目次
- 山形マット死事件の概要
- 男子生徒が帰宅しないため両親が部活顧問に連絡
- 体育館用具室で男子生徒が遺体で発見される
- 遺体はマットの中に逆さの状態だった
- 死因は窒息死
- いじめを行っていた生徒7人を逮捕・補導
- 校長は「いじめや暴行はなかった」と説明
- 被害者「児玉有平くん」について
- 生い立ち
- 家族構成
- 小学校高学年からいじめにあっていた
- 集団宿泊施研修から顔を腫らして帰宅
- 加害者側の自白・供述内容
- 加害者Aが自白した「いじめを始めた経緯」
- 加害者Aが自白した「事件当日について」
- 加害者Aの供述
- 加害者Cの供述
- 犯行を認めていた加害者が供述を翻し始める
- 被害者家族は「村八分」にあっていた
- 村八分とは
- 被害者家族への誹謗中傷
- 取材現場では「騒ぎ立てるな」
- 加害者少年7人への判決
- 逮捕・初等少年院送致・教護院送致
- 最高裁は約5760万円の支払いを命じた
- 賠償金支払わず、差し押さえへ
- 現在までに加害者側からの賠償金・謝罪はない
- 村八分が原因で起きた事件
- 静岡県上野村村八分事件
- 天理市夫婦村八分事件
- 山口連続殺人放火事件
- いじめが原因で起きた事件
- 大津市中2いじめ自殺事件
- 桐生市小学生いじめ自殺事件
- 風化させてはいけない山形マット死事件
被害者家族への誹謗中傷
via pixabay.com
児玉家に対して嫉妬や反感も多く、家の塀には「ころしてやる」と落書きされたこともあったようです。生意気だという近所の老人もいました。事件に対しても、「あそこの育て方なら当然」「いじめられる側にも問題があった」兄弟に対しても「兄ちゃん殺されて嬉しいか?」と罵ったりしています。
遊んでいただけと加害者を弁護する近所の主婦は、有平君の死を「飼っていた虫をうっかり死なせてしまったようなもの」と言っています。
遊んでいただけと加害者を弁護する近所の主婦は、有平君の死を「飼っていた虫をうっかり死なせてしまったようなもの」と言っています。
取材現場では「騒ぎ立てるな」
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取材現場で「まだ取材しているのか」「そっとしておいてくれ」となんども追い返されたり、さらに学校の関係者を名乗る複数の人物から「いまさら騒ぎたてるな」「せっかく収まってきたのを、ほじくりかえすな」と抗議を受けたことを明らかにしている人もいます。この地域では、有平君の死を悲しみ、加害者の少年たちを厳しい目で見る人はいなかったのです。
加害者少年7人への判決
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この事件では、上級生ら7人の少年たちが逮捕・補導されて一旦は犯行を自白しますが一転、全員が否認という形を取ります。4人の少年たちの処分は確定しましたが、刑事・民事裁判ともに「有罪」「無罪」認定の判断が二転三転する事態となりました。
逮捕・初等少年院送致・教護院送致
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事件直後、傷害致死容疑で2年生3人(当時14歳)が逮捕、1.2年生4人(当時12~13歳)が補導されました。逮捕は14歳以上でなければできないとされているため、逮捕と補導という差が生まれています。
補導された少年のうち否認した3人は、家裁送致となり、認めた1人を児童福祉司による在宅指導との行政処分となりました。家裁送致された3人のうち2人を初等少年院に、1人を教護院送りとする保護処分が下されています。仙台高裁は1993年12月、保護処分決定を不服とした3少年の抗告を棄却し、不処分(無罪)が確定した逮捕の3人の少年についても1993年9月の家裁の認定に疑義を呈し、7人全員の有罪に相当する保護処分が確定しました。
補導された少年のうち否認した3人は、家裁送致となり、認めた1人を児童福祉司による在宅指導との行政処分となりました。家裁送致された3人のうち2人を初等少年院に、1人を教護院送りとする保護処分が下されています。仙台高裁は1993年12月、保護処分決定を不服とした3少年の抗告を棄却し、不処分(無罪)が確定した逮捕の3人の少年についても1993年9月の家裁の認定に疑義を呈し、7人全員の有罪に相当する保護処分が確定しました。
最高裁は約5760万円の支払いを命じた
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1995年、民事訴訟として児玉有平君の遺族が7人の少年たちと新庄市(中学側)を相手取り、総額1億9千万円の損害賠償を起こしました。1審では損害賠償を棄却、2審では事件性を認定し少年7人に総額約5760万円の損害賠償を命じる逆転判決を出しましたが、新庄市の賠償は認められませんでした。
2005年9月、最高裁は仙台高裁判決を支持して少年側の上告を棄却し賠償判決が確定し、長い裁判の幕が閉じました。
2005年9月、最高裁は仙台高裁判決を支持して少年側の上告を棄却し賠償判決が確定し、長い裁判の幕が閉じました。
賠償金支払わず、差し押さえへ
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1993年1月に起きた山形マット死事件で関わった元生徒3人が確定した損害賠償命令に応じず、強制執行の手続きも取れないとして、遺族が3人に対し時効(10年)により請求権の消滅を防ぐ訴訟を起こした児玉さんの父昭平さん(67)は「何年もかかって続けた裁判の結果が水泡に帰すことは、有平のためにも避けたかった」と話していました。
遺族が元生徒7人に損害賠償を求めた民事訴訟は、2005年9月6日に仙台高裁の判決が確定。全員が死亡に関与したと判断し、7人に約5760万円の支払いを命じています。10年間という期限付きの損害賠償請求権を延長するために、遺族は再び提訴。2016年8月23日に、山形地裁は加害者へ賠償命令を再び出したのです。遺族側の完全勝訴として、山形マット死事件は決着がつきました。
遺族が元生徒7人に損害賠償を求めた民事訴訟は、2005年9月6日に仙台高裁の判決が確定。全員が死亡に関与したと判断し、7人に約5760万円の支払いを命じています。10年間という期限付きの損害賠償請求権を延長するために、遺族は再び提訴。2016年8月23日に、山形地裁は加害者へ賠償命令を再び出したのです。遺族側の完全勝訴として、山形マット死事件は決着がつきました。
現在までに加害者側からの賠償金・謝罪はない
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山形マット死事件の加害者の児童は上級生の3名と同級生の4名。7名全員が事件に関与したとして5760万円の賠償命令を出されました。にも関わらず、10年たっても賠償金を支払わないなど、被害者児童や遺族に対する謝罪の気持ちはうかがえません。もちろん、加害者家族からの謝罪も一切ありません。
加害者たちは30代後半に差し掛かって、結婚したものや公務員として就職したものもいるとのことですが、山形マット死事件から24年が経過し、2016年に再び賠償命令が出たことから完全に事件を忘れて生きているわけではなく、数千万円の賠償を背負って生きていくのだと知れ渡りました。
加害者たちは30代後半に差し掛かって、結婚したものや公務員として就職したものもいるとのことですが、山形マット死事件から24年が経過し、2016年に再び賠償命令が出たことから完全に事件を忘れて生きているわけではなく、数千万円の賠償を背負って生きていくのだと知れ渡りました。
村八分が原因で起きた事件
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まるで生き地獄とも言われる村八分。そんな村八分が原因で実際に事件も起きています。いくつか紹介します。
静岡県上野村村八分事件
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1952年に静岡県富士郡上野村(現在の富士宮市)で起きた、不正選挙の告発に端を発し、告発者一家が村八分にされた人権侵害事件です。
上野村では、1952年以前から組織的な替え玉投票が公然と行われていました。隣組の組長が各家庭を訪問して半ば強引に入場券を回収、回覧板を利用し「棄権防止」という名目のもと入場券が集められ、村の有力者が何度も投票していました。
同村在住の学生・石川皐月さん(のちの加瀬皐月)は事件の2年前から不正が行われていることに気づき憤りを感じていました。事件の引き金となる1952年5月6日に行われた選挙の翌日、石川は朝日新聞に不正選挙を告発することにしました。朝日新聞は5月8日には石川を訪問、さらに数日後には事件の関係者十数名が警察に出頭を命じられました。
上野村では、1952年以前から組織的な替え玉投票が公然と行われていました。隣組の組長が各家庭を訪問して半ば強引に入場券を回収、回覧板を利用し「棄権防止」という名目のもと入場券が集められ、村の有力者が何度も投票していました。
同村在住の学生・石川皐月さん(のちの加瀬皐月)は事件の2年前から不正が行われていることに気づき憤りを感じていました。事件の引き金となる1952年5月6日に行われた選挙の翌日、石川は朝日新聞に不正選挙を告発することにしました。朝日新聞は5月8日には石川を訪問、さらに数日後には事件の関係者十数名が警察に出頭を命じられました。
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これで問題は解決するように見えたが、選挙が終わって暫く経過した頃、石川家に対する村八分が開始されました。田植えの時期になっても手伝う人はおらず、挨拶しても無視をされるようになります。また村民の一部が石川の奨学金を停止しようと各所に働きかけていると知らされます。
同年6月24日付けの朝日新聞を皮切りに、全国の新聞や雑誌が村八分問題を報道し始めます。村民の中には石川を支持する者もいて、教職員らも支持し声明文を発表しています。しかし報道は過熱していき、石川自身、報道や警察への不信を募らせていきます。その後、石川は上京し上野村を離れていた時期もありますが、1952年の秋ごろより村八分は緩和され村人たちとの交流も回復し始めました。
同年6月24日付けの朝日新聞を皮切りに、全国の新聞や雑誌が村八分問題を報道し始めます。村民の中には石川を支持する者もいて、教職員らも支持し声明文を発表しています。しかし報道は過熱していき、石川自身、報道や警察への不信を募らせていきます。その後、石川は上京し上野村を離れていた時期もありますが、1952年の秋ごろより村八分は緩和され村人たちとの交流も回復し始めました。
天理市夫婦村八分事件
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