目次
- 山形マット死事件の概要
- 男子生徒が帰宅しないため両親が部活顧問に連絡
- 体育館用具室で男子生徒が遺体で発見される
- 遺体はマットの中に逆さの状態だった
- 死因は窒息死
- いじめを行っていた生徒7人を逮捕・補導
- 校長は「いじめや暴行はなかった」と説明
- 被害者「児玉有平くん」について
- 生い立ち
- 家族構成
- 小学校高学年からいじめにあっていた
- 集団宿泊施研修から顔を腫らして帰宅
- 加害者側の自白・供述内容
- 加害者Aが自白した「いじめを始めた経緯」
- 加害者Aが自白した「事件当日について」
- 加害者Aの供述
- 加害者Cの供述
- 犯行を認めていた加害者が供述を翻し始める
- 被害者家族は「村八分」にあっていた
- 村八分とは
- 被害者家族への誹謗中傷
- 取材現場では「騒ぎ立てるな」
- 加害者少年7人への判決
- 逮捕・初等少年院送致・教護院送致
- 最高裁は約5760万円の支払いを命じた
- 賠償金支払わず、差し押さえへ
- 現在までに加害者側からの賠償金・謝罪はない
- 村八分が原因で起きた事件
- 静岡県上野村村八分事件
- 天理市夫婦村八分事件
- 山口連続殺人放火事件
- いじめが原因で起きた事件
- 大津市中2いじめ自殺事件
- 桐生市小学生いじめ自殺事件
- 風化させてはいけない山形マット死事件
山形マット死事件の概要
via pixabay.com
山形マット死事件は、1993年に山形県新庄市立明倫中学校で発生した男子中学生の死亡事件です。「マット死事件」「マット事件」「明倫中事件」とも言われています。学校という閉鎖された空間で起きた「いじめ」の深刻さを明らかにすると同時に、少年審判の事実認定の難しさを思い知らされました。。この事件により、少年犯罪の厳罰化と検察官の関与を推し進め2000年の少年法改正につながった有名な事件です。
男子生徒が帰宅しないため両親が部活顧問に連絡
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1993年1月13日夕方、明倫中学1年生の児玉有平君(当時13歳)が普段であれば英語の塾に行く時間となっていたにも関わらず帰宅していません。几帳面な性格である児玉有平君にとって、塾の時間になっても帰宅しないということはあり得ないことでした。両親は近所を探すも見つからなかったため、有平君の所属する卓球部の顧問の教師で電話をかけました。すると「今日は、部活に出ていません。でも、学校に電話して聞いてみます」と教師は言って電話を切りました。
体育館用具室で男子生徒が遺体で発見される
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午後8時15分過ぎに、児玉さん宅に中学の教師から電話がかかってきます。その教師から発せられたのは「見つかりました!有平君が逆さ吊りになって見つかりました!」という言葉です。有平君は、まだ学校にいた教師とすぐ隣りの小学校の生徒を中心とするバドミントンのスポーツ少年団、そして明倫中学のバドミントン部の生徒の捜索により、遺体となって発見されたのです。
遺体はマットの中に逆さの状態だった
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遺体は、体育館のマット用具室のなかで立てかけられたマットに巻かれた状態、しかも逆さ吊りの状態で発見されています。室内は真っ暗で、暗闇の中を自らマットに潜り込むというのは考えられない状況での発見でした。
死因は窒息死
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駆け付けた有平君の父親は、無残な息子の遺体と対面しました。有平君の顔は鬱血しており、無残にも2倍くらいの大きさに腫れあがっていました。パンパンに腫れあがった頭部は、誰だかも判別できないほど悲惨な状況だったのです。司法解剖の結果、有平君の死因は「胸部圧迫による窒息死」と判明しました。顔面は全体的に鬱血しており、上半身には痣もありました。
いじめを行っていた生徒7人を逮捕・補導
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新庄署内で事情を聞かれていた明倫中学2年A(当時14歳)が事件の一部始終を告白しました。仲間数人で有平君に暴行を加え、マット内に押し込んだというものです。その自白により、捜査側は暴行を加えたという仲間に事情を聞き、他の少年たちも相次いで自白しました。翌日、Aの他6人(B.C.D.E.F.G)の少年が逮捕・補導されました。
校長は「いじめや暴行はなかった」と説明
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事件の翌日、報道陣を前にした校長は、「いじめや暴力など、教員が介入しなくてはならないことは本校には全くありませんでした」と話されています。
山形マット死事件当時、卓球部の顧問教師は、部活には行っていませんでした。しかも、有平君の両親から有平君の安否を尋ねる電話があったとき、学校にもいなかったようです。学校側の落ち度はなかったのでしょうか?
山形マット死事件当時、卓球部の顧問教師は、部活には行っていませんでした。しかも、有平君の両親から有平君の安否を尋ねる電話があったとき、学校にもいなかったようです。学校側の落ち度はなかったのでしょうか?
被害者「児玉有平くん」について
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被害者である児玉有平君について紹介します。
生い立ち
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児玉有平君は、新庄市で幼稚園を経営する児玉家の次男として誕生しました。児玉一家は1976年頃に新庄市に引っ越してきましたが、「裕福」な家庭であり、「標準語」を話す地元出身の家庭ではなかったため、新参者と言われていたようです。地元の人々にとっては、児玉一家に対して妬みがなかったわけではないようです。
家族構成
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家族構成は、両親と兄、妹の5人家族です。有平君の父親の児玉昭平さんも裕福な家の生まれであり、理想主義的なことを真顔で話す珍しい人で、家族団欒が趣味であり、外で飲まずに家で飲むような人です。子供たちは「自律的な個人」となるべくして育てられおり、有平君は授業中に手をあげ発言、学校の行事でも目立つ存在でした。
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