さや内装
- 隠し地下室の出入り口
- 画像で環境の劣悪さが分かる
- フリッツル事件被害者のその後や現在
- その後のケルスティンの容態
- 監禁されていた4人の状態
- 精神病院での治療
- オーストリア北部の村へ移住
- 母ロゼマリアのその後
- エリーザベトの現在は?
- ヨーゼフの生い立ち
- ヨーゼフの生い立ち
- 犯罪歴
- ロゼマリア
- ヨーゼフの裁判
- 裁判でのヨーゼフの様子
- 弁護側の主張
- 検察側の主張
- エリーザベトが裁判を傍聴
- エリーザベトの会話テープ
- ヨーゼフの判決
- ヨーゼフの現在
- 地元メディアでは特集が組まれるほど話題に
- タブロイド紙で「怪物」と表現
- ヨーゼフや地下室の写真も公開
- フリッツル事件がモデルとなった作品
- エマ・ドナヒュー「部屋」
- 映画「ルーム」
- フリッツル事件との違い
- フリッツル事件の類似事件
- ジェイシー・リー・デュガード誘拐事件
- オーストラリア少女監禁事件
- イギリスで娘2人を19回妊娠させた父親
- フリッツル事件は怪物が引き起こした事件!
フリッツル事件とは?
via pixabay.com
フリッツル事件とは、オーストリアで発覚したもので、父親が実の娘を近親相姦した上に、自分の子供を7人も産ませ、自宅の地下室に24年間も監禁していたという衝撃な事件です。
父親の名前はヨーゼフ・フリッツル、被害者となった娘はエリーザベトやエリザベート、またはエリザベスと言われていますが、ここではエリーザベトで統一します。この親子の姓から、フリッツル事件と呼ばれているのです。
彼女が発見された時の写真と言われる、エリーザベトの姿は、とても直視出来ないほどひどい姿です。事件を調べて行くほどに、この父親が何故娘をこのような状態にしてしまったのか、その心理も目的も理解出来ません。今回は、フリッツル事件の全容を紹介していきます。
父親の名前はヨーゼフ・フリッツル、被害者となった娘はエリーザベトやエリザベート、またはエリザベスと言われていますが、ここではエリーザベトで統一します。この親子の姓から、フリッツル事件と呼ばれているのです。
彼女が発見された時の写真と言われる、エリーザベトの姿は、とても直視出来ないほどひどい姿です。事件を調べて行くほどに、この父親が何故娘をこのような状態にしてしまったのか、その心理も目的も理解出来ません。今回は、フリッツル事件の全容を紹介していきます。
新潟少女監禁事件の概要とは?犯人佐藤宣行の生い立ちやその後と被害者との関係 - POUCHS(ポーチス)
ミレニアムイヤーと世の中が浮かれて迎えた2000年(平成12年)の1月末、とあることがきっかけで発覚した新潟少女監禁事件を御存じですか?実は事件の犯人である佐藤宣行は、すでに出所しているのです。今回は、新潟少女監禁事件の被害者や犯人のその後などを解説します。
フリッツル事件概要
via pixabay.com
フリッツル事件は、海外で起きたということもあり、あまり記憶に無いという人もいるかもしれませんが、この事件は2008年(平成20年)に発覚しているので、さほど昔の話ではありません。
子供を虐待する事件は、母親の彼氏や再婚した夫(養父)が連れ子を虐待するというイメージを持つ人が、日本では多いでしょう。しかし、実態は実親からの虐待の方が多く、フリッツル事件のような性的虐待は、なんと実の父親からという人が4割程いるというデータもあるのです。
家庭は他人が踏み込める場所ではない分、中々発見出来にくいものですが、フリッツル事件は、自宅の地下室であったのにも係わらず、母親や他の兄妹は全く気が付きませんでした。何故そのようなことが可能だったのでしょうか?ここではまず、フリッツル事件の概要を紹介していきます。
子供を虐待する事件は、母親の彼氏や再婚した夫(養父)が連れ子を虐待するというイメージを持つ人が、日本では多いでしょう。しかし、実態は実親からの虐待の方が多く、フリッツル事件のような性的虐待は、なんと実の父親からという人が4割程いるというデータもあるのです。
家庭は他人が踏み込める場所ではない分、中々発見出来にくいものですが、フリッツル事件は、自宅の地下室であったのにも係わらず、母親や他の兄妹は全く気が付きませんでした。何故そのようなことが可能だったのでしょうか?ここではまず、フリッツル事件の概要を紹介していきます。
江東マンション神隠し殺人事件の真相!星島貴徳の生い立ちとその後 - POUCHS(ポーチス)
この世で1番落ち着く場所が自分の家や部屋でしょう。もし、あなたと同じマンションの住人が、凶悪犯罪を犯す人物であったならどうしますか?今回は、そんな恐ろしいことが現実に起きてしまった、江東マンション神隠し殺人事件の真相と、犯人星島貴徳の生い立ちを紹介します。
事件のあった場所
via pixabay.com
事件のあった場所は、オーストリアのアムシュテッテンにある、フリッツル家の地下室でした。被害者のエリーザベトにとっても自分の生まれ育った自宅なのです。
エリーザベトは、1966年(昭和41年)4月6日に、父ヨーゼフと母ロゼマリアの娘として生まれました。この夫婦には、エリーザベトを合わせて、2男5女の子供がいますが、エリーザベトが何番目の子かは不明です。
しかし、娘が5人もいるのにも係わらず、何故父親はエリーザベトだけをターゲットにしたのでしょう。その辺りは今のところ不明ですが、他の娘たちも被害に遭っている可能性も否定出来ません。
エリーザベトは、1966年(昭和41年)4月6日に、父ヨーゼフと母ロゼマリアの娘として生まれました。この夫婦には、エリーザベトを合わせて、2男5女の子供がいますが、エリーザベトが何番目の子かは不明です。
しかし、娘が5人もいるのにも係わらず、何故父親はエリーザベトだけをターゲットにしたのでしょう。その辺りは今のところ不明ですが、他の娘たちも被害に遭っている可能性も否定出来ません。
ヨーゼフ・フリッツルの虐待
via pixabay.com
1977年(昭和52年)、エリーザベトが11歳の頃から、父親ヨーゼフ・フリッツルは性的虐待を始めたと言われています。その話は、エリーザベトの証言によるものですが、父親は19歳頃からだと話しています。
性的虐待以外にも、父親はエリーザベトにはとても厳しかったようで、平手打ちはしょっちゅう行われ、彼女は日頃から暴力的虐待を受けていました。しかし、他の子供達がどうだったかは不明です。
この頃はまだ監禁はされていませんでしたが、ヨーゼフ・フリッツルが初めてエリーザベトに性的虐待をしたと思われる翌年から、監禁を計画していたと思われる準備をし始めています。
性的虐待以外にも、父親はエリーザベトにはとても厳しかったようで、平手打ちはしょっちゅう行われ、彼女は日頃から暴力的虐待を受けていました。しかし、他の子供達がどうだったかは不明です。
この頃はまだ監禁はされていませんでしたが、ヨーゼフ・フリッツルが初めてエリーザベトに性的虐待をしたと思われる翌年から、監禁を計画していたと思われる準備をし始めています。
エリーザベトを地下室に誘い出す
via pixabay.com
エリーザベトは1度家出をして、ウィーンに隠れて暮らしていました。彼女はオーストリアの義務教育期間、日本で言えば中学卒業後に進学はせず、職業訓練に参加していたのです。ウェートレスになる為の訓練中に、家を飛び出して仕事仲間とウィーンにいました。
しかし、3週間程の短い自由な時間はあっさりと終了します。両親が捜索願いを出していたのでしょうか?警察に発見された彼女は、悲しいことに実家に戻されてしまいました。
家に戻ってから、再び訓練に参加して、1984年(昭和59年)に訓練を終え、家から離れたリンツ近郊の都市で仕事も決まっていたのですが、父親は娘を逃したくなかったのでしょう。ある日父親は、増築中の地下室に付けるドアを運ぶ手伝いをエリーザベトに頼みます。
しかし、3週間程の短い自由な時間はあっさりと終了します。両親が捜索願いを出していたのでしょうか?警察に発見された彼女は、悲しいことに実家に戻されてしまいました。
家に戻ってから、再び訓練に参加して、1984年(昭和59年)に訓練を終え、家から離れたリンツ近郊の都市で仕事も決まっていたのですが、父親は娘を逃したくなかったのでしょう。ある日父親は、増築中の地下室に付けるドアを運ぶ手伝いをエリーザベトに頼みます。
エリーザベトの監禁
via pixabay.com
手伝わせたドアの設置は、地下室を密室にする為のドアでした。扉をはめ込み終わると、父親は娘の顔にエーテルのしみ込んだタオルを押し付け、娘の意識が無くなったのを見計らって地下室に閉じ込めたのです。
エーテルとは、吸入麻酔薬のことですが、効くまでに時間がかなり掛かると言われているので、本当にその麻酔薬を使ったかどうかは分かりません。もし本当であれば、相当長く顔にタオルを押し当てていたことになるので、酸欠による気絶ということも考えられるでしょう。
犯行日は諸説あり、1984年(昭和59年)8月28日(火)や29日(水)とも言われています。この時エリーザベトは18歳ですが、17歳の時だったという話もありハッキリしていないのです。何しろ24年間も監禁されていたのですから、当人達が正確には覚えていなくても不思議ではありません。
エーテルとは、吸入麻酔薬のことですが、効くまでに時間がかなり掛かると言われているので、本当にその麻酔薬を使ったかどうかは分かりません。もし本当であれば、相当長く顔にタオルを押し当てていたことになるので、酸欠による気絶ということも考えられるでしょう。
犯行日は諸説あり、1984年(昭和59年)8月28日(火)や29日(水)とも言われています。この時エリーザベトは18歳ですが、17歳の時だったという話もありハッキリしていないのです。何しろ24年間も監禁されていたのですから、当人達が正確には覚えていなくても不思議ではありません。
失踪届けと無理矢理書かされた手紙
via pixabay.com
娘がいなくなり、母親はすぐさま失踪届けを警察に出しました。親なのですから当然の行為です。父親がその時、どのような態度だったかは不明ですが、恐らく心配しているフリくらいはしていたのでしょう。
しかし、ヨーゼフ・フリッツルはそのまま娘を監禁し続け、約1ヶ月ほど経ってから、エリーザベトに無理矢理手紙を書かせました。
この手紙には、家族との生活に飽きて友達と一緒にいること、自分を探し出せばオーストリアを出るということが書かれており、消印はフリッツル家があるアムシュテッテンからかなり離れた、ブラウナウ・アム・インという街のものが押されていたのです。その手紙を警察に届けたヨーゼフ・フリッツルは、娘はもしかすると「カルト宗教に入ったのではないか?」と述べています。
しかし、ヨーゼフ・フリッツルはそのまま娘を監禁し続け、約1ヶ月ほど経ってから、エリーザベトに無理矢理手紙を書かせました。
この手紙には、家族との生活に飽きて友達と一緒にいること、自分を探し出せばオーストリアを出るということが書かれており、消印はフリッツル家があるアムシュテッテンからかなり離れた、ブラウナウ・アム・インという街のものが押されていたのです。その手紙を警察に届けたヨーゼフ・フリッツルは、娘はもしかすると「カルト宗教に入ったのではないか?」と述べています。
繰り返す近親相姦
via pixabay.com
地下に監禁されてからのエリーザベトは、実の父親であるヨーゼフに何度もレイプされていました。監禁されてから彼女は、なんと7人も子供を身ごもり出産しています。
3日に1度の割合で地下室を訪れ、食料などを運んでいたとヨーゼフが証言しており、証言によれば朝9時頃から時には朝まで地下室にいたということからも、ヨーゼフが娘に相当執着していたことが分かります。
11歳から42歳までの長い期間、一体どれほど娘は凌辱されていたのでしょうか。エリーザベトは、身も心も実の父親にボロボロにされ、娘時代の貴重な時間も奪われてしまったのです。
3日に1度の割合で地下室を訪れ、食料などを運んでいたとヨーゼフが証言しており、証言によれば朝9時頃から時には朝まで地下室にいたということからも、ヨーゼフが娘に相当執着していたことが分かります。
11歳から42歳までの長い期間、一体どれほど娘は凌辱されていたのでしょうか。エリーザベトは、身も心も実の父親にボロボロにされ、娘時代の貴重な時間も奪われてしまったのです。
地下室の拡張
via pixabay.com
ヨーゼフ・フリッツルの地下室は、元々食糧の貯蔵庫にする為のものでした。ヨーゼフの証言によれば、1978年(昭和53年)以降から、家の増築を始め、1983年(昭和58年)頃に地下に核シェルターを作るとして、建設許可の申請をしています。その後申請が認められ、作られた場所は土地家屋調査士が検査してOKを出しました。
しかし、その前後の、1981年(昭和56年)~1982年(昭和57年)頃から、ヨーゼフはこっそりと地下室の拡張を始めたと証言しています。
エリーザベトが家出したのが、1983年(昭和58年)ですから、核シェルターを作るという申請を出した時期と一致していると言えるでしょう。このことからも、家出が監禁のきっかけとなったに違いありません。
しかし、その前後の、1981年(昭和56年)~1982年(昭和57年)頃から、ヨーゼフはこっそりと地下室の拡張を始めたと証言しています。
エリーザベトが家出したのが、1983年(昭和58年)ですから、核シェルターを作るという申請を出した時期と一致していると言えるでしょう。このことからも、家出が監禁のきっかけとなったに違いありません。
24年間の監禁
1 / 8