チャウシェスクの落とし子とは?チャウシェスク政権後の現在の様子も

1960年代後半、社会主義共和国ルーマニアの国家元首チャウシェスクは人工妊娠中絶や離婚を禁止し、ルーマニアの人口は増えましたが、貧困による育児放棄で子供たちは養護施設に出され、劣悪な環境を飛び出しストリートチルドレンになり、現在どうなっているのでしょうか?

1989年、ルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウシェスクと彼の妻エレナは、短時間の見せしめ裁判後、即座に処刑され、第二次世界大戦後に形成された、東欧の『スターリン主義政権』の崩壊をもたらしました。

『スターリン主義政権』とは、1924~1953年、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)の最高指導者を務めた『ヨシフ・スターリン』により、指導者に対する個人崇拝、軍事力や工作活動による暴力的な政策、秘密警察の支配による恐怖政治に通じる思想・体制です。

スターリン主義のエリート達は、国民の抗議につけこんで、新たな資本主義の基盤上に権力と特権を確保し、チャウシェスクを解職し、見せしめに公開処刑しました。そのメンバー達が、ルーマニアの権力と富を支配し、未だに国民は惨めな暮らしを余儀なくされているのです。

チャウシェスク政権の方が良かった

Girl Peasant Woman Tradition - Free photo on Pixabay (553102)

チャウシェスク夫妻が処刑された翌日、群衆によって占拠された国営テレビ局で『ペトレ・ロマン(Petre Roman)』が、革命の勝利を放送し首相に就任しましたが、元ルーマニアの労働組合者、政治家、炭鉱労働者組合のリーダー『ミロン・コズマ(Miron Cozma)』による暴動で首相の座を追われました。

1990年、チャウシェスク側近で取り巻きグループ・メンバーだった『イオン・イリエスク(Ion Iliescu)』が首相に就任。大変な政治的混乱の中で議会選挙に勝利し、更に2年後、大統領選挙に勝利し、チャウシェスク閥の多くの有力な政治家が閣僚の座を占め、イリエスクが国家のあらゆる重要な地位を占有しました。

イリエスクは、最初の国営企業を民営化し、劇的な緊縮政策を断行し、300パーセント以上のインフレ率のおかげで、ルーマニア人は、自活する手段を奪われてしまいました。

チャウシェスク政権後はストライキも

Brasov City Transylvania - Free photo on Pixabay (553103)

チャウシェスクを処刑に追い込むことで大統領になったエリート『イオン・イリエスク』政権下で、300%以上のインフレを引き起こされ、自活する手段を奪われたルーマニア人は、失業と低賃金に対するストライキやデモを繰り返しました。

1993年、政府は商品やサービスに対する補助金を削減することで、さらに大規模なストライキ運動をひき起こすことになりました。1994年には、一企業や組織によるストライキではなく全国的な規模で200万人もの労働者が団結して行われるストライキ=ゼネストが起こされました。

1996年、キリスト教民主党、社会民主党、国民自由党の野党連立が『エミル・コンスタンティネスク(Emil Constantinescu)』を大統領にし、国営企業の民営化を加速させ、社会福祉を攻撃し、西欧マスコミは「本当のチェンジ」だともてはやしましたが、チャウシェスクを失脚させた側近たちだけが潤い続けています。

チャウシェスク政権の犠牲者

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チャウシェスクは、ゲオルギウ・デジの庇護を受け出世した、ただのラッキーな革命者です。1953年にスターリンが死亡し、1965年にチャウシェスクが権力を握って以来、ルーマニア政治は、民族主義、反ユダヤ主義の色合いを帯び、国民を分裂させるために少数派は意図的に差別されました。

政治をエリートたちに牛耳られていたチャウシェスクは殺され、右翼とポスト『スターリン主義』の社会主義政策は基本的に同じままですが、欧州連合加盟の為の基準を満たすためだけに、厳しい金融引き締め政策が遂行され、国有企業が民営化されただけです。

政治エリート内部では、権力、影響力、財源を求める熾烈な戦いが荒れ狂い、政治家全員が社会の重荷を一般大衆に押しつけ、なんの罪もない子供たちがただたくさん産み落とされ、2019年度の1カ月の最低収入が税金と社会保険料引取後に1312レウ(1レウ28円で36736円)という苦しい生活を余儀なくされています。

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