2019年8月21日 更新

昭和天皇にまつわる24のエピソード!昭和天皇が残して下さった名言も

世界恐慌、手痛い敗戦などを経て、焼け野原から世界が驚くほどの復興と、経済的成長をも果たした昭和時代の日本。そんな激動の時代を国民と共に歩み、常に見守って下さったのが昭和天皇です。今回は、歴代天皇の中でも長く在位した、昭和天皇のエピソードや名言を紹介します。

目次

幕末の動乱の中でわずか14歳で即位した明治天皇が、1912年(明治45年)7月30日(火)に崩御したことにより、当時の皇太子であった嘉仁親王が天皇となって大正時代が始まりました。それに伴い、裕仁親王も11歳の時に皇太子となったのです。

長い歴史の中で、陛下の御尊顔を拝謁出来る人は数少なく、御声を聞くなどもっての他で、天皇はいつも御簾の奥に隠されているような存在でした。一般人でも姿が見られるようになったのは、昭和天皇が初めてと言えますが、今も残される映像には案外お茶目な姿の陛下が見られます。

そんな昭和天皇には、エピソードもたくさん残されているのですが、ここではまず、皇太子時代のエピソードを紹介していきます。

尊敬する人は源義経

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平安時代までは朝廷が政治(まつりごと)も担っていましたが、源頼朝が鎌倉幕府を起こして以来、政権は武士達が握ることになりました。特に徳川家康が天下統一を成し遂げた後の江戸時代は、264年間も続きます。しかし、そんな長きに亘る江戸幕府が明治維新で薩摩、長州に倒され、数百年ぶりに天皇と朝廷が実権を握ることになったのです。

昭和天皇の祖父である明治天皇は、まさにその政治を数百年ぶりに執り行うことになった天皇であり、初めて京都から東京へと移り住み、明治維新の原因ともなった開国を迫る外国人達の関係も考えねばいけませんでした。自らを律し、国民の父や手本となって、この小さい島国日本が植民地化されることから守り、一等国にまでした明治天皇は、国民がとても尊敬する天皇となっていたのです。

少年迪宮(みちのみや:のちの昭和天皇)は、そんな祖父とは普通の祖父と孫の関係ほど、優しく甘いような関係ではなく、親しみ深い人ではなかったと言われています。そのせいか、学習院初等科時代の授業中「尊敬する人は誰か」という質問に対し、クラス全員が「明治天皇」と答える中で、「おじじ様のことはよく知らないから」と「源義経(みなもとのよしつね)」の名を上げたというエピソードがあります。

友達と呼び捨てをし合いたかったため

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今でこそ、日本人全ての家に名字、姓(せい)はあることが普通ですが、元々この国に姓という概念はありませんでした。姓(かばね)とは、天皇の跡継ぎになる皇太子以外の皇子達(男子)が、臣下に下る(天皇の家臣になる)際に、天皇が授けるものでした。

先程も少し登場した、源(みなもと)などが姓(かばね)に当たります。源氏や平氏というのは、元々天皇の皇子達から始まっており、身分や氏族、階級を表すような役目も担っていました。その為、天皇家には姓がないのです。

昭和天皇にも、当然姓はありません。裕仁(ひろひと)という実名はありますが、これは諱(いみな)と言って、古来より身分の高い人の実名を口にしてはいけないという決まりがあるのです。そのことから、天皇家の人々のことは、○○宮と呼ばなくてはなりません。そんな姓の無い少年迪宮(みちのみや)は、同級生達が互いの名字で呼び捨て合いするのを羨ましく思い、お印の若竹を文字って「竹山」と呼んでもらおうとしていたというエピソードがあります。

帰宅が遅くなり家に入れてもらえなかった

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明治維新後の天皇は、天皇という地位だけではなく、軍の総司令官である「大元帥(だいげんすい)」も兼ねる為、昭和天皇はまだ少年だった頃からとても厳しく育てられました。

養育係や、教育係になった人達はたくさんいますが、学習院教授を務めたのちに、大正天皇の侍従(じじゅう:天皇の側近)となり、迪宮(みちのみや)が5歳になる頃に養育掛長を任されることになった、丸尾錦作(まるおきんさく)は、幼い迪宮にも容赦なく厳しい躾けを行っていたようです。

丸尾は1度、庭遊びに夢中になり帰宅時間に遅れてしまった迪宮に対して、約束の時間に遅れたことを叱責して玄関前に立ちふさがったと言われています。家に中々入ることが出来ず困り果てた迪宮は、この時から時間や約束を守るようになりました。

ロンドン地下鉄で切符を死守

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明治維新後、開国したこの日本を西洋に負けないように成長させる為、新政府となった薩摩や長州の藩士たちや、皇族は海外への留学や交流に出掛けるようになります。幕末期、薩長は頑なに尊王攘夷(そんのうじょうい:天皇に主権を返し、外国人を打ち倒すこと)を叫んでいました。

しかし、イギリス海軍と対峙した時に、初めて西洋文明の発展と恐ろしさに触れ、開国して西洋に学び、強くなってから改めて戦おうという思想に変化したのです。その為、将来天皇となる迪宮(みちのみや)皇太子にも、海外へ外遊させて見聞を広げ、各国の王室との交流も深めてもらおうと欧州訪問を決定しました。

その中で、イギリスに訪問した際、生まれて初めてロンドンの地下鉄に乗った迪宮は、切符を改札で駅員に渡すのを知らずに通り過ぎようとして、駅員ともみ合いになったのです。結果、迪宮は切符を死守し、今も大切に保存されているのです。のちに昭和天皇は、一番楽しかった思い出としてこの欧州旅行を上げ、旅行の中で一番驚いた場所は地下鉄だとも語っているので、どうしても記念に切符を持っていたかったのでしょう。

昭和天皇のエピソード【天皇時代】

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昭和天皇は25歳で即位し、87歳で崩御されるまでの62年間という長い年月を天皇として過ごしています。その為、皇太子時代よりも天皇時代の方が長いのでエピソードも豊富なのです。

しかも昭和天皇の場合、戦前と戦後では同じ天皇でもあり方や価値観をガラリと変えられてしまったこともあり、陛下の心中はとても複雑だったかもしれません。

常に国民やこの国のことを案じ、動乱の時代を乗り越えた昭和天皇。ここでは、そんな天皇時代のエピソードを紹介していきます。

一人称として「私」を用いた

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玉音放送で印象深い、「朕(ちん)」は天皇が使う一人称です。元々、中国大陸での戦国時代に天子や皇帝が使うものでしたが、秦(しん)の始皇帝が誕生した際、天子のみが使える一人称となりました。

その習わしは日本の朝廷でも用いられ、天皇が自分のことを呼ぶ時は「朕」が使われるようになったのです。昭和天皇も、公の場で国民や臣下に伝える勅語(ちょくご:お言葉)や、詔勅(しょうちょく:文書)の際は「朕」を用いていますが、基本的に「私は」と話すことが多かったと言われています。

しかし戦後天皇は、「現人神(あらひとがみ)」という扱いから、人間宣言をして象徴天皇となりました。そのことがきっかけになったのかは不明ですが、陛下は終戦から約2年後の1947年(昭和22年)6月23日(月)に開かれた、第一回国会の開会式にて、初めて公の場で「私」を使いました。

天皇と庶民が触れ合う時間を創出した

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冒頭でも少し触れていますが、かつて天皇陛下という存在は御簾の奥に隠れた存在で、庶民が御身を見ることも、ましてや御声を聞くなどありえないほど雲の上の人でした。しかし、戦後人間宣言をし、象徴天皇となった昭和天皇は、自分の責任を重く受け止めつつ、何とか失意の中にいる国民達を慰撫する為に、終戦後約9年の歳月を掛けて日本中を巡幸したのです。

多忙な陛下の身体を心配して、時期や場所などを考慮しようとしていた侍従達の意見を聞かず、昭和天皇は少しでも多くの国民と触れ合おうと、暑い時期の農地や危険な炭鉱の地下深く、そして原爆投下されてしまった広島や長崎など、全国を意欲的に巡幸しました。結局、アメリカの統治下に置かれた沖縄のみ回ることが出来ず、46都道府県を回りましたが、昭和天皇は亡くなるまで沖縄に行くことが出来なかったことを悔やんでいました。

沖縄が日本に返還されたのは1972年(昭和47年)ですが、昭和天皇はすでに71歳という高齢となっており、混乱期の沖縄へ気楽に行くことは出来ません。そして、返還から約15年後の1987年(昭和62年)に沖縄で国体が開かれることになり、陛下はこれを機に沖縄訪問する予定でいましたが、体調を崩してしまい叶わなかったのです。その願いを継いだのは、現上皇でもあり当時皇太子だった明仁親王で、父の名代として戦後42年経ってようやく沖縄訪問を果たしたのです。

メルセデスベンツは乗り心地が悪い

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平安時代は牛が引く牛車(ぎっしゃ)や輿(こし)が移動手段で使われる乗り物でしたが、時代の変化と共に馬や馬車を経て、皇室にも自動車が使われるようになりました。

御料車(ごりょうしゃ)と呼ばれる自動車もまた、歴史と共に変わっていくのですが、1番最初に御料車として使われたのは、当時日英同盟を結んでいたイギリスから輸入された「デイムラー・ランドレー」という自動車です。

大正天皇即位時に導入されたこの御料車は、デイムラー、ロールス・ロイスとイギリス車が続きましたが、昭和天皇の即位後にあのヒットラーから「メルセデス・ベンツ770」が送られてきました。この車の防弾装備は充実していたようですが、乗り心地は最悪だったらしく、昭和天皇はこの車をあまり好きでは無かったと言われています。

埼玉県立さきたま遺跡の博物館を訪れた際

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昭和天皇は様々な場所に行幸していますが、晩年の1983年(昭和58年)5月に、埼玉県立さきたま史跡の博物館を訪れました。実は同年、博物館に展示されている金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)が国宝に指定されたのです。この金錯銘鉄剣は、1968年(昭和43年)に稲荷山古墳の後円部の発掘調査で発見されたもので、表面と裏面に合わせて115の文字が刻まれていました。

そこにはなんと、第21代天皇の雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)に仕えた者に対する功績が刻まれていたのです。昭和天皇は元々近視が強く、視力も弱かったのですが、この時すでに御年82歳です。錆びた剣に刻まれた文字は、相当見づらい状況の中で、自分のご先祖様の形跡を懸命に読み取ろうとしていたのでしょう。

しかし、この場には多くのマスコミも同席しており、剣を見つめる陛下を撮影する為に一斉にフラッシュを焚きました。その瞬間陛下は、「君たちライトをやめよ!」とマスコミを叱ったのです。剣はガラスケースに入っている状態の中で、ただでさえ小さな文字は見えづらいのにも係わらず、フラッシュのせいで何も見えなくなったのであれば、普段声を荒げることのない昭和天皇が思わず叱ったのも頷けます。

食糧難の小学校が精一杯のおもてなしとしてさつま芋を出したところ

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