目次
- 数多くの冤罪事件を生みだした紅林麻雄について
- 紅林麻雄とは
- 生まれと出身
- 数々の事件を解決した名刑事
- 500件以上の表彰を受ける
- 表彰の陰で拷問による自白の強要
- 証拠品の捏造
- 拷問王と評される
- 収賄が暴露される
- 最期まで自身の非を認めなかった
- 紅林麻雄が行った拷問・愚行の数々
- 一般人を逮捕
- 殴る蹴るは当たり前
- 別件逮捕
- 最長17時間の取り調べ
- 焼火箸での焼印
- バケツへ排泄物垂れ流しさせる
- 奇声を上げる囚人の隣にし一切の睡眠を許さない
- アリバイがある人物にトリックであることを強要
- 秘密の暴露を強要
- 内部告発した刑事を偽証罪で逮捕
- 統合失調症であることを強調し辞職に追い込む
- 退職後に自宅が放火され全焼
- 内部告発した人物の次男を逮捕
- 空腹の少年の前に親子丼を差し出す
- 主犯と見られる男性の持病を悪化させ死亡させる
- 紅林麻雄の部下もまた同じ手法をとるようになる
- 拷問行為の隠ぺい
- 紅林麻雄が生み出した冤罪事件
- 1948年幸浦事件
- 1950年二俣事件
- 1950年小島事件
- 1954年島田事件
- 1966年袴田事件
- 紅林麻雄が冤罪を作り続けた理由・背景
- 強力犯捜査の権威者となる
- 自身へのおごりによる決めつけ捜査
- 虚構と現実の混同
- 検察や裁判所にとって都合が良かったため見逃されていた
- 同僚意識
- 未解決事件を作らないため
- 自白偏重主義
- 科学捜査などが確立されていなかった
- 紅林麻雄の最期とその死因
- 冤罪の数々が暴かれる
- 降格
- 警察上層部からの辞職圧力
- 自身を非難する人々に対して言論の暴力だと訴えた
- 被害者の証言と紅林麻雄の反論
- 紅林麻雄の主張
- 後に酒浸りとなったという噂
- 警察を依願退職
- 1963年9月に死亡
- 最期まで冤罪の罪で裁かれることはなかった
- 紅林麻雄の家族や子供など親族の情報
- 情報がほとんど出回っていない
- デマ情報や苗字が同じというだけで被害に合っている人もいる
- 冤罪事件は過去の話ではない
- 痴漢による冤罪によって職を失う人がいる
- 冤罪を生みやすい別件逮捕は現在も行われている
- 一度有罪判決が下ると覆すのは非常に難しい
- 2000年以降の冤罪件数は数十件にのぼる
- 静岡県警察では2012年に冤罪事件が発生している
- 現代でも無くならない冤罪
紅林麻雄は捜査能力が高く、どんな些細な手がかりでも犯人を追い詰め自白にこぎつけていきました。紅林麻雄は、犯人しか知っているはずがない秘密の暴露を強要しています。
幸浦事件では、被疑者四人に対し過激な拷問と自白の強要をさせました。そして、警察は事前に把握していた遺体の遺棄場所を四人の被疑者たちに自供するように巧みに誘導し、秘密の暴露と偽っています。紅林麻雄はこうして被疑者たちをどんどん追い詰めていたのです。
幸浦事件では、被疑者四人に対し過激な拷問と自白の強要をさせました。そして、警察は事前に把握していた遺体の遺棄場所を四人の被疑者たちに自供するように巧みに誘導し、秘密の暴露と偽っています。紅林麻雄はこうして被疑者たちをどんどん追い詰めていたのです。
内部告発した刑事を偽証罪で逮捕
via pixabay.com
二俣事件を捜査していた山崎兵八刑事は、紅林麻雄が行った拷問や自白の強要、供述調書の捏造等の行為を読売新聞と、当時の被疑者の担当弁護士に手紙を送って冤罪を告発しました。山崎刑事が告発をした理由として、刑事たちの会話で、被疑者が死刑判決が出る見込みであることを聞き、無罪である少年を救うために告発したといわれています。
その後山崎刑事は偽証罪で逮捕されます。山崎刑事は法廷で、被疑者の無罪と紅林麻雄の拷問があった事実を訴えますが、更に精神異常の疑いで名古屋拘置所で精神鑑定を受けます。
その後山崎刑事は偽証罪で逮捕されます。山崎刑事は法廷で、被疑者の無罪と紅林麻雄の拷問があった事実を訴えますが、更に精神異常の疑いで名古屋拘置所で精神鑑定を受けます。
統合失調症であることを強調し辞職に追い込む
via pixabay.com
山崎刑事は偽証罪で逮捕され、裁判では少年の無罪と紅林麻雄がやってきた拷問の取調べや自白の強要などの事実を訴えますが、裁判に出廷してた二俣署長によって山崎刑事の人格否定等の印象操作がされ妄想性痴呆症ました。検事は山崎刑事を精神鑑定で「妄想性痴呆症(妄想型統合失調症の旧称)」と診断結果を出します。
その後、山崎刑事は偽証罪は不起訴となり釈放されます。そして辞職願を書かされ七年間勤めた警察署を退職させられた上、公安委員会により妄想性痴呆症の診断結果を理由に自動車免許を取り消されてしまいます。
その後、山崎刑事は偽証罪は不起訴となり釈放されます。そして辞職願を書かされ七年間勤めた警察署を退職させられた上、公安委員会により妄想性痴呆症の診断結果を理由に自動車免許を取り消されてしまいます。
退職後に自宅が放火され全焼
via pixabay.com
山崎刑事は警察を退職後、自動車免許を取り消されてしまい新聞配達や牛乳配達で生計を立てていました。当時、山崎刑事には5人の子供がおり、子供を抱えながらの生活は困窮してしまいます。更に逮捕されたことが村に広まってしまい、村八分や、親族からは縁を切るとも言われてしまい、周りから嫌がらせを受けます。
事件から10年後の1961年には家が不審火によって全焼してしまいます。この不審火はコタツの不始末が原因で片付けられてしまい、この火事によって山崎刑事が集めていた事件の資料を失ってしまいます。
事件から10年後の1961年には家が不審火によって全焼してしまいます。この不審火はコタツの不始末が原因で片付けられてしまい、この火事によって山崎刑事が集めていた事件の資料を失ってしまいます。
内部告発した人物の次男を逮捕
via pixabay.com
1961年に、山崎刑事の家が不審火で全焼してしまいます。当時、小6の次女と小3の次男が「長靴の男が入っていくのを見た後に火が出た」と目撃証言をしていますが、警察は当時小3だった次男を補導し、犯人扱いして尋問をします。
警察は長時間に渡って次男を執拗に尋問します。「お前が火をつけたのだろう」などと、長時間攻め続けられます。結局、次男が火をつけた証拠を見つけることが出来ず、次男は身柄を解放されます。
警察は長時間に渡って次男を執拗に尋問します。「お前が火をつけたのだろう」などと、長時間攻め続けられます。結局、次男が火をつけた証拠を見つけることが出来ず、次男は身柄を解放されます。
空腹の少年の前に親子丼を差し出す
via pixabay.com
山崎刑事の次男に対する取り調べは、当時小3の次男にとっては過酷な物でした。大の大人が何人も執拗に、小3の次男に対して「お前が家に火をつけたのだろう」と長時間攻め続け、しかも食事を与えなかったのです。極限の空腹状態の中、親子丼が次男の目の前に差し出されます。
「自分がやったと認めれば、食べてもいい」と誘惑を仕掛けてきたのです。そして無理やり次男に罪を認めさせたのです。次男はこの事がトラウマになり、現在でも親子丼を食べることが出来ません。そしてこのときの記憶を完全に無くしてしまっています。
「自分がやったと認めれば、食べてもいい」と誘惑を仕掛けてきたのです。そして無理やり次男に罪を認めさせたのです。次男はこの事がトラウマになり、現在でも親子丼を食べることが出来ません。そしてこのときの記憶を完全に無くしてしまっています。
主犯と見られる男性の持病を悪化させ死亡させる
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幸浦事件で四人の被疑者が逮捕されます。紅林麻雄による拷問の末に自白の強要をされ、刑事たちが作った捏造の供述書を無理やり認めさせていたと言われています。
四人の被疑者のうち、主犯とされた一人には持病がありました。癲癇(てんかん)の持病があったのですが、紅林麻雄の度重なる拷問のせいなのか、持病が悪化してしまったのかは分かりませんが、上告中に持病の癲癇が悪化してしまい、無実を手にすることなく1959年の8月に亡くなっています。
四人の被疑者のうち、主犯とされた一人には持病がありました。癲癇(てんかん)の持病があったのですが、紅林麻雄の度重なる拷問のせいなのか、持病が悪化してしまったのかは分かりませんが、上告中に持病の癲癇が悪化してしまい、無実を手にすることなく1959年の8月に亡くなっています。
紅林麻雄の部下もまた同じ手法をとるようになる
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紅林麻雄には部下がおり「紅林チルドレン」と呼ばれていました。島田事件、袴田事件のこの二つの事件は紅林麻雄ではなく、紅林麻雄の部下が担当していました。この紅林チルドレンは紅林麻雄の拷問による自白の強要、供述調書の捏造など、今まで紅林麻雄がやってきたことを受け継ぎ、その経験を活かして島田事件、袴田事件のこの二つの事件を担当しています。
これは紅林麻雄が亡き今でも広まっており、冤罪事件がなくならない悪しき習慣であり、原因の一つともいわれています。
これは紅林麻雄が亡き今でも広まっており、冤罪事件がなくならない悪しき習慣であり、原因の一つともいわれています。
拷問行為の隠ぺい
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紅林麻雄は、別名「拷問王」と呼ばれ恐れられていましたが、実際は紅林麻雄は部下に拷問の指示をしているだけで実行していたのは紅林麻雄の部下が拷問を行っていたと言われています。
紅林麻雄は拷問を担当する部下と、調書を取る部下に分けていて、それぞれがいる場所を変えていました。そうすることで拷問による指摘があったとしても、拷問と自白は別物であると否定することができます。紅林麻雄はそれを狙い、部下にそのように指示を出していたのです。
紅林麻雄は拷問を担当する部下と、調書を取る部下に分けていて、それぞれがいる場所を変えていました。そうすることで拷問による指摘があったとしても、拷問と自白は別物であると否定することができます。紅林麻雄はそれを狙い、部下にそのように指示を出していたのです。
紅林麻雄が生み出した冤罪事件
via pixabay.com
紅林麻雄は数々の冤罪事件を生み出してきました。紅林麻雄が生み出した冤罪事件はどのような事件だったのでしょうか。簡単にご紹介します。
1948年幸浦事件
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