2019年9月26日 更新

紅林麻雄とは?紅林麻雄の生い立ちや生み出した数々の冤罪事件

紅林麻雄という人物をご存知でしょうか。静岡県警で数々の難事件を解決してきた名刑事ですが、別名「拷問王」と呼ばれた警察官です。紅林麻雄の生涯と最期と死因、警察退職後のその後の人生や、家族や親族、子供について簡単にご紹介します。

目次

紅林麻雄は捜査能力が高く、どんな些細な手がかりでも犯人を追い詰め自白にこぎつけていきました。紅林麻雄は、犯人しか知っているはずがない秘密の暴露を強要しています。

幸浦事件では、被疑者四人に対し過激な拷問と自白の強要をさせました。そして、警察は事前に把握していた遺体の遺棄場所を四人の被疑者たちに自供するように巧みに誘導し、秘密の暴露と偽っています。紅林麻雄はこうして被疑者たちをどんどん追い詰めていたのです。

内部告発した刑事を偽証罪で逮捕

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二俣事件を捜査していた山崎兵八刑事は、紅林麻雄が行った拷問や自白の強要、供述調書の捏造等の行為を読売新聞と、当時の被疑者の担当弁護士に手紙を送って冤罪を告発しました。山崎刑事が告発をした理由として、刑事たちの会話で、被疑者が死刑判決が出る見込みであることを聞き、無罪である少年を救うために告発したといわれています。

その後山崎刑事は偽証罪で逮捕されます。山崎刑事は法廷で、被疑者の無罪と紅林麻雄の拷問があった事実を訴えますが、更に精神異常の疑いで名古屋拘置所で精神鑑定を受けます。

統合失調症であることを強調し辞職に追い込む

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山崎刑事は偽証罪で逮捕され、裁判では少年の無罪と紅林麻雄がやってきた拷問の取調べや自白の強要などの事実を訴えますが、裁判に出廷してた二俣署長によって山崎刑事の人格否定等の印象操作がされ妄想性痴呆症ました。検事は山崎刑事を精神鑑定で「妄想性痴呆症(妄想型統合失調症の旧称)」と診断結果を出します。

その後、山崎刑事は偽証罪は不起訴となり釈放されます。そして辞職願を書かされ七年間勤めた警察署を退職させられた上、公安委員会により妄想性痴呆症の診断結果を理由に自動車免許を取り消されてしまいます。

退職後に自宅が放火され全焼

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山崎刑事は警察を退職後、自動車免許を取り消されてしまい新聞配達や牛乳配達で生計を立てていました。当時、山崎刑事には5人の子供がおり、子供を抱えながらの生活は困窮してしまいます。更に逮捕されたことが村に広まってしまい、村八分や、親族からは縁を切るとも言われてしまい、周りから嫌がらせを受けます。

事件から10年後の1961年には家が不審火によって全焼してしまいます。この不審火はコタツの不始末が原因で片付けられてしまい、この火事によって山崎刑事が集めていた事件の資料を失ってしまいます。

内部告発した人物の次男を逮捕

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1961年に、山崎刑事の家が不審火で全焼してしまいます。当時、小6の次女と小3の次男が「長靴の男が入っていくのを見た後に火が出た」と目撃証言をしていますが、警察は当時小3だった次男を補導し、犯人扱いして尋問をします。

警察は長時間に渡って次男を執拗に尋問します。「お前が火をつけたのだろう」などと、長時間攻め続けられます。結局、次男が火をつけた証拠を見つけることが出来ず、次男は身柄を解放されます。

空腹の少年の前に親子丼を差し出す

Rice Dish Bowl Plate - Free photo on Pixabay (630127)

山崎刑事の次男に対する取り調べは、当時小3の次男にとっては過酷な物でした。大の大人が何人も執拗に、小3の次男に対して「お前が家に火をつけたのだろう」と長時間攻め続け、しかも食事を与えなかったのです。極限の空腹状態の中、親子丼が次男の目の前に差し出されます。

「自分がやったと認めれば、食べてもいい」と誘惑を仕掛けてきたのです。そして無理やり次男に罪を認めさせたのです。次男はこの事がトラウマになり、現在でも親子丼を食べることが出来ません。そしてこのときの記憶を完全に無くしてしまっています。

主犯と見られる男性の持病を悪化させ死亡させる

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幸浦事件で四人の被疑者が逮捕されます。紅林麻雄による拷問の末に自白の強要をされ、刑事たちが作った捏造の供述書を無理やり認めさせていたと言われています。

四人の被疑者のうち、主犯とされた一人には持病がありました。癲癇(てんかん)の持病があったのですが、紅林麻雄の度重なる拷問のせいなのか、持病が悪化してしまったのかは分かりませんが、上告中に持病の癲癇が悪化してしまい、無実を手にすることなく1959年の8月に亡くなっています。

紅林麻雄の部下もまた同じ手法をとるようになる

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紅林麻雄には部下がおり「紅林チルドレン」と呼ばれていました。島田事件、袴田事件のこの二つの事件は紅林麻雄ではなく、紅林麻雄の部下が担当していました。この紅林チルドレンは紅林麻雄の拷問による自白の強要、供述調書の捏造など、今まで紅林麻雄がやってきたことを受け継ぎ、その経験を活かして島田事件、袴田事件のこの二つの事件を担当しています。

これは紅林麻雄が亡き今でも広まっており、冤罪事件がなくならない悪しき習慣であり、原因の一つともいわれています。

拷問行為の隠ぺい

Cloth Drape Drapes - Free photo on Pixabay (630203)

紅林麻雄は、別名「拷問王」と呼ばれ恐れられていましたが、実際は紅林麻雄は部下に拷問の指示をしているだけで実行していたのは紅林麻雄の部下が拷問を行っていたと言われています。

紅林麻雄は拷問を担当する部下と、調書を取る部下に分けていて、それぞれがいる場所を変えていました。そうすることで拷問による指摘があったとしても、拷問と自白は別物であると否定することができます。紅林麻雄はそれを狙い、部下にそのように指示を出していたのです。

紅林麻雄が生み出した冤罪事件

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紅林麻雄は数々の冤罪事件を生み出してきました。紅林麻雄が生み出した冤罪事件はどのような事件だったのでしょうか。簡単にご紹介します。

1948年幸浦事件

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