2019年9月5日 更新

クマ牧場やクマによる事件や事故まとめ!日本のクマによる死亡事故

日本には登別や奥飛騨を始め、7か所の熊牧場があります。本来熊はとても臆病な存在で、山奥に入る人以外、熊牧場などでしか熊を見たことが無い人の方が多いでしょう。しかし熊は時として、人を襲う脅威の存在になるのです。今回は、そんな熊による事件や事故を紹介していきます。

あまりの壮絶な状況に、自分達の手には追えないと判断した村人達は、全員で学校に避難し、数人は警察へ通報する為に走りました。12月12日(日)になって、ようやく討伐隊として警察や消防団、青年団などの有志を集め、ヒグマ退治を決行するのですが、今度はヒグマが現れません。

遺体を劣りにしてヒグマをおびき寄せる作戦も決行しますが、この日ヒグマは現れず、翌日旭川第7師団にも要請をするのですが、まだ移動手段の限られている大正時代では、到着するまでに数日間は掛かるのです。作戦を練っている間、この日はヒグマが村中の家を荒らしまわっており、討伐隊もその巨大な姿を見て躊躇し始めていました。

12月14日(火)になって、隣村から山本兵吉という凄腕のクマ撃ちが、噂を聞きつけてやってきます。この男は、1人で何十頭ものヒグマを撃ち、若い頃には包丁1本でヒグマを倒したこともあるという伝説の猟師でした。彼は討伐隊とは別行動で、今までの経験に従って山奥に入り、ヒグマの背後に回り込むことに成功したのです。結果、彼は12月14日(火)午前10時頃、ヒグマの眉間と心臓の2ヶ所を撃ち抜き、約5日に亘るヒグマ騒動を治めることになりました。

石狩沼田幌新事件

Bear Water Brown - Free photo on Pixabay (604772)

今現在も、北海道の山には約1万600頭前後のヒグマが生息しています。かつてアイヌ達はヒグマを「キムンカムイ(山の神)」と呼んでいました。しかし、何らかのキッカケでヒグマが人を襲い食べてしまうと、「ウェンカムイ(悪い神)」と呼んで、葬り方なども変えていたのです。

明治以降、武士の身分や領土を剥奪された者達や、新たな夢を見た者達の多くが、この北の大地に開拓使団や開拓民として入植してきました。しかし、土地や畑を作る為には、手付かずだった原生林や原野を切り開いていかねばならず、結果的にヒグマ達の住処も減らしていくことになります。

本来ヒグマはとても臆病なもので、山奥に入らなければ滅多に姿を見ることは無い生き物です。開拓当初は、人が山へと入っていった訳ですから、驚いたヒグマがパニックになり人を襲うことが増えていきました。ヒグマと同じように、人々に恐怖の対象とされてしまったエゾオオカミは絶滅させられてしまいます。
Wolf Predator Wildlife - Free photo on Pixabay (605113)

実はこのエゾオオカミとヒグマによって、北海道の森は秩序や環境が保たれていました。エゾオオカミは、弱ったエゾシカやクジラの死骸、魚などを食べることで、上手くエゾシカの個体数を減らし、海の環境も整え、森で糞をすることによって、山の土に栄養も与えていたのです。しかし、エゾオオカミが絶滅した今、エゾシカは増え木々の皮まで食べて森を荒らしています。ヒグマは本来、肉食では無い為、エゾシカを減らすことは出来ません。

ただ、鮭などを食べる海側のヒグマは、やはり糞で山の土に栄養を与え、生態系を整えてくれるのです。北海道に人が定住し始め、農作物も採れるようになると、時として人を襲い、畑を食い荒らすヒグマ達は獣害として扱われるようになりました。その為、1962(昭和37年)から1980年(昭和55年)までの間、「ヒグマ捕獲奨励事業」として春グマ猟が始まり、ヒグマは一時絶滅寸前まで追い詰められていましたが、1990年(平成2年)にこの事業は廃止され、以来道ではヒグマの保護へと意識を転換させます。

その為、現在はヒグマが増えた上、今度は人を恐れない新世代のヒグマが登場し、街へ降りてくるヒグマが増えてしまいました。結局、人とヒグマの戦いは今尚消えず、共存する為に新たな策を考えねばいけません。そのような中で、三毛別羆事件から8年後、今度は石狩地方の沼田でもヒグマによる事件が起きました。ここでは、三毛別に次いで日本史上2番目の被害と言われる、石狩沼田幌新事件を紹介します。

石狩沼田幌新事件概要

Festival Japanese Japan - Free photo on Pixabay (604782)

事件が起きた現場は、現在の北海道沼田町(ぬまたちょう)です。沼田町は、苫前町から約42kmほど南下した日本海側の留萌市より、更に約35km程、南東の方に入り込んだ内陸にあります。富山県出身の沼田喜三郎率いる18戸の開拓民達が、1894年(明治27年)に移住して開拓が始まりました。

事件が起きる前年に、上北竜村(かみほくりゅうむら)から沼田村と改称し、村人達は気分も新たにしていたことでしょう。そして翌年の1923年(大正12年)8月21日(火)には、村で夏祭りが開かれました。当時娯楽と呼べるものもほとんど無く、辛い開墾作業や畑仕事をしている村人達は、束の間の賑わいを楽しもうと近隣の村からも多くの人達が集まってきたのです。

祭りは大いに盛り上がり、余興の浪花節や人情芝居を酒を飲みながら深夜まで楽しんだ村人達は、深夜11時半過ぎから各自が家路を急ぎました。そのような中で、幌新(ほろしん)地区から祭りに参加していた一行も、家に帰る為に暗い山道を進んでいたのです。そのうち、尿意を催した19歳の林謙三郎(はやしけんざぶろう)は、小用を終えて1人離れて歩き出したその時、背後から巨大なヒグマに襲われてしまいました。

事件の被害

Secret Forest Darkness - Free photo on Pixabay (604799)

ヒグマに背後から襲われた謙三郎は、必死に抵抗して着物を脱ぎヒグマから逃げ出すことに成功しました。そしてそのまま、帰路を急ぐ一行にヒグマのことを告げようと必死に走り出します。

しかし、ヒグマはその時すでに先回りをしており、先頭にいた15歳の村田幸次郎と兄で18歳の与四郎に襲い掛かり、まだ息のあった幸次郎を土の中に埋め、はみ出た腹部を食べ始めました。この様子を見た一行は、恐怖の余りパニックになって逃げ出し、近くにあった持地(もちじ)家に飛び込んだのです。

囲炉裏に火を起こし、屋根裏や押し入れの中に身を隠す者や、侵入を防ごうと音を出したり斧などを投げて抵抗していたのですが、ヒグマは幸次郎の内臓を食べながら、玄関の戸をぶち破って突入してきました。
Spade Shovel Garden - Free vector graphic on Pixabay (605274)

幸次郎と与四郎の父である村田三太郎は、侵入してヒグマを何とか追い出そうと、スコップで戦おうとしましたが、あっさりと殴り飛ばして重傷を与えました。

三太郎が倒れた隙に、ヒグマは部屋の片隅にいた三太郎の妻ウメを咥え、そのまま外に出ていこうとしたのです。驚いた三太郎はスコップでヒグマの尻を叩きましたが、ヒグマは全く気にせずにウメを引きずり外へ出ていきました。暗闇の中から、断末魔の叫びを上げるウメの声と、諦めてしまったのか念仏を唱える声を最後に、彼女の姿は見えなくなってしまいます。

翌朝、持地家の前を通過した村人に助けを求め、ヒグマが近くにいないことを確認した一行は、外に出ることが出来て、ようやく妻子を探し始めました。近くの藪中で上半身のみのウメの遺体と、土中に生き埋めにされた幸次郎と同じく生き埋めにされていた与四郎を発見し、生きていることを確認して歓喜したものの、結局与四郎も入院して数日後に死亡してしまうのです。これで村田三太郎は本人も重傷ながら、一気に妻と子の3人を失ってしまいました。

ヒグマの最後

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事件発生から2日後、1923年(大正12年)8月23日(木)、噂を聴いたクマ撃ち名人と呼ばれるアイヌの猟師が3人駆け付けました。その内の1人である、長江政太郎という猟師はヒグマの所業に憤慨し、1人で山へと向かってしまったのです。しかし、彼は数発の銃声を残して姿を消しました。

これでは埒が明かないと、翌24日(金)には、軍人や消防団、青年団などの討伐隊が集まり、300人体制でヒグマ討伐が開始されたのです。山に入って早々に、最後尾にいた上野由松(よしまつ)という男が襲われ、焦った討伐隊はすぐに反撃に出ることが出来ませんでした。

その間にヒグマは物凄い咆哮を上げて一行に襲い掛かり、今度は折笠徳治という男も襲われて重傷を負ってしまいます。このままでは討伐隊がやられてしまうという恐怖の中、1人の除隊後間もない軍人の撃った弾がヒグマに当たり、その隙を付いて鉄砲での一斉攻撃をしたことで、ようやくこのヒグマはその場に倒れたのです。結果、このヒグマは5名の死亡者と3名の重傷者を出して、自らも命を落とすことになりました。

十和利山熊襲撃事件

Black Bear Portrait Head - Free photo on Pixabay (605346)

最近の若い人達はあまりしなくなりましたが、高齢者の人程未だに山菜を採りに山へと入ってしまいます。確かに採ってくれる人がいなければ、山菜を食べることは出来なくなるでしょう。

しかし、春の山菜は冬眠明けのクマにとっても主食となる為、遭遇する確率が上がってしまいます。更にクマはツキノワグマ、ヒグマに係わらず、本来臆病な生き物でしたが、ここ十数年の間に人を恐れない新世代と呼ばれるクマ達が増えてきたのです。

人が増え、山と街が近くなったことや、人が残して行ったゴミの味を覚える、北海道では無知な観光客が餌を与えるなども問題になっており、今クマと人との共存関係が壊れつつあります。そのような中で起きたツキノワグマ襲撃事件は、2016年(平成28年)に起きたものです。ここでは、戦後最大の獣害事件となってしまった、十和利山(とわりやま)熊襲撃事件を紹介します。

十和利山熊襲撃事件概要

Bamboo Leaves - Free photo on Pixabay (605359)

十和利山(とわりやま)は、第2のピラミッドとも呼ばれており、キリストの墓がある十和田市新郷村(しんごうむら)と、大湯環状列石が有名な秋田県鹿角市(かづのし)との間にある山です。

この山は山菜が豊富で、春になるとタケノコを採る人達で山は賑わうのですが、ツキノワグマも当然そのタケノコを食べる為にやってくるのです。2016年(平成28年)5月20日(金)、朝からタケノコを採る為に、当時79歳の男性は秋田側の竹藪に入っていました。

しかし、夕方になっても戻らぬ男性を心配した家族が通報し、翌朝山に捜索に入ったところ、秋田県警鹿角署の署員が男性の遺体を発見したのです。また、男性が行方不明になっていた頃、夫と同じくタケノコ採りに来ていた60代の主婦が、ツキノワグマに襲われ重傷を負いました。

事件の被害

Hand Fear Despair - Free photo on Pixabay (605371)

警察はこの2件の事故が、ツキノワグマの仕業だと判断し「クマ出没注意」の看板を立てて注意喚起を促しますが、クマに襲われた人がいることを知らない人達は、タケノコ採りに山へとやってきました。

しかし、翌日22日(日)の午前7時頃、今度は78歳の男性が妻と共にタケノコを採っていたところ、またしてもツキノワグマに襲われてしまうのです。夫はクマの存在にまだ気が付いていなかった妻に「逃げろ!」と声を掛け、妻は夢中でその場を離れ無事でしたが、のちに夫は遺体となって発見されてしまいます。

これを受けて、危険と判断した東北森林管理局は周辺を通行止めにするのですが、今度は違う場所で人が続々とクマに襲われ始めました。29日(日)には、タケノコ採りに入っていた親子の78歳の母親が、ツキノワグマに襲われ重傷を負い、25日(水)から行方不明になっていた65歳の男性の遺体も発見されます。そして、6月10日(金)には3日前から行方不明になっていた74歳女性の遺体も発見されたことで、合計4人が死亡、3人が重傷を負うという戦後最大の被害となってしまったのです。

ツキノワグマの最期

Hunter Rifleman Fighter - Free vector graphic on Pixabay (605384)

警察や県などは事態を重く見て、猟友会に出動要請し、6月10日(金)午後2時頃に、1人のハンターがメスのツキノワグマを1頭射殺することに成功しました。しかし、胃の内容物を見ても、このクマが全ての人を襲ったとは言えない程度しか、人肉は発見されませんでした。

現地調査や目撃情報などから、人を襲ったクマは1頭だけではなく、少なくとも5頭のツキノワグマがいると判断されます。その後、捕獲檻に入っていたオスグマを駆除しますが、残りのターゲットであった、メスグマ2頭と白い傷のあるオスグマは逃してしまい、射殺処分することが出来ませんでした。

この事件はここで一段落しましたが、事件からまだわずか3年目の2019年(令和元年)も、人を襲ったツキノワグマは生きている可能性は高く、今現在も安心できる環境とは言えません。

日本・世界のクマによる死亡事故

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