2019年9月17日 更新

深川通り魔殺人事件の概要や犯人の生い立ちとは?犯人の現在の様子も

通行人を次々に殺害し、人質を使って立てこもりを続けた犯人。この事件は、犯人の逮捕される姿が世間に大きな衝撃を与えますが、それ以上に逮捕後の供述や落語家小遊三との関係も注目された事件です。この記事では、犯人の生い立ちから現在の様子など詳細にご紹介していきます。

目次

法廷が複数回開かれても、川俣軍司の口から反省の言葉も、罪の意識も発せられることはありませんでした。殺害した子供にたいして、「全く気の毒に思わない」と口にします。そして、もし自分が殺害した子供の父親が現れ恨みをはらしたいのであれば、「いつでも会って恨みを晴らさせてやる」と発言しました。

自分がやったように、「腹を刺せばいい」と助言まで付け加えます。子供や妻を殺害された男性は、恐らくそうしたいと考えたでしょう。しかし、川俣軍司は法律によって守られた場所にいますし、被害者遺族には家族を守れなかった自責の念と無念さだけが残されました。

電波でひっついてる役人を全員連れて来い

Satellite Technology Radio - Free photo on Pixabay (636515)

川俣軍司は、立てこもり中も、そして裁判でも、「電波」という言葉を口にします。立てこもっている最中、「電波でひっついている役人を全員連れて来い」という不可解な要求を、警察関係者に伝えていました。

また、裁判では、事件を起こした背景には「電波」があり、「毎日毎晩、昼夜関係なく心理的電波にいじめぬかれたことが原因」と証言しています。川俣軍司が証言する電波とは、頭の中に響くものであり、それらは一瞬の休みも与えずなり続け、時には指示を出してくるようです。

覚せい剤の使用による幻聴症状とも考えられますが、何かしらの精神疾患を患っているのではないかとも考えられました。

川俣軍司の生い立ち

People Baby Bear - Free photo on Pixabay (636516)

深川通り魔殺人事件の犯行内容だけを見ても、川俣軍司という人物の異常性や残忍性が理解できますが、裁判の様子を見ても、人間として欠落している部分があるのではないかと思ってしまうほど、異常な言動を繰り返しています。

川俣軍司はどのような生活を経て、このように異常な人間性を持っていったのでしょうか。ここからは、川俣軍司の生い立ちと、深川通り魔殺人事件を引き起こすまでの生活について、詳細にご紹介していきます。

1952年誕生

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川俣軍司は1952年2月21日、茨城県鹿島郡波崎町太田で誕生します。川俣軍司が育った茨城県鹿島郡波崎町太田という場所は、江戸時代後期まで砂丘や木ばかりで、ほとんど住む人もいませんでした。明治前後から徐々に人々が集まり出し、集落が形成されます。

川俣軍司の一族も、このようにしてこの地に移り住みました。茨城県鹿島郡波崎町太田では、「川俣」という苗字は珍しく、土地も持たない貧しい人々として周知されていたようです。

両親は共に漁業を行っていた

Hands Fisherman Worker - Free photo on Pixabay (636518)

川俣軍司の実家は、周囲の人々が言うように土地を持っていませんでした。そのため、農業や商売をすることが難しく、両親はシジミ漁を行い生計を立てます。シジミ漁は、年中行える仕事ではなかったため、非常に貧しい生活だったようです。

食べるものにも困るような生活で、川俣軍司の母親は満足に母乳が出ず、重湯と呼ばれる米を大量の水で煮たてた乳児職で育てます。貧しいながらも夫婦で支え合い、懸命に生活していたかに思われましたが、川俣軍司の自宅からは父親の怒鳴り声が頻繁に聞かれたようです。

兄と姉が2人ずつの5人兄弟

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川俣軍司は、兄と姉が1人ずつ、そして2人の弟がいる5人兄弟です。兄弟が多く、生活は非常に苦しかったと想像できます。また、川俣軍司の姉は、川俣軍司が幼い頃に死亡しました。姉の死因について、詳しい解説は見つけられませんでしたが、事件性はなく、貧困による栄養失調もしくは病気だったと考えられます。

大人になり、川俣軍司が暴力的行為を行うまで、兄弟は少ないながらも接触していたようです。金銭に困った際、川俣軍司は兄を頼ったこともありました。

進学を諦め中学卒業後上京

Knowledge Book Library - Free photo on Pixabay (636522)

川俣軍司は、非常に大人しい子供でした。自分から他者に話しかけることは少なく、話しかけても時々笑顔を返すような子供だったようです。成績は良くも悪くもありませんでしたが、真面目に小学校中学校を卒業します。当時は、乱暴な一面や、誰かとトラブルを起こす等はありませんでした。

中学校を卒業後、両親や兄弟は進学を進めましたが、「生活が苦しいから」という事を理由に、就職を決め東京に上京します。当時の川俣軍司は、両親や兄弟の生活を思いやるという心を持っていたのです。

入れ墨をきっかけにトラブルを起こすようになる

Tattoo Artist - Free photo on Pixabay (636527)

「日本一の寿司職人になる」ため、川俣軍司は東京に上京し、住み込みで寿司店に勤めました。就職して数年間は、真面目に働き、着実に経験を積みます。しかし、新しく入社した新人と相性が悪く、真面目に働いていた寿司店を辞めることとなりました。

それでも、辞めてすぐに別の寿司店で働き始めます。この時、川俣軍司は入れ墨を入れました。理由は、新しく勤めた勤務先に、入れ墨を入れた先輩がおり、その姿に憧れを持ったからです。この入れ墨をきっかけに、川俣軍司の周りでトラブルが起きるようになります。

寿司店を解雇され職を転々とする

Chef Food Sushi California - Free photo on Pixabay (636530)

入れ墨を入れたことが嬉しかった川俣軍司は、寿司店に来る客に見せびらかすようになります。さらに、来店した客に勧められ酒を飲んだ際、勢いで絡むようになりました。その際も、入れ墨を使い脅すように絡みます。この行為がトラブルのもととなり、事態を重く見た店主は川俣軍司を解雇しました。

この解雇をきっかけに、川俣軍司は職を転々とするようになります。その後も、寿司店に勤めるものの、すぐに解雇される日々を送りました。次第に、自分への自信が失われていきます。

ストレスから酒に依存する

Alkoghol Narkomaniia Paghubnaia - Free photo on Pixabay (636533)

解雇され続けたものの、それでも寿司職人を諦めず、寿司店に就職し続けますが、客や従業員とトラブルを起こしまた解雇されます。続かない仕事、絶えないトラブルにストレスを感じた川俣軍司は、酒に依存するようになりました。

最初に解雇された店でも、酒を飲んだことによってトラブルを引き起こしていることから、川俣軍司の酒癖は良くなかったと言えるでしょう。酒に依存するようになり、酔った勢いでさらにトラブルを重ねました。この頃、寿司職人になる夢を諦め、実家に戻ります。

19~20歳ころから覚せい剤を使用する

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