目次
- チャウシェスクの落とし子って何?
- チャウシェスクの落とし子とは
- チャウシェスク政権とは
- 5人生むと優遇される
- 人口増加の代わりに育児放棄が問題
- ストリートチルドレンがあふれた
- 施設と養子
- 成人後に社会不安障害やうつ病などを発症
- 政権の後の現在のルーマニア
- エイズ・結核感染率が高い
- 十分な治療が受けられない
- 落とし子は次第に地下へと
- 売春行為の横行
- Bruce Leeという人物
- 性犯罪者から子どもを保護
- 安全な場所の提供
- 父親が薬の売人であった
- 地下に暮らす人々とリー
- 地下で暮らす人々は皆家族である
- ニコラエ・チャウシェスクとは
- ルーマニア共和国の大統領
- 3男として生まれる
- 2度の逮捕経歴
- 刑務所に入れられる
- 第二次世界大戦後に政権を握る
- 最後は公開銃殺
- チャウシェスク政権の国民からの評価
- チャウシェスク政権の方が良かった
- チャウシェスク政権後はストライキも
- チャウシェスクの落とし子を元ネタにしたアニメは?
- チャウシェスク政権の犠牲者
ニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceaușescu)とは、1960年代後半~1970年代にかけて、東欧社会主義圏にありながらソ連から距離を置き、自主的な外交政策を展開し、国際政治の鍵を握る人物の一人として注目された人物です。
しかし、1980年代に入ると、強権的な統治、個人崇拝、国民生活の窮乏に対すて内外の批判が高まったことで、1989年『東欧革命』の最後を飾る「流血の政変」と言われる『ルーマニア革命』により権力の座を追われ、ワルシャワ条約機構加盟国の中で唯一、処刑された国家元首です。
しかし、1980年代に入ると、強権的な統治、個人崇拝、国民生活の窮乏に対すて内外の批判が高まったことで、1989年『東欧革命』の最後を飾る「流血の政変」と言われる『ルーマニア革命』により権力の座を追われ、ワルシャワ条約機構加盟国の中で唯一、処刑された国家元首です。
ルーマニア共和国の大統領
via pixabay.com
1948年、共産党と社会民主党が併合された『ルーマニア労働者党』書記長『ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ(Gheorghe Gheorghiu-Dej)』が、後継者が決められないまま1965年に死去しました。後継者を巡る対立が起こり、妥協の候補としてゲオルゲ・ゲオルギュ=デジの親友チャウシェスクに白羽の矢が立ちました。
チャウシェスクは、労働者党の第一書記に就任し、政党名を『ルーマニア共産党』へ戻し、国名を『ルーマニア社会主義共和国』へと変更し、1967年、国家元首である国家評議会議長となり、ソ連ではなくアメリカよりであることをアピールし、ルーマニア国内および西側諸国で人気を得て自身の権力を強化しました。
チャウシェスクは自身を「見識ある国際的な政治家」とアピールし、1974年、大統領制を導入し、ルーマニアの初代大統領に就任しました。
チャウシェスクは、労働者党の第一書記に就任し、政党名を『ルーマニア共産党』へ戻し、国名を『ルーマニア社会主義共和国』へと変更し、1967年、国家元首である国家評議会議長となり、ソ連ではなくアメリカよりであることをアピールし、ルーマニア国内および西側諸国で人気を得て自身の権力を強化しました。
チャウシェスクは自身を「見識ある国際的な政治家」とアピールし、1974年、大統領制を導入し、ルーマニアの初代大統領に就任しました。
3男として生まれる
via pixabay.com
チャウシェスクは、1918年、ルーマニア王国(1881年、ルーマニア公国の大公カロル1世が国王に即位して成立した王国。第二次世界大戦の敗戦とソビエト連邦による占領により崩壊し、君主制が廃止されて法的に消滅しました)オルト県スコルニチェシュティ村の貧しい農家にて、10人兄弟の3男として生まれました。
ろくに教育も受けないまま、11歳のとき工場で働くためにルーマニアの首都ブカレストに移住し、家族を支えていました。貧しい生い立ちだったことから泥棒もしたとの記述もあり、共産主義に傾倒していき後の野心に駆り立てたと言われています。
ろくに教育も受けないまま、11歳のとき工場で働くためにルーマニアの首都ブカレストに移住し、家族を支えていました。貧しい生い立ちだったことから泥棒もしたとの記述もあり、共産主義に傾倒していき後の野心に駆り立てたと言われています。
2度の逮捕経歴
via pixabay.com
1932年、非合法組織であった『ルーマニア共産党』に入党し、1933年、逮捕されました。1934年、鉄道職員試験に嘆願抗議する署名運動の扇動を再び起こし、再び逮捕されました。
逮捕当時の警察記録では、チャウシェスクは「危険な共産主義の扇動者」「共産主義の配布者」「反ファシストのプロパガンダ」と記述されています。
貧しさからの反動で、どんなことをしてでも貧しさから抜け出したいと思うほど、当時の生活が苦しかったことが想像されます。
逮捕当時の警察記録では、チャウシェスクは「危険な共産主義の扇動者」「共産主義の配布者」「反ファシストのプロパガンダ」と記述されています。
貧しさからの反動で、どんなことをしてでも貧しさから抜け出したいと思うほど、当時の生活が苦しかったことが想像されます。
刑務所に入れられる
via pixabay.com
2度の逮捕後、チャウシェスクは地下に潜伏し、1936年「反ファシスト」活動の罪により、ドフタナ刑務所に投獄されました。獄中で『レヌーツァ・ペトレスク(Lenuța Petrescu)』と出会い、チャウシェスクはエレナを「終生の伴侶」とし『エレナ・チャウシェスク(Elena Ceaușescu)』に改名させ、1946年、結婚しました。
1940年、チャウシェスクは再び逮捕され投獄され、1943年、トゥルグ・ジウの強制収容所に移されました。この時に『ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ(Gheorghe Gheorghiu-Dej)』と出会い、収容所での生活を共にする。
1940年、チャウシェスクは再び逮捕され投獄され、1943年、トゥルグ・ジウの強制収容所に移されました。この時に『ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ(Gheorghe Gheorghiu-Dej)』と出会い、収容所での生活を共にする。
第二次世界大戦後に政権を握る
via pixabay.com
1945年、第二次世界大戦の敗戦により『ルーマニア王国』は崩壊し、ルーマニアはソビエト連邦に占領されました。1944〜1945年『共産主義青年同盟』の書記を務めていたチャウシェスクは、1947年『ルーマニア共産党』が権力を握ると農業省の『次官』を努め、ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジの下で『国防次官』を務めました。
1952年『アナ・パウケル』らモスクワ派共産主義者が追放され、チャウシェスクは中央委員会の委員になりました。1954年、正式に政治局の一員となり、党内の序列では2番目に高い地位にまで昇り詰め、1965年、親友の『ルーマニア労働者党』書記長『ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ』の死後、事実上の最高指導者になりました。
1952年『アナ・パウケル』らモスクワ派共産主義者が追放され、チャウシェスクは中央委員会の委員になりました。1954年、正式に政治局の一員となり、党内の序列では2番目に高い地位にまで昇り詰め、1965年、親友の『ルーマニア労働者党』書記長『ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ』の死後、事実上の最高指導者になりました。
最後は公開銃殺
via pixabay.com
アメリカなどの西側主要国は、チャウシェスクを「反ソ連の一匹狼」とし、内部分裂を狙い130億ドル以上の融資をし、最終的にルーマニアの国家財政を破綻させました。
1980年代、チャウシェスクは対外債務返済のため、あらゆる農産物や工業品の大量輸出を行い、国内では食糧の配給制が実施され、停電し日々の食糧や冬の暖房用の燃料にも事欠き、国民生活は困窮していきましたが「対外債務返済のための一時的なものであり、最終的には利益になる」と説明されました。
一般市民が商品が無い商店の前に長い行列を作っている中、チャウシェスクが商品でいっぱいの店に入り、大量の食べ物を抱えて芸術祭を訪問する姿が国営テレビで度々放映され、1989年『東欧革命』が起き、ソ連に見放され『ルーマニア革命』で、革命軍の手により妻と共に銃殺刑による公開処刑がされました。
1980年代、チャウシェスクは対外債務返済のため、あらゆる農産物や工業品の大量輸出を行い、国内では食糧の配給制が実施され、停電し日々の食糧や冬の暖房用の燃料にも事欠き、国民生活は困窮していきましたが「対外債務返済のための一時的なものであり、最終的には利益になる」と説明されました。
一般市民が商品が無い商店の前に長い行列を作っている中、チャウシェスクが商品でいっぱいの店に入り、大量の食べ物を抱えて芸術祭を訪問する姿が国営テレビで度々放映され、1989年『東欧革命』が起き、ソ連に見放され『ルーマニア革命』で、革命軍の手により妻と共に銃殺刑による公開処刑がされました。
チャウシェスク政権の国民からの評価
via pixabay.com
1989年、ルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウシェスクと彼の妻エレナは、短時間の見せしめ裁判後、即座に処刑され、第二次世界大戦後に形成された、東欧の『スターリン主義政権』の崩壊をもたらしました。
『スターリン主義政権』とは、1924~1953年、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)の最高指導者を務めた『ヨシフ・スターリン』により、指導者に対する個人崇拝、軍事力や工作活動による暴力的な政策、秘密警察の支配による恐怖政治に通じる思想・体制です。
スターリン主義のエリート達は、国民の抗議につけこんで、新たな資本主義の基盤上に権力と特権を確保し、チャウシェスクを解職し、見せしめに公開処刑しました。そのメンバー達が、ルーマニアの権力と富を支配し、未だに国民は惨めな暮らしを余儀なくされているのです。
『スターリン主義政権』とは、1924~1953年、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)の最高指導者を務めた『ヨシフ・スターリン』により、指導者に対する個人崇拝、軍事力や工作活動による暴力的な政策、秘密警察の支配による恐怖政治に通じる思想・体制です。
スターリン主義のエリート達は、国民の抗議につけこんで、新たな資本主義の基盤上に権力と特権を確保し、チャウシェスクを解職し、見せしめに公開処刑しました。そのメンバー達が、ルーマニアの権力と富を支配し、未だに国民は惨めな暮らしを余儀なくされているのです。
チャウシェスク政権の方が良かった
via pixabay.com
チャウシェスク夫妻が処刑された翌日、群衆によって占拠された国営テレビ局で『ペトレ・ロマン(Petre Roman)』が、革命の勝利を放送し首相に就任しましたが、元ルーマニアの労働組合者、政治家、炭鉱労働者組合のリーダー『ミロン・コズマ(Miron Cozma)』による暴動で首相の座を追われました。
1990年、チャウシェスク側近で取り巻きグループ・メンバーだった『イオン・イリエスク(Ion Iliescu)』が首相に就任。大変な政治的混乱の中で議会選挙に勝利し、更に2年後、大統領選挙に勝利し、チャウシェスク閥の多くの有力な政治家が閣僚の座を占め、イリエスクが国家のあらゆる重要な地位を占有しました。
イリエスクは、最初の国営企業を民営化し、劇的な緊縮政策を断行し、300パーセント以上のインフレ率のおかげで、ルーマニア人は、自活する手段を奪われてしまいました。
1990年、チャウシェスク側近で取り巻きグループ・メンバーだった『イオン・イリエスク(Ion Iliescu)』が首相に就任。大変な政治的混乱の中で議会選挙に勝利し、更に2年後、大統領選挙に勝利し、チャウシェスク閥の多くの有力な政治家が閣僚の座を占め、イリエスクが国家のあらゆる重要な地位を占有しました。
イリエスクは、最初の国営企業を民営化し、劇的な緊縮政策を断行し、300パーセント以上のインフレ率のおかげで、ルーマニア人は、自活する手段を奪われてしまいました。
チャウシェスク政権後はストライキも
via pixabay.com
チャウシェスクを処刑に追い込むことで大統領になったエリート『イオン・イリエスク』政権下で、300%以上のインフレを引き起こされ、自活する手段を奪われたルーマニア人は、失業と低賃金に対するストライキやデモを繰り返しました。
1993年、政府は商品やサービスに対する補助金を削減することで、さらに大規模なストライキ運動をひき起こすことになりました。1994年には、一企業や組織によるストライキではなく全国的な規模で200万人もの労働者が団結して行われるストライキ=ゼネストが起こされました。
1996年、キリスト教民主党、社会民主党、国民自由党の野党連立が『エミル・コンスタンティネスク(Emil Constantinescu)』を大統領にし、国営企業の民営化を加速させ、社会福祉を攻撃し、西欧マスコミは「本当のチェンジ」だともてはやしましたが、チャウシェスクを失脚させた側近たちだけが潤い続けています。
1993年、政府は商品やサービスに対する補助金を削減することで、さらに大規模なストライキ運動をひき起こすことになりました。1994年には、一企業や組織によるストライキではなく全国的な規模で200万人もの労働者が団結して行われるストライキ=ゼネストが起こされました。
1996年、キリスト教民主党、社会民主党、国民自由党の野党連立が『エミル・コンスタンティネスク(Emil Constantinescu)』を大統領にし、国営企業の民営化を加速させ、社会福祉を攻撃し、西欧マスコミは「本当のチェンジ」だともてはやしましたが、チャウシェスクを失脚させた側近たちだけが潤い続けています。
チャウシェスクの落とし子を元ネタにしたアニメは?
via pixabay.com
3 / 4