2019年8月21日 更新

昭和天皇にまつわる24のエピソード!昭和天皇が残して下さった名言も

世界恐慌、手痛い敗戦などを経て、焼け野原から世界が驚くほどの復興と、経済的成長をも果たした昭和時代の日本。そんな激動の時代を国民と共に歩み、常に見守って下さったのが昭和天皇です。今回は、歴代天皇の中でも長く在位した、昭和天皇のエピソードや名言を紹介します。

目次

昭和天皇と香淳皇后は、新婚当初からとても仲が良く、普段から手を繋いで散歩に行くような夫婦でした。明治生まれの男女には、人前で手を繋ぐなどという概念はあり得ないと言っても過言では無い中で、堂々と手を繋いで歩くとは、今で言えばとてもラブラブなカップルだったのです。

陛下は妻のことを、実名の良子(ながこ)を文字って、良宮(ながみや)という愛称で呼び、妻は「お上(おかみ)」と呼び合いました。2人は新婚時代、猪苗代湖畔で1ヶ月程ご静養を取りましたが、その間も2人で机を並べて勉強や読書をしたり、午後からはゴルフやテニスを楽しみ、夜には月を眺めながら2人で歌を詠むなど蜜月な時間を過ごしたのです。

また、陛下が行幸や植物採取などに出掛けた際は、必ず「良宮に」とお土産を買ったり、自分があまり好きではない刺身や柑橘系の果物を、妻が好きだからということで、大膳にリクエストするなど、陛下は妻にとっても優しい夫でありました。

女児ばかり生まれたため側近に側室を進められた

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とても仲睦まじい夫婦であった、昭和天皇と香淳皇后ですが、2人が結婚した頃はまだ戦前で、天皇が神格化されているような時代です。結婚してからわずか2年程で大正天皇が崩御した為、若き2人は天皇と皇后になりました。

当時、皇后の地位や扱いは低く、役目と言えば夫を支え、いち早く世継ぎの男子を上げることだけです。しかし、2人の間には第一子から第四子まで女児ばかりが誕生し為、近臣達は相当ヤキモキしたのでしょう。

世継ぎを作る為に、宮内省は側室を復活させることを考えていました。陛下は側室を進言した側近に、「良宮で良い」と断ったと言われています。

男児を産めず苦しむ皇后に「心配しないように」と励ました

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側室を持たず、妻1人で良いと言われると女としては喜ばしい反面、相当なプレッシャーを感じるものです。普通の家でさえ、男子誕生を望む舅や姑が未だに存在しているのに、当時2人の周りには明治生まれどころか、間違うとまだ幕末生まれが残っている時代です。

次代の男子を上げることは、嫁の務めと考える人達が当たり前の価値観の中で、香淳皇后が男の子の誕生を1番切望したことでしょう。華族の女達などには、「皇后さまは女腹」という陰口を叩かれ、近臣は側室を夫に斡旋しようとする中、昭和天皇は妻に対し「心配しないように」と妻を慰めたと言われています。

また昭和天皇には、3人の弟達がいたこともあって「秩父さんも、高松さんもいるから大丈夫」と皇統の心配もいらないと、いざとなれば弟達もいると妻を安心させようとしていました。

初めて子供達を両親の手元で育てた

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元々高貴な御家の場合、妻が子を産んでも育てるのは乳母や女官達の仕事でした。物心が付くようになれば、男子には教育係や守役が付き、親からは離されて育てられるのが普通のことだったのです。

そのような中で、昭和天皇と香淳皇后は、子供達を自分達の手で育てようと手元に置き、母乳を自ら与え育てていました。しかし、乳母が全くいなかった訳ではなく、深夜の授乳はお願いしていたようです。

ただやはり皇族ともなれば、それなりに躾や教育を行わねばいけないのは変わらず、子供達が学齢を迎えた頃からは別々に育てられ、週末のみ家族で過ごすことになりました。間には戦争も始まり、子供達は疎開していたこともある為、手元で育てたとは言っても、親子で一緒にいられた時間はあまり多くなかったのかもしれません。

頑なに側室を断り続けた

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欧州訪問で西洋文化に触れたせいか、父である大正天皇の影響もあるのか、昭和天皇は結婚が決まった時点から、皇室の女官制度を改革していました。女官(にょかん)とは、天皇の身の回りをする女性達のことで、明治天皇の時代であれば側室となるチャンスも得ることも出来た立場の人達です。

江戸城でいうところの、大奥と同じように、皇室でもそのような制度がありました。身分の高い女子しかなれず、お手付きが無ければ結婚することも、子を産むこともないまま一生奉公するのです。その為、独身の未婚女性であり、住み込みで働くことが条件でしたが、昭和天皇はこれを廃して人数を絞り、既婚者も採用して通勤制に変えていました。

そのことからも昭和天皇は、元々側室を置くつもりは無かったことが分かります。結婚後、女児しか生まれずにいる中で、側室検討を進言してもあっさり断られた側近達ですが、諦めず3人の側室候補の写真を陛下に見せたことがありました。しかし陛下は、「皆さん良さそうな娘さんだから、相応のところに決まるといいね」とあっさり写真を戻したというエピソードもあります。

継宮明仁親王誕生に2度喜ぶ

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結婚してから9年経って、昭和天皇と香淳皇后に、ようやく待望の跡継ぎが誕生しました。1933年(昭和8年)12月23日(土)の大安、2人の5人目の子供であり、第一親王となる継宮(つぐのみや)の誕生に、日本中が又しても歓喜に包まれたのです。

のちに、現在の上皇となる親王の誕生に、北原白秋は「皇太子さまお生まれなつた」という奉祝歌も作られるほど、日本中が久しぶりに祝賀ムードで沸き返りました。国民でさえ狂喜乱舞するほどの喜びに包まれている中、妻を優しく慰め続けていた昭和天皇ではありますが、やはり興奮と喜びを抑えきれることが出来ず、すぐさま駆け付けて妻と子に対面しています。

その際「良かったね」と妻に声を掛けているのですが、部屋を出てから思い直したように再び戻り、もう一度「良かったね」と妻に声を掛けました。口には出さずにいた陛下でしたが、皇統を繋げることが出来ると陛下も安堵し、待ちわびた男児誕生は相当嬉しかったのでしょう。

自身の手術後第一声は「良宮はどうしているかな」

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江戸時代後期から、日本でも蘭学と呼ばれる西洋医学や外科医などが登場し始めますが、内科医や漢方医が主流で外科や蘭学は外道(げどう)と呼ばれていました。最新の医療は西洋医学の方が優れていましたが、随分長い間、徳川の将軍などの身分が高い者や、もちろん天皇も直接身体に触れることすらタブーだったのです。

明治以降は、蘭学も取り入れられますが、今のようにレントゲンもCTも無いような時代は、天皇が病となってもたいした治療も出来ずにいたのです。しかし、昭和天皇が晩年の昭和後期、陛下は嘔吐が続き、体調が悪くなってしまいました。

検査の結果、腸閉塞と分かり、1987年(昭和62年)9月22日(火)史上初の天皇の回復手術が行われたのです。年齢もすでに86歳という高齢で、相当な負荷が身体にも掛かったでしょう。この頃、香淳皇后はすでに認知症なども始まって、歩行も困難な状況となっており、側に付き添うことも出来ていません。しかし、陛下は術後目を覚ますと「良宮はどうしているかな?」とまず妻の心配をしており、そこに陛下の愛情の深さを見出すことが出来ます。

昭和天皇名言集

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昭和天皇は、在位が長かったことや侍従達が日記を多く残していたことに加え、戦後は積極的に記者会見なども行ったことで、陛下の残した数多くのお言葉を国民も知ることが出来ました。

中でもテレビの影響は大きく、動くお姿や陛下の声をリアルに確認することが出来た昭和後半は、タモリなどがモノマネをしてしまうなど、天皇陛下の存在は、親しみのある身近な人という価値観になってきたのです。

しかし昭和生まれの人達にとっては、単純に親しみだけを感じているのではなく、陛下へ偉大さや尊敬も忘れた訳ではありません。それは、陛下が数多く残して来た言動を知っているからでしょう。ここでは、昭和天皇の名言集を紹介していきます。

私は全責任を負います

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反日特亜人や、共産主義思想の工作員達は、未だに昭和天皇の戦争責任を煽りますが、その陰にある真の目的は、皇室を破壊することです。

天皇で実権を握り、政(まつりごと)を行ったのは平安時代の末期で、武士達が台頭してきた鎌倉時代以降は、天皇に実権など全くありませんでした。昭和天皇も、決定権は内閣や軍にあり、多少の異を唱えることはあっても、基本的には決定して報告されたことを承認することしか出来ません。

しかし、戦後周辺の臣下達が捕まり、戦争裁判を起こされ始めたことにとても胸を痛め、自ら連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーに会いたいと告げ、2人は会見することになりました。その時陛下は、「全責任は私にある」と話し、マッカーサーはとても感動したと言われています。

前はあなたたちが燃やしたからね

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陛下はマッカーサーに「全責任を負う」と、自分の命運を素直に委ねていましたが、のちにアメリカの使節にはちょっとした嫌味を返したことがあります。

東京大空襲の際、自分達が住んでいた宮殿(明治宮殿)が炎上し、陛下は長い間「御文庫」と呼ばれる防空壕として地下に作られた場所に住んでいました。1961年(昭和36年)に、ようやく新しい吹上御所が完成した際のお披露目会で、お祝いと新宮殿についての感想をアメリカの使節団が述べた時、陛下は「前のはあなたたちが燃やしたからね」と返したのです。

元々、極限まで日本への無茶ぶりを発揮し、絶対に戦争を回避出来なくさせたアメリカや、共産主義思想の工作員達の仕業で始まった戦争です。しかも連日の空襲や、2度の原爆投下で民間人を無差別虐殺した輩には、いくら負けたとは言っても、皮肉や嫌味の1つも返したくなるのが人情です。陛下も内心、静かな怒りの感情を持っていたのかもしれません。

幼い時に色々やらされたスポーツは、何一つ身に着かなかった

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