2019年8月21日 更新

昭和天皇にまつわる24のエピソード!昭和天皇が残して下さった名言も

世界恐慌、手痛い敗戦などを経て、焼け野原から世界が驚くほどの復興と、経済的成長をも果たした昭和時代の日本。そんな激動の時代を国民と共に歩み、常に見守って下さったのが昭和天皇です。今回は、歴代天皇の中でも長く在位した、昭和天皇のエピソードや名言を紹介します。

目次

今現在、テレビなどでそのお姿を拝見することは出来ても、普通の生活をしている庶民にとって、天皇陛下や皇室はとても遠い存在です。テレビなどが無かった戦前までの天皇は、現人神(あらひとがみ)と教えられていました。

明治天皇や昭和天皇の御真影(ごしんえい:天皇の写真や肖像画)に向かい、毎朝挨拶をするという習慣を持つ時代の人々にとっては、とても気楽に御身を拝謁することなど夢のまた夢なのです。戦後とは言っても、価値観をすぐに変えることなど出来ない中で、そのような天皇陛下が自分達の街にやってくると知れば、日本人であるなら何かおもてなしをしたくなるという感情を誰しもが持つでしょう。

戦後の全国巡幸の際、昭和天皇はある田舎の小学校を訪れることになるのですが、子供達や学校では何かおもてなしをしようと、自分達の食糧事情も悪い中で蒸かしたさつま芋を陛下に差し出したのです。それを陛下はとても気に入り、晩年までさつま芋は好物となったと言われています。

戦後全国を回り、人々の声に涙した

People Man Guy - Free photo on Pixabay (570676)

戦後から74年経った現代は、戦で家や街を失うことは無くなりました。しかし、平成という時代は戦争に代わって、多くの災害が発生し、自分達の家族や家を亡くしたり、街が壊滅状態となった場所もあります。現在の上皇・上皇后は、そんな被災者達を慰撫する為に、実に多くの被災地を訪れて下さいました。

街が壊滅的状況となり、家族や家を亡くすと、昨日までの暮らしが幻のように見えて、人々はその時絶望と不安感に襲われます。しかし、上皇・上皇后が膝をついて自分達の身を案じて下さることで、日本という国が無くなった訳ではないということや、父と母がまだいるという気持ちになり、何故か安心感や希望が生まれてくるのは日本人ならではの感覚かもしれません。

昭和天皇や香淳皇后(こうじゅんこうごう)も、戦後の巡幸先で親を亡くした子供達と多く触れ合い、励ましの言葉を掛けつつも涙を流したと言われています。そんな陛下に、子供達は「お父さん」と声を掛けているのです。その声にもう一度その場に戻った陛下は、涙をハラハラと流しながら、子供達の頭を撫でていました。

皇居で皮がついていないさつま芋にしょんぼり

Sweet Potatoes Roasted Olive Oil - Free photo on Pixabay (570770)

巡幸中、精一杯のおもてなしをしようと、とある田舎の小学校で蒸かしたさつま芋を出され、それを食した昭和天皇は、それ以来さつま芋が大好物となりました。

天皇の料理番というドラマや小説で、天皇陛下の食事を作る宮内庁の大膳課(だいぜんか)を知ったという人も多いでしょう。天皇というのは、何か好き嫌いなどを発言すれば、臣下の人達が責任を感じたりする為、食事にも文句を付けることはありません。そのような状況の中で、大膳の料理人達は、日々、陛下の健康や食事の楽しみなどを考え、食事した後の皿に残されたものなどで判断していたと言います。

そんな昭和天皇は、ある日また蒸したさつま芋を食べたくなり、珍しく大膳にリクエストしたのです。かつて小学校で出されたさつま芋をよほど気に入ったのでしょう。大膳はそのリクエストにお答えしようと、蒸かしたさつま芋を出しますが、さすがに皮付きのままでは出せずに丁寧に皮を剥いたものを出しました。しかし、それを見た昭和天皇は「皮が美味しいのに…」と肩を落として呟いたと言われています。

ナマコが食べられるなら、ウミウシも食べられるはずと考え

Nudibranch Chromodoris Slug Sea - Free photo on Pixabay (570856)

昭和天皇が生物学研究者だったことは、冒頭でも触れていますが、研究者というのはとても好奇心が旺盛なものでもあります。実際陛下は、生涯の中で実に多くの生物を採取し、論文も出しているほど熱心な研究者でした。

陛下はご静養で葉山の御用邸に訪れると、その付近の浜や海で生物を採取していました。数多くの海の生物の中で、陛下の関心の高かったものの1つに「ウミウシ」があります。最近は、若い人達にも「カワイイ」「ポケモンみたい」と人気の高まりつつある「ウミウシ」は、元々貝殻の中にいた生物ですが、その貝殻が縮小したり埋没したりしてナメクジのような姿になった生物です。

ある日昭和天皇は、「ナマコが食べられるならばウミウシも食べられるのではないか?」と興味が湧き、御用邸で料理長に調理させ、皆で「ウミウシ」を食べることになりました。気になるお味と言えば、のちに陛下が、この時のウミウシの味を記者に聞かれた際に「あまり美味しいものではなかった」と答えていることから、本当は相当まずかったのかもしれません。

「フグを食べたい」と言って側近をからかう

Fish Underwater Diving Giant - Free photo on Pixabay (570885)

今では高級食材として有名な「フグ」ですが、一方で不適切な調理で食し、毒に当たって亡くなってしまう人もいるという、とてもデンジャラスな魚でもあります。現代はフグを裁くのにも免許がいるものと認識されていますが、実はこのフグが解禁されたのは、明治に入ってからで、免許制度が出来たのは戦後になってからです。

歴史を遡れば、天下統一を成し遂げ、朝鮮出兵の為に豊臣秀吉達が佐賀県にある名護屋城に終結した際、多くの武士達がフグを食べて亡くなったことから、秀吉はフグを食べる事を禁止しました。それ以降、武士達はフグ禁止令が出され、江戸時代、明治に入ってからもフグを食べることは、「軽犯罪法」で禁止されていたのです。

しかし「ウミウシ」を食べる程、海の生物に興味のある昭和天皇が、戦後解禁されたこの「フグ」をどうしても食べて見たくなるのは当然と言えます。しかし、陛下に万が一何かあった場合、近臣や大膳の責任問題となりますし、陛下の御身を心配する者達は頑なにフグを許可しませんでした。陛下は生態についてはすでに研究しており、1度は侍医を呼び止め、「どうしてフグを食べてはいけないのか?」と2時間も議論をしたと言われていますが、皇后に止められて以降はフグを食べたいと言わなくなったようです。

実は蔵馬のファン

Sumo Wrestler Silhouette - Free vector graphic on Pixabay (570976)

昭和天皇は相撲も好きだったようですが、やはり個人的な力士の好き嫌いは話したことがありません。陛下が公の場で、特定の力士に対して話せば、依怙贔屓になってしまったり、傷つけてしまう恐れや迷惑を掛けてしまうことになります。

その為、陛下が特定の力士について語ったことはありません。しかし、わずかな発言から察するに、「蔵馬」がお気に入りだったのではないか?と言われています。蔵馬は甘いマスクのイケメンで、188cmという恵まれた大きな身体から、1968年(昭和43年)9月場所で初土俵を踏んでからは、期待の新人として注目を集めていた力士です。

昭和天皇は、天覧相撲の際に側にいた春日野理事長に、「蔵馬はどうなの?」と聞いたそうです。この時理事長が答えた「大関になります」と言葉を陛下はしっかり覚えていました。その後、中々大関にならなかった蔵馬を見ていた陛下は、のちに理事長へ「中々大関にならないね」と愚痴をこぼしてしまいます。理事長はもちろん焦って謝罪し、蔵馬を理事長室に呼び出して「陛下に嘘を付いてしまったではないか!」と叱責したと言われています。

一夫一妻制度を推し進めた

Wedding Rings Oath Young - Free photo on Pixabay (571106)

結婚という制度は、日本と西洋では考え方に違いがあり、日本は御家を守る為という文化が強い国です。戦後この文化はすっかり、GHQコミンテルンに洗脳され破壊されてしまいました。しかし、行き過ぎた女尊男卑や自由が定着した今、少子高齢化が進み、日本人という民族はコミンテルンの思惑通り消滅の危機にあります。

確かに家に縛られ、姑にいびられる嫁達の立場になれば、個人的主義の方が楽なことは事実なので、否定出来るものでもありません。もちろん、御家存続の為に、側室や妾が容認されるような時代の女達は、嫉妬や怒り、そして悲しみに苦しんだことでしょう。そのような女性達の気持ちを考えれば、一夫一妻制の方が良いとも言えます。

そのような中で、天皇家は2600年以上もの間、万世一系を保つ為に実に多くの側室がいました。天皇が世継ぎの男子を上げることは使命であり、自分の代で終わらせる訳にはいかないという重責もあります。その中で、1人の妻しかいないのであれば、妻にも相当なプレッシャーが掛かる訳です。明治天皇までは側室が存在しましたが、大正天皇は側室を持ちませんでした。そんな父を持つ昭和天皇も、中々男子を上げる事の出来ない状況の中で、側室が検討されていたのですが、一夫一妻を推し進め、皇后一人と仲睦まじく過ごしました。

天皇暗殺のため、洗脳されたシベリア抑留帰還者にかけた言葉

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冒頭から何度も登場しているコミンテルンという存在ですが、共産主義思想の工作員達を世界中にバラまいたのは、元々偽ユダヤ人(白人)です。国を持たない彼らは、イスラエルという聖地を手に入れる為、各国に入り込み、国民を分断しては革命を起こさせて乗っ取りを繰り返していました。

共産主義は、特権や権力を持つ王室や貴族などを独裁者扱いして倒し、庶民が実権を握ろうというような一見耳障りのいい思想です。しかし現実は北朝鮮や旧ソ連、中華人民共和国などを見て分かる通り、誰よりも独裁者になりたがるのは共産主義や社会主義の連中なのです。もちろん、日本の共産党も同じですし、立憲民主党や山本太郎の背後にも過激派がついており、中味は反日共産主義や、社会主義の輩ばかりが日本壊滅の為に動いています。

そのような中で、戦後ソ連軍に捕まってシベリアに送り込まれた捕虜達は、暴力などを伴う洗脳法で共産主義思想を植え付けられた者達もいました。そんな青年達が、昭和天皇巡幸の際に旗を持って、集まったことがあります。中には暗殺を目論んでいる輩もいたのかもしれません。しかし陛下は、恐れることもなくその青年達に近づき、「長い間、外国で苦労をされて胸が痛む…」など声を掛けると、皆その場で泣き崩れ、洗脳が解けたと言われています。

漢字の読み方を修正されご機嫌斜め

Pen Red Ankreuzen - Free photo on Pixabay (571424)

平成も終わろうとする2018年(平成30年)になって、昭和天皇のお側に仕えていた小林忍侍従が付けた日記が発見され、2019年(平成31年)4月に「昭和天皇 最後の侍従日記」という本が出版されました。

小林侍従は、1974年(昭和49年)~2000年(平成12年)の27年間、侍従を務めており、その間の宮中の様子や昭和天皇の様子などについての日記を付けていたのです。

その中のエピソードの1つに、昭和天皇は国会前や晩餐会前などの「お言葉」を事前に練習をするのですが、「来日」をライジツ、「両国」をリョウコクと読むなどするので、間違いがあれば侍従達は当然訂正していました。しかし、あまりに正しく訂正しすぎると陛下はご機嫌斜めになることもあったようです。

昭和天皇のエピソード【結婚】

Heart Wedding Marriage - Free photo on Pixabay (571438)

昭和天皇の妻となったのは、香淳皇后(こうじゅんこうごう)です。香淳皇后は諱を良子(ながこ)と言い、父は久邇宮邦彦王(くにのみやくによしおう)、母は薩摩藩主、島津忠義の七女である俔子(ちかこ)の間に生まれた第一王女です。

香淳皇后は、幼い頃から昭和天皇の御学友として出逢っていますが、正式に皇太子妃として内定したのは、学習院中等部に進学してからです。1度、香淳皇后に色覚障害有りという理由で、婚約が取り消されるところでしたが、最終的に問題無しとして内定されました。

1923年(大正12年)に婚儀をする予定となりましたが、その年関東大震災が発生したことにより延期して、翌年の1924年(大正13年)1月26日(土)にようやく結婚することが出来たのです。紆余曲折して結婚した2人は、一体どのような夫婦だったのでしょう?ここでは、昭和天皇の夫や父としてのエピソードを紹介していきます。

夫婦仲は円満で手をつないで散歩に行くこともあった

Hands Heart Couple - Free photo on Pixabay (571458)

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