チャウシェスクの落とし子とは?チャウシェスク政権後の現在の様子も

1960年代後半、社会主義共和国ルーマニアの国家元首チャウシェスクは人工妊娠中絶や離婚を禁止し、ルーマニアの人口は増えましたが、貧困による育児放棄で子供たちは養護施設に出され、劣悪な環境を飛び出しストリートチルドレンになり、現在どうなっているのでしょうか?

ブルース・リーの父親が薬の売人であったとは確認されていませんが、捉え方次第ではブルース・リー自体が「チャウシェスクの落し子」たちの父親とされている部分もありました。

しかし、家の無い子、親の居ない子、施設にいる「チャウシェスクの落し子」と呼ばれている子に嘘をついて騙し連れて行き「皆家族だ」と洗脳し、覚醒剤の密売や売春等をさせ、薬物でコントロールし沢山の子供を薬物中毒で殺しているとも言われています。

どしらにしろ組織化していく「チャウシェスクの落し子」にとっては、いなくては生きていけなかったのが『ブルース・リー』だったのでしょう。

地下に暮らす人々とリー

Tunnel Subway Metro - Free photo on Pixabay (553092)

「チャウシェスクの落し子」は、地下の下水道で生活を営み始めました。マンホールタウンの入り口は、ブカレスト市内にある車の通りが多く開けた駅の近くに、襲われにくいように意図的に1人ずつしか入れないように狭く作られています。

地下には電気は通っており、数百人の「チャウシェスクの落し子」がある程度文明的に暮らしていました。この地下帝国の全てをまとめるカリスマ的指導者が『ブルース・リー』です。

彼も「チャウシェスクの落し子」で、3歳の時に両親から捨てられ孤児院で育ったのです。いつも毒々しい服装に身を包み、腕や腹にはタトゥーと、自傷行為による切り傷が刻まれており、同じ境遇の人間に対して親のような優しさを持って接していたそうです。

地下で暮らす人々は皆家族である

Lost Places Keller Elevator - Free photo on Pixabay (553093)

彼は、日本からの取材に対し「マンホールタウンの住人は、麻薬中毒者やマフィアに良いように使われ、暴力を受け奴隷だった。だから俺がマフィアと喧嘩しこいつらの地位を上げた」

「マンホールタウンの住人は、ほとんどが孤児院の出身で、俺は俺たちが社会が思っているような屑じゃないことを証明したくて組織化しようとしたんだ。社会が俺らを見捨てるなら、俺がこいつらに食事と暖かさと保護者としてのアドバイスや理解を与えてやる。俺たちは家族だ」

「違法薬物を売買し、お金を稼ぎマンホールの住人に食事を提供し、ギャングから住人を守るためにみかじめ料を支払っている」と言いましたが、現在リーは逮捕され投獄され、マンホールは閉じられました。

ニコラエ・チャウシェスクとは

Palace People'S Bucharest - Free photo on Pixabay (553094)

ニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceaușescu)とは、1960年代後半~1970年代にかけて、東欧社会主義圏にありながらソ連から距離を置き、自主的な外交政策を展開し、国際政治の鍵を握る人物の一人として注目された人物です。

しかし、1980年代に入ると、強権的な統治、個人崇拝、国民生活の窮乏に対すて内外の批判が高まったことで、1989年『東欧革命』の最後を飾る「流血の政変」と言われる『ルーマニア革命』により権力の座を追われ、ワルシャワ条約機構加盟国の中で唯一、処刑された国家元首です。

ルーマニア共和国の大統領

King Crown History - Free photo on Pixabay (553095)

1948年、共産党と社会民主党が併合された『ルーマニア労働者党』書記長『ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ(Gheorghe Gheorghiu-Dej)』が、後継者が決められないまま1965年に死去しました。後継者を巡る対立が起こり、妥協の候補としてゲオルゲ・ゲオルギュ=デジの親友チャウシェスクに白羽の矢が立ちました。

チャウシェスクは、労働者党の第一書記に就任し、政党名を『ルーマニア共産党』へ戻し、国名を『ルーマニア社会主義共和国』へと変更し、1967年、国家元首である国家評議会議長となり、ソ連ではなくアメリカよりであることをアピールし、ルーマニア国内および西側諸国で人気を得て自身の権力を強化しました。

チャウシェスクは自身を「見識ある国際的な政治家」とアピールし、1974年、大統領制を導入し、ルーマニアの初代大統領に就任しました。

3男として生まれる

Boys Friends Poor Black And - Free photo on Pixabay (553096)

チャウシェスクは、1918年、ルーマニア王国(1881年、ルーマニア公国の大公カロル1世が国王に即位して成立した王国。第二次世界大戦の敗戦とソビエト連邦による占領により崩壊し、君主制が廃止されて法的に消滅しました)オルト県スコルニチェシュティ村の貧しい農家にて、10人兄弟の3男として生まれました。

ろくに教育も受けないまま、11歳のとき工場で働くためにルーマニアの首都ブカレストに移住し、家族を支えていました。貧しい生い立ちだったことから泥棒もしたとの記述もあり、共産主義に傾倒していき後の野心に駆り立てたと言われています。

2度の逮捕経歴

Handcuffs Law Enforcement Cuffs - Free vector graphic on Pixabay (553097)

1932年、非合法組織であった『ルーマニア共産党』に入党し、1933年、逮捕されました。1934年、鉄道職員試験に嘆願抗議する署名運動の扇動を再び起こし、再び逮捕されました。

逮捕当時の警察記録では、チャウシェスクは「危険な共産主義の扇動者」「共産主義の配布者」「反ファシストのプロパガンダ」と記述されています。

貧しさからの反動で、どんなことをしてでも貧しさから抜け出したいと思うほど、当時の生活が苦しかったことが想像されます。

刑務所に入れられる

Human Rights Prison Jail - Free photo on Pixabay (553098)

2度の逮捕後、チャウシェスクは地下に潜伏し、1936年「反ファシスト」活動の罪により、ドフタナ刑務所に投獄されました。獄中で『レヌーツァ・ペトレスク(Lenuța Petrescu)』と出会い、チャウシェスクはエレナを「終生の伴侶」とし『エレナ・チャウシェスク(Elena Ceaușescu)』に改名させ、1946年、結婚しました。

1940年、チャウシェスクは再び逮捕され投獄され、1943年、トゥルグ・ジウの強制収容所に移されました。この時に『ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ(Gheorghe Gheorghiu-Dej)』と出会い、収容所での生活を共にする。

第二次世界大戦後に政権を握る

War Soldiers Warrior - Free photo on Pixabay (553099)

1945年、第二次世界大戦の敗戦により『ルーマニア王国』は崩壊し、ルーマニアはソビエト連邦に占領されました。1944〜1945年『共産主義青年同盟』の書記を務めていたチャウシェスクは、1947年『ルーマニア共産党』が権力を握ると農業省の『次官』を努め、ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジの下で『国防次官』を務めました。

1952年『アナ・パウケル』らモスクワ派共産主義者が追放され、チャウシェスクは中央委員会の委員になりました。1954年、正式に政治局の一員となり、党内の序列では2番目に高い地位にまで昇り詰め、1965年、親友の『ルーマニア労働者党』書記長『ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ』の死後、事実上の最高指導者になりました。

最後は公開銃殺

Submachine Gun Rifle Automatic - Free photo on Pixabay (553100)

アメリカなどの西側主要国は、チャウシェスクを「反ソ連の一匹狼」とし、内部分裂を狙い130億ドル以上の融資をし、最終的にルーマニアの国家財政を破綻させました。

1980年代、チャウシェスクは対外債務返済のため、あらゆる農産物や工業品の大量輸出を行い、国内では食糧の配給制が実施され、停電し日々の食糧や冬の暖房用の燃料にも事欠き、国民生活は困窮していきましたが「対外債務返済のための一時的なものであり、最終的には利益になる」と説明されました。

一般市民が商品が無い商店の前に長い行列を作っている中、チャウシェスクが商品でいっぱいの店に入り、大量の食べ物を抱えて芸術祭を訪問する姿が国営テレビで度々放映され、1989年『東欧革命』が起き、ソ連に見放され『ルーマニア革命』で、革命軍の手により妻と共に銃殺刑による公開処刑がされました。

チャウシェスク政権の国民からの評価

Rainbow Weather Sky - Free photo on Pixabay (553101)

3 / 4

関連する記事 こんな記事も人気です♪