2021年5月25日 更新

フリッツル事件の犯人の現在は?事件の動機と子供たちのその後も

最近ようやく毒親という言葉が知られるようになりましたが、今回紹介するフリッツル事件の犯人は父親です。しかしこの父親は、毒親を通り越してただの鬼畜な犯罪者と言えます。今回はフリッツル事件の全容と父親の動機、そして被害者である子供のその後と現在を紹介します。

目次

フリッツル事件とは?

Emotions Pain Mourning - Free photo on Pixabay (428378)

フリッツル事件とは、オーストリアで発覚したもので、父親が実の娘を近親相姦した上に、自分の子供を7人も産ませ、自宅の地下室に24年間も監禁していたという衝撃な事件です。

父親の名前はヨーゼフ・フリッツル、被害者となった娘はエリーザベトやエリザベート、またはエリザベスと言われていますが、ここではエリーザベトで統一します。この親子の姓から、フリッツル事件と呼ばれているのです。

彼女が発見された時の写真と言われる、エリーザベトの姿は、とても直視出来ないほどひどい姿です。事件を調べて行くほどに、この父親が何故娘をこのような状態にしてしまったのか、その心理も目的も理解出来ません。今回は、フリッツル事件の全容を紹介していきます。

フリッツル事件概要

Child Education Fear - Free photo on Pixabay (428528)

フリッツル事件は、海外で起きたということもあり、あまり記憶に無いという人もいるかもしれませんが、この事件は2008年(平成20年)に発覚しているので、さほど昔の話ではありません。

子供を虐待する事件は、母親の彼氏や再婚した夫(養父)が連れ子を虐待するというイメージを持つ人が、日本では多いでしょう。しかし、実態は実親からの虐待の方が多く、フリッツル事件のような性的虐待は、なんと実の父親からという人が4割程いるというデータもあるのです。

家庭は他人が踏み込める場所ではない分、中々発見出来にくいものですが、フリッツル事件は、自宅の地下室であったのにも係わらず、母親や他の兄妹は全く気が付きませんでした。何故そのようなことが可能だったのでしょうか?ここではまず、フリッツル事件の概要を紹介していきます。

事件のあった場所

House Plank Garage - Free vector graphic on Pixabay (428767)

事件のあった場所は、オーストリアのアムシュテッテンにある、フリッツル家の地下室でした。被害者のエリーザベトにとっても自分の生まれ育った自宅なのです。

エリーザベトは、1966年(昭和41年)4月6日に、父ヨーゼフと母ロゼマリアの娘として生まれました。この夫婦には、エリーザベトを合わせて、2男5女の子供がいますが、エリーザベトが何番目の子かは不明です。

しかし、娘が5人もいるのにも係わらず、何故父親はエリーザベトだけをターゲットにしたのでしょう。その辺りは今のところ不明ですが、他の娘たちも被害に遭っている可能性も否定出来ません。

ヨーゼフ・フリッツルの虐待

Sculpture Mask Tears Bronze - Free photo on Pixabay (428914)

1977年(昭和52年)、エリーザベトが11歳の頃から、父親ヨーゼフ・フリッツルは性的虐待を始めたと言われています。その話は、エリーザベトの証言によるものですが、父親は19歳頃からだと話しています。

性的虐待以外にも、父親はエリーザベトにはとても厳しかったようで、平手打ちはしょっちゅう行われ、彼女は日頃から暴力的虐待を受けていました。しかし、他の子供達がどうだったかは不明です。

この頃はまだ監禁はされていませんでしたが、ヨーゼフ・フリッツルが初めてエリーザベトに性的虐待をしたと思われる翌年から、監禁を計画していたと思われる準備をし始めています。

エリーザベトを地下室に誘い出す

Lost Places Keller Elevator - Free photo on Pixabay (429002)

エリーザベトは1度家出をして、ウィーンに隠れて暮らしていました。彼女はオーストリアの義務教育期間、日本で言えば中学卒業後に進学はせず、職業訓練に参加していたのです。ウェートレスになる為の訓練中に、家を飛び出して仕事仲間とウィーンにいました。

しかし、3週間程の短い自由な時間はあっさりと終了します。両親が捜索願いを出していたのでしょうか?警察に発見された彼女は、悲しいことに実家に戻されてしまいました。

家に戻ってから、再び訓練に参加して、1984年(昭和59年)に訓練を終え、家から離れたリンツ近郊の都市で仕事も決まっていたのですが、父親は娘を逃したくなかったのでしょう。ある日父親は、増築中の地下室に付けるドアを運ぶ手伝いをエリーザベトに頼みます。

エリーザベトの監禁

Hand Woman Female - Free photo on Pixabay (429247)

手伝わせたドアの設置は、地下室を密室にする為のドアでした。扉をはめ込み終わると、父親は娘の顔にエーテルのしみ込んだタオルを押し付け、娘の意識が無くなったのを見計らって地下室に閉じ込めたのです。

エーテルとは、吸入麻酔薬のことですが、効くまでに時間がかなり掛かると言われているので、本当にその麻酔薬を使ったかどうかは分かりません。もし本当であれば、相当長く顔にタオルを押し当てていたことになるので、酸欠による気絶ということも考えられるでしょう。

犯行日は諸説あり、1984年(昭和59年)8月28日(火)や29日(水)とも言われています。この時エリーザベトは18歳ですが、17歳の時だったという話もありハッキリしていないのです。何しろ24年間も監禁されていたのですから、当人達が正確には覚えていなくても不思議ではありません。

失踪届けと無理矢理書かされた手紙

Pen Fountain Writing - Free photo on Pixabay (429289)

娘がいなくなり、母親はすぐさま失踪届けを警察に出しました。親なのですから当然の行為です。父親がその時、どのような態度だったかは不明ですが、恐らく心配しているフリくらいはしていたのでしょう。

しかし、ヨーゼフ・フリッツルはそのまま娘を監禁し続け、約1ヶ月ほど経ってから、エリーザベトに無理矢理手紙を書かせました。

この手紙には、家族との生活に飽きて友達と一緒にいること、自分を探し出せばオーストリアを出るということが書かれており、消印はフリッツル家があるアムシュテッテンからかなり離れた、ブラウナウ・アム・インという街のものが押されていたのです。その手紙を警察に届けたヨーゼフ・フリッツルは、娘はもしかすると「カルト宗教に入ったのではないか?」と述べています。

繰り返す近親相姦

Eye Manipulation Tears - Free photo on Pixabay (429318)

地下に監禁されてからのエリーザベトは、実の父親であるヨーゼフに何度もレイプされていました。監禁されてから彼女は、なんと7人も子供を身ごもり出産しています。

3日に1度の割合で地下室を訪れ、食料などを運んでいたとヨーゼフが証言しており、証言によれば朝9時頃から時には朝まで地下室にいたということからも、ヨーゼフが娘に相当執着していたことが分かります。

11歳から42歳までの長い期間、一体どれほど娘は凌辱されていたのでしょうか。エリーザベトは、身も心も実の父親にボロボロにされ、娘時代の貴重な時間も奪われてしまったのです。

地下室の拡張

Architecture Blueprint Floor Plan - Free photo on Pixabay (429388)

ヨーゼフ・フリッツルの地下室は、元々食糧の貯蔵庫にする為のものでした。ヨーゼフの証言によれば、1978年(昭和53年)以降から、家の増築を始め、1983年(昭和58年)頃に地下に核シェルターを作るとして、建設許可の申請をしています。その後申請が認められ、作られた場所は土地家屋調査士が検査してOKを出しました。

しかし、その前後の、1981年(昭和56年)~1982年(昭和57年)頃から、ヨーゼフはこっそりと地下室の拡張を始めたと証言しています。

エリーザベトが家出したのが、1983年(昭和58年)ですから、核シェルターを作るという申請を出した時期と一致していると言えるでしょう。このことからも、家出が監禁のきっかけとなったに違いありません。

24年間の監禁

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