2019年9月26日 更新

紅林麻雄とは?紅林麻雄の生い立ちや生み出した数々の冤罪事件

紅林麻雄という人物をご存知でしょうか。静岡県警で数々の難事件を解決してきた名刑事ですが、別名「拷問王」と呼ばれた警察官です。紅林麻雄の生涯と最期と死因、警察退職後のその後の人生や、家族や親族、子供について簡単にご紹介します。

目次

幸浦事件とは、1948年に静岡県で起きた強盗殺人事件です。1948年に静岡県静岡県磐田郡幸浦村(現・袋井市)の自営業を営んでいる一家四人が忽然と姿を消し、その後四人の絞殺遺体が埋められて発見された事件です。この事件で被疑者四人が別件逮捕されました。

四人は紅林麻雄により焼火箸を手や耳に押し付けられたりなどの拷問を受け、あたかも四人から自供を聴取したかのように供述調書を記載したりなどのでっち上げを行っていました。四人は死刑判決を受けますが、重大な誤認事実があることを発見し、1963年に四人は無罪判決を勝ち取ります。

1950年二俣事件

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二俣事件とは1950年に当時の静岡県磐田郡二俣町(現在の浜松市天竜区二俣町)で起こった事件です。就寝中だった一家四人が殺され、当時現場近くに住んでいた少年(当時18歳)が窃盗被疑事件の容疑で別件逮捕されました。この被疑者の少年に対して、紅林麻雄は拷問と自白の強要を行い、少年が四人を殺したことを認めさせて報道陣に公表しました。

結果、少年は裁判で無罪と二俣事件に関して一切の関与を否定しましたが死刑判決を下されます。ですが少年にはアリバイが存在し犯行が不可能であったことや誤認事実があり、1957年に無罪判決を勝ち取ります。

1950年小島事件

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小島事件(おじまじけん)は1950年に静岡県庵原郡小島村で飴製造業者の妻が蒔割り斧で撲殺された惨殺な事件です。現場は荒らされており、2,500円が盗まれていることが判明しました。捜査は難航しましたが同村に住む男性(当時27歳)が窃盗容疑で別件逮捕されます。男性は目撃情報と見た目が一致、更に被害者家族に恨みを持っていたと言われていました。

男性は犯行を自白しましたが、それは紅林麻雄らによる拷問による自白の強要のせいでした。男性は裁判で死刑判決を下されますが自白の不自然性や取調べの後に被疑者が負傷していた点など、不自然な点が数多く見られ、1959年に無罪判決、事件は冤罪と認められました。

1954年島田事件

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島田事件とは1954年に静岡県島田市で起こった幼女誘拐、殺人死体遺棄事件のことです。幼稚園で卒業記念行事の最中に6歳の女児が行方不明になり遺体で発見されました。いくつかの犯人の目撃情報はありましたが、犯人確保には繋がらず捜査は難航していました。

ですが、当時重要参考人としていた被疑者、赤堀正夫(あかほりまさお)が職務質問を受け、正当な理由無く身柄を拘束され静岡警察署に護送されます。赤堀正夫はそこで紅林麻雄の部下により激しい拷問を受け、自白の強要と嘘の供述をさせて供述調書を作成し、その事を警察は報道機関に公表しました。

赤堀正夫はその裁判で死刑判決を受けますが、赤堀正夫がこの事件に関わった証拠が、紅林麻雄の部下たちによって無理やり自供させられた供述調書しか無かったため、事件への関与を証明するのに乏しい証拠でした。その後、再審の結果、逮捕から34年8ヶ月後に無罪が確定しました。

1966年袴田事件

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袴田事件は1966年に静岡県清水市(現在の静岡市清水区)にある「株式会社王こがね味噌」の専務の家が放火され一家四人が殺害されました。当時株式会社王こがね味噌の従業員で元プロボクサーだった袴田巌が強盗殺人、放火、窃盗容疑で別件逮捕されました。

袴田巌に拷問を行ったのは紅林麻雄の部下でした。紅林麻雄が過去に行っていたことを受け継いでいたので、紅林麻雄の影響が強く、袴田巌に対しても過激な拷問をしていました。袴田巌は裁判で死刑判決を受けますがその後何度も冤罪を訴え続け、2014年3月27日に再審開始を認め、袴田巌は釈放するという異例な判決でした。この時袴田巌は45年ぶりに釈放されます。

紅林麻雄が冤罪を作り続けた理由・背景

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紅林麻雄は、数多くの冤罪事件を作り上げてきました。一体、紅林麻雄は何故冤罪事件を作り続けてきたのでしょうか。その理由と背景を、簡単にご紹介します。

強力犯捜査の権威者となる

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紅林麻雄は数々の難事件を解決した功績者として表彰を受けます。その後偉業を成し遂げた人ということで世間から名前が世間に知れ渡ります。

その後、紅林麻雄は警察学校などで講演をするようになります。そうすることで自身の権威者としての威厳を周りに見せ付けます。事件を未解決に終わらせてしまうことで周りからの失望の目や現在の地位が堕ちてしまうことを恐れて、冤罪事件を作り続けてきたのではないかと言われています。

自身へのおごりによる決めつけ捜査

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一般の警察官の捜査方法は、犯罪が起こった場合捜査機関が犯人を特定するために証拠を集めたり、現場周辺の人たちへ聞き込みをしたり、きちんと証拠を揃えてから犯人を特定し逮捕します。捜査は公共の福祉や個人的人権を尊重を全うし、事件の全貌を明らかにするのが一般的な刑事の捜査と言えます。

ですが紅林麻雄の捜査は間逆の方法で、先入観や自身の勝手な決めつけによって捜査しており、供述調書も自身の都合の良いように拷問し自供の強要等を行っていました。

虚構と現実の混同

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事件の捜査にあたって、嘘の調書を作ったり嘘のアリバイや証拠を作ることは、真実が消えてしまい事件の真相や真犯人に繋がる手がかりが消えてしまいます。冤罪事件などを作り上げてしまうことで無関係の人間の人生を何十年も無駄にしてしまうからです。

紅林麻雄は自身の評価の低下、地位、周りの失意の目で見られることを恐れ、事件では無関係の人間を逮捕して犯人に仕立て上げたり、嘘のアリバイを作り上げ、虚構と現実を練り合わせていきました。

検察や裁判所にとって都合が良かったため見逃されていた

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本来、警察側や検察側、裁判官は公式な判断をしなければなりません。事件の真実を明らかにし、犯人には然るべき罰が与えられます。紅林麻雄は数々の事件で功績を残していましたが、数々の冤罪事件を作り上げてきました。無関係の人たちが、何年、何十年もの間狭い牢獄の中で無罪を訴えてきました。

ですが、検察側も裁判官側は一刻も早く犯人を見つけたいと考えていました。紅林麻雄はそこを利用し、良いように見逃されていたのです。

同僚意識

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