2019年9月5日 更新

クマ牧場やクマによる事件や事故まとめ!日本のクマによる死亡事故

日本には登別や奥飛騨を始め、7か所の熊牧場があります。本来熊はとても臆病な存在で、山奥に入る人以外、熊牧場などでしか熊を見たことが無い人の方が多いでしょう。しかし熊は時として、人を襲う脅威の存在になるのです。今回は、そんな熊による事件や事故を紹介していきます。

Bear Cub Black - Free photo on Pixabay (603404)

完全自殺マニュアルに変わった自殺方法として取り上げられていたのが、この阿蘇クマ牧場にてとある主婦が子グマ舎へ飛び降りて自殺をしたというものです。

日付や名前などの詳細は不明ですが、自殺マニュアルによれば、1989年(平成元年)2月に起きた事件で、自殺を図ったのは当時61歳の主婦だったと言います。

ネットでは事故が1月に起きた説や、飛び降りた時間が午後7時など諸説あります。しかし、阿蘇カドリー・ドミニオンの冬期間の営業終了時刻は午後4時半だということを考えると、果たしてただの主婦が勝手に侵入出来たのかという疑問や、当時のニュース記事なども見当たらないことから、この事故に信憑性をあまり感じられません。

68頭のクマが主婦を襲う

Hand Blood Smeared - Free image on Pixabay (603416)

自殺マニュアルによれば、飛び降りた子グマ舎には当時68頭のクマがおり、飛び込んできた主婦を一斉に襲っていたと言われてます。ドーンッ!という音を聴いた飼育員が驚いて様子を見に行くと、子グマ達が一か所に群がっており、只事では無いと感じた飼育員はクマ達に向けて消火器を噴射したのです。

クマ達が散らばった後、飼育員は白い粉の中に人が倒れているのを発見しました。その人はすでに死亡しており、体中を食いちぎられ、無残な遺体となっていたと言われています。クマは草食系だと冒頭でも説明しましたが、何故子グマ達が主婦を襲ったのかと言えば、この園では客が与える売り餌にチキンを用意していたという話があります。

しかし、大抵のクマ牧場では1つの運動場の中に、68頭も入れることはありません。子グマと言っても生後数か月と1歳では大きさも違いますし、大抵は同じような成長時の個体を、種類ごとに分けて飼育しているはずです。このことからも、この話の信憑性は疑わしいと言えるでしょう。

残された遺書

Writing Write Fountain Pen - Free photo on Pixabay (603444)

この自殺した主婦は、仏教にハマっていたと言われ、普段から「私は地獄に堕ちる」「トラに食べられて死にたい」など、意味不明な発言をしていたようです。

「人間は死んでも魂は残る」とも主婦は普段から話していたようですが、魂に触れる程の仏教信者であれば、輪廻転生や現世は魂の修行だということ、そして因果や前世の業などの話も知っているはずです。そのような人が、果たして魂の修行を放棄する自殺を選ぶのかという疑問が残ります。

自殺を決行する際、主婦は夫に「あの世に行くように言われている」と言い残し家を出て行ったとも言われ、自らの死を覚悟していたのであれば、何かしらの罪を自らの命で償おうとしていたのでしょうか?遺書も残されていたようですが、その内容は不明です。

クマの共食い事件も

Anxious Panic Cannibal - Free photo on Pixabay (603451)

2014年(平成26年)11月23日(日)、この日は勤労感謝の日で3連休中の中日です。午後1時過ぎ頃、とある主婦がクマ達の「グオー」というただならぬ咆哮を聞き、驚いてクマ達を見ると、1頭のクマの上に6頭ほどのクマ達が覆いかぶさり、襲っているのを発見しました。

そのうち生臭い臭いと共に、「ボリボリ」というような骨を噛み砕く音が聞こえてきたことで、目撃者の主婦はクマが食べられていることを知ったようです。

クマ達は先程も少し触れた、来客者が与える売り餌用のチキンを奪い合っていたと言われ、襲われていたクマは死亡しましたが、このニュースに触れているのは週刊ポストのみで、果たして本当に共食いになっていたのかは不明です。

三毛別羆事件

Bear Brown Teddy - Free photo on Pixabay (603578)

苫前町は、北海道の日本海側の北部にある人口4000人にも満たない小さな町です。縄文時代から人が暮らす場所であり、江戸時代には松前藩が統治する漁場で栄えていましたが、その後明治になってからは、開拓使によって内陸へも土地を広げていきました。

町の入口とシンボルを表すカントリーサインには、とても可愛らしい親子グマが描かれているのですが、その反面「ようこそ熊嵐の里へ」という、自虐的とも言える観光看板が掲げられている町でもあります。

何故自虐的かと言えば「熊嵐」は、1977年(昭和52年)に出版された吉村昭著作の小説で、かつてこの町で起きた日本史上最悪の被害を出したヒグマ事件をモデルに書いた作品だからです。
Bear Brown Animal - Free photo on Pixabay (604087)

「熊嵐」の小説が出版された後は、テレビやラジオなどでもドラマ化され、この恐怖のヒグマ事件は世間に衝撃を与えました。若い世代にも「奇跡体験アンビリバボー」や、2ちゃんねるなどのネットから怖い話として一気に広まり、「三毛別羆事件」はヒグマ事件の中でも特に有名な事件となったのです。

事件現場は今現在も、事件を再現した掘っ立て小屋と巨大なヒグマの木彫りが置かれ、一応観光スポット扱いとなっています。しかし、森で袋小路になったその場所は、リアルに毎年ヒグマ目撃情報があり、被害者の状況を考えると、とても気楽な気持ちで行きたい場所ではありません。

ここでは、人々に野生動物の恐怖を植え付け、今や伝説とも言える恐怖の「三毛別羆事件」を紹介します。

三毛別羆事件概要

South Tyrol Almen Village Winter - Free photo on Pixabay (603583)

明治後半から苫前では、内陸部の原野を切り開き更なる開拓を進めていきました。巨大な原始林を切り倒し、わずかに出来た土地を畑にした開拓民達は、大正時代になると入植者は15戸に増え、日本海側沿岸から約30kmほど内陸に入った六線沢というところで暮らしていたのです。

そんなある日の夜、六線沢に住む池田家ではちょっとした異変がありました。1915年(大正4年)11月初旬、突然飼っている馬がいななき、小屋の中で暴れているような音に池田家は気が付きます。様子を見に外に出た主の池田富蔵は、ようやく収穫して保存食にと吊るしてあったトウモロコシが無くなっていることや、見たこともない大きな足跡を発見したのです。

その足跡は約30cm程もあり、富蔵は不思議に思いましたが、この時点ではヒグマの仕業だとはあまり気が付いていませんでした。しかし、それからしばらくして再び馬が暴れ始めた時、富蔵は大きなヒグマの姿を目撃したのです。
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クマの習性として、1度自分の獲物として味を覚えてしまったり、自分の臭いが付いた物に異常な執着心を持つことは、冒頭でも少し触れました。

池田富蔵がその習性を知っていたのかは分かりませんが、2度もトウモロコシを狙って現れたヒグマの行動から、また来るかもしれないと警戒し、富蔵はマタギを隣村から呼んでヒグマを待ち伏せすることにしたのです。2度目のヒグマ来訪から10日後の、1915年(大正4年)11月30日(火)富蔵の予想通りにヒグマが表れ、2人のマタギは鉄砲を撃ちましたが仕留めることは出来ませんでした。

走り去っていたヒグマの血痕を追うも、富蔵達はその痕を地吹雪で見失ってしまいます。このことで分かることは、このヒグマがこの時点で「手負い」になってしまったということです。手負いのクマとは、この時のように中途半端な怪我を負うことで、命の危機を感じて凶暴化してしまうクマのことを言います。更にマタギ達は、この時期に歩いているクマは冬眠が出来ない「穴持たず」ではないか?と推察し、このようなクマはとても狂暴だと富蔵に説明して、隣村へと帰っていきました。

事件の被害

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手負い、穴持たずという凶暴化する条件を2つも満たしたヒグマは、それからしばらく姿を見せることはありませんでした。1915年(大正4年)12月9日(木)、村では農産物の出荷作業や、馬橇(ばそり)などが通れる頑丈な氷橋(すがばし)を作る為の木材の刈り出しなどで、忙しい時期を迎えており、男達は出払っていたのです。

その間、女達は家の留守を守りながら、小豆の選別などの作業に追われていました。そのような中で、木の伐採に出掛けていた太田三郎が昼食の為に家に戻ると、養子にしようとしていた6歳の義理の息子である幹夫が、1人で井戸端に座っていたのです。

寝たふりでもしているのかと、声を掛けるも反応は無く、太田は息子の顔を除きこむと大量の血が流れ、喉や頭の側頭部には大きな穴や傷が付いていることを発見し、太田は腰を抜かしてしまいます。そこでようやく、内縁の妻マユの姿が無いことに気が付いた太田は、名前を呼びますがやはり反応は無く、彼はここで助けを呼びに外へ走り出したのです。
Ax Hatchet Block - Free photo on Pixabay (604531)

村人達と改めて部屋を確認にした太田達は、火の消えかかっている何本かの薪や、血が着き柄の折れたまさかり、そして窓枠にマユのものと思わしき数十本髪の毛を発見したのです。このことで、マユは最後まで戦うも、ヒグマに引きずられていったことを太田達は知りました。

その後男達は、マユの遺体を探す班と、幹夫の死を実親に知らせる為の移動班などに別れ、女子供を明景家(みようけけ)へ避難させて翌朝から行動を開始したのです。途中捜索隊はヒグマと遭遇し、襲われ掛けますが、銃を撃ったところでヒグマは逃走してしまいます。ヒグマがいたということは、マユの遺体もこの周辺にあるかもしれないと捜索すると、雪の下に埋められたマユの脚と頭だけの遺体を発見しました。

遺体の一部でも、葬式をする為にマユを連れて村人達は帰りましたが、その行動が更なる恐怖を呼び寄せてしまいます。12月10日(金)の夜、マユと幹夫の葬儀を執り行っていた午後8時頃、ヒグマは獲物(マユ)を取り戻す為に、太田家の壁をぶち破ってヒグマが乱入してきました。この時は男手もあり、皆音を出したり銃声を響かせることで被害も無く、ヒグマは逃走していきましたが、そのまま明景家に突入して非難していた女子供を次々に襲ったのです。

ヒグマの最後

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ヒグマは1度味を覚えてしまうと、しつこいほどにそれだけを求め食べるようになります。最初の被害者がマユという女性だったことで、ヒグマは明景家でも女性を狙い食べようとしました。

明景家には、その家の妻ヤヨと子供達5人、そして避難してきていた斎藤家の妻で妊婦であったタケと子供達2人、祖父の要吉合わせて10人がいたのです。しかし、ヒグマは子供達を殴ったり噛んだりして襲っていますが、食べようと噛り付いたのはヤヨとタケだけでした。

ヤヨは何とか逃げ切れましたが、タケは逃げきれず「腹破らんでくれ」「喉食って殺して!」と叫びながら、ヒグマに頭から食べられ始め絶命してしまいます。タケの願いも虚しく、腹の子も引きずり出され死亡していたのです。結局、ヒグマは村人達を7人(胎児を含めると8人)を殺し、3人に重症を負わせました。
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