2019年9月26日 更新

紅林麻雄とは?紅林麻雄の生い立ちや生み出した数々の冤罪事件

紅林麻雄という人物をご存知でしょうか。静岡県警で数々の難事件を解決してきた名刑事ですが、別名「拷問王」と呼ばれた警察官です。紅林麻雄の生涯と最期と死因、警察退職後のその後の人生や、家族や親族、子供について簡単にご紹介します。

目次

袴田事件では、紅林麻雄の部下たちにより袴田巌が冤罪の罪を着せられ、約45年ぶりに外の世界へと出ることが出来ました。袴田事件では、「どうにかして犯人を捕まえたい」と考えている紅林麻雄側と、検察側は事件の証拠を捏造し、裁判官は検察側に加担したことで、袴田巌は死刑判決を受けました。

袴田事件は、紅林麻雄警察側と検察側と裁判官側、この3つの勢力がグルになり袴田巌を犯人に仕立てあげたのです。お互いがお互いグルになることでメリットがあったのです。

未解決事件を作らないため

Hand Blood Smeared - Free image on Pixabay (657656)

紅林麻雄は、今まで数多くの事件を難事件を解決してきた名刑事です。その分、上司や部下など、周りの期待や重圧はすごいものだったのではないでしょうか。事件を解決しなければ、周りの目は変わってしまう、期待されているからその期待に応えないといけない、などのプレッシャーを感じていたはずです。

紅林麻雄が冤罪事件を生み出した要因の一つとして、現在の紅林麻雄の地位が下がってしまうことを恐れて冤罪事件を作り続けたのではないかと言われています。

自白偏重主義

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日本は「自白偏重主義」といえます。例えば事件が起きて犯人が捕まったとします。犯人は逮捕・起訴されて「自白」をしたことにより判決が決まり、刑務所に服役します。ですが別の事件で逮捕された犯人が、前の事件の犯行も自供したことで「真犯人」であることが判明しました。

ですが日本の刑事控訴は「自供」を偏重しています。犯行現場のDNA等の証拠に何か不一致等があっても、日本は「自白」を偏重しているから冤罪事件や、無関係の人間を犯人と思い込んで捕まえてしまうといったことがおきてしまうのです。

科学捜査などが確立されていなかった

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「ヒト型DNA鑑定」は、現在の捜査に多く使用されている科学捜査の一つです。犯人特定や犯罪時事実の証明に欠かせない存在になっています。日本で科学捜査が使用され始めたのは1980年代と、実はここ最近です。DNA型による個人識別法を日本で初めて捜査で使用されました。

これをきっかけに様々な事件に対してDNA鑑定が行われ、裁判では証拠として提出されたりされ、現在の捜査では無くてはならない存在になっています。

紅林麻雄の最期とその死因

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数々の冤罪事件を生み出し、「拷問王」という別名を持った紅林麻雄ですが、その最期はどのような感じだったのでしょうか。紅林麻雄の最期の生涯を紹介します。

冤罪の数々が暴かれる

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紅林麻雄は高い推理能力を駆使し、数々の難事件を解決へと導いてきました。ですが、今まで紅林麻雄が担当し、解決してきたと思われていた「幸浦事件」「二俣事件」「小島事件」「島田事件」「袴田事件」が実は冤罪事件であったことが判明します。後に紅林麻雄は「拷問王」「冤罪製造機」と悪名を付けられてしまいます。

どの事件も、死刑判決や無期懲役の判決後に無罪判決を受けています。この事が世間に知れ渡り、紅林麻雄は批判を浴びます。

降格

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数々の事件を解決してきたように見えましたが、その事件の冤罪がどんどん暴かれていきます。幸浦事件、二俣事件の有罪判決破棄の差し戻しが決まりました。

紅林麻雄は御殿場警察署次席警部という地位にあったのですが、静岡県警上層部や世の中から激しい非難を浴び、吉原警察署駅前派出所へと左遷されました。しかも交通巡視員という実質的、二階級の降格でした。ですが、紅林麻雄はそれらの圧力に屈することはありませんでした。

警察上層部からの辞職圧力

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紅林麻雄は、自身が行ってきたことを決して悪いことだとは認めませんでした。警部の身分だった紅林麻雄でしたが、静岡県警の上層部の圧力により交通巡視員の立場になったのは、県警の辞職圧力があったからでした。ですが、紅林麻雄はそれでも警察を辞めることはありませんでした。

決して自分が過去に行ってきたことを償う気はありませんでした。むしろ悪いことだと思っておらず、警察や世の批判を浴びても気にすることはありませんでした。

自身を非難する人々に対して言論の暴力だと訴えた

Pointing Accusation Accuse - Free image on Pixabay (661095)

紅林麻雄にはたくさんの非難の言葉が浴びせられました。ですが、彼がその非難に屈することは決してありませんでした。むしろ、自身を非難する人たちを「ヒトラーがユダヤ人追放を叫んだときのような、きちがいじみた姿」で、言論の暴力だと非難しました。

更に「真実は犯人だけが知っている」という反論の手記を昭和34年12月21日号の「週間文春」に掲載します。自身を理不尽な攻撃にさらされた受難者として反論しました。

被害者の証言と紅林麻雄の反論

Fight Duel People Bear And - Free photo on Pixabay (661254)

被害者が紅林麻雄によって激しい拷問を受けたことを訴える被害者がいた場合、彼は弁護士による洗脳のせいで嘘を真実だと思い込まれていると反論しました。自身が行ってきた拷問や自白の強要、供述調書の捏造などの違法捜査を認めることはありませんでした。

紅林麻雄は、上層部や世間の批判に屈することなく、警察からの辞職圧力があっても、自身の行いが悪いことだと思わず拷問があったことを認めず、警察官でいることに徹したのです。

紅林麻雄の主張

Sheep Bleat Communication - Free photo on Pixabay (661269)

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