2019年9月5日 更新

クマ牧場やクマによる事件や事故まとめ!日本のクマによる死亡事故

日本には登別や奥飛騨を始め、7か所の熊牧場があります。本来熊はとても臆病な存在で、山奥に入る人以外、熊牧場などでしか熊を見たことが無い人の方が多いでしょう。しかし熊は時として、人を襲う脅威の存在になるのです。今回は、そんな熊による事件や事故を紹介していきます。

Bear Fog Forest - Free photo on Pixabay (605639)

クマは、日本を始め南北のアメリカ大陸、ユーラシア大陸、そしてインドネシア、スリランカ、台湾、北極と幅広く生息していおり、その種類もホッキョクグマやヒグマ、グリズリー(ハイイロクマ)など、陸で住む哺乳類の中では最も大きい種類から、ツキノワグマのような小型のクマまでが存在します。

人が住処を増やすことにより、クマ達の暮らす場所を奪いつつある現代は、人とクマの共存性を危うくしつつあると言えるでしょう。いくら文明が発達しても、武器や道具を持たずに自然や野生と向き合う時、人はとても無力な存在です。クマ達は、基本的に人から隠れて生きようとしていますが、命の危機を感じたり、相手がチョロいと分かれば、突如として牙を剝き人間を襲う凶暴な生き物と化してしまうのです。

そのような不幸な状況の中で、世界でもクマによる悲惨な事故が後を絶ちません。ここでは、今まで紹介したクマ事件以外にもある、日本や世界のクマによる死亡事故を紹介していきます。

札幌市丘珠事件

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今でこそ北海道内では1番の大都市となり、人口も毎年増えすでに200万人程となった札幌市。しかし、開拓使が入植した明治の頃は、そこら中に原生林や原野の広がる何も無い土地だったのです。

そんな開拓中の札幌で、この事件は起きてしまいます。1878年(明治11年)1月11日(金)、1人の猟師が冬眠中のヒグマを狙い、円山の山の中で雪をかき分けクマ穴を探していました。猟師の名前は、蛭子勝太郎。しばらくして、クマ穴を見つけた勝太郎は、冬眠中のヒグマに向かい銃を放ちますが、なんと失敗してしまうのです。

冬眠中とは言ってもヒグマは穴の中で寝ている訳ではありません。ウトウトとしながら、餌の無い時期に体力を温存する為にじっと穴の中にいるだけです。そこへ突然謎の男が現れ、ヒグマは恐怖と驚き、そして命の危険を感じて飛び出し、勝太郎を襲って殺してしまいました。
Bear Animal Brown - Free vector graphic on Pixabay (605744)

穴を襲われたヒグマは、勝太郎を殺した後パニックになってそのまま走り出しました。空腹で体力も無く、何が起きたかも分からないまま、ヒグマは円山を降りて平岸村や月寒村など人里を通過してしまったことで、人々は駆除隊を結成し、ヒグマの追跡を始めたのです。怖くて必死に逃げているのに、後ろから人々の集団が追跡してくるので、ヒグマは更にパニック状態となったまま走り続けていきました。

クマ穴を飛び出してから約1週間が過ぎ、1月17日(木)の深夜、ヒグマは円山から北東に約13km程先にある丘珠村へとたどり着いたのです。そこには、炭焼きをして暮らす堺家(さかいけ)がありました。家と言っても小屋のようなもので、入口のドア代わりに筵(むしろ)を下げているような家です。

この家には、主人の倉吉(くらきち)と妻リツ、そして生まれたばかりの息子留吉(とめきち)が暮らしていましたが、外の物音に気が付いた倉吉が筵を上げたと同時に、ヒグマが突入してきました。逃げ込もうとした矢先に人と出くわしたヒグマは、更にパニックになり一家を襲います。結果、倉吉と留吉が食い殺され、リツも重傷を負うことになりました。翌日の18日(金)の午後、駆除隊はようやくヒグマを射殺して、この事件は終焉を迎えたのです。

星野道夫ヒグマ襲撃事件

Camping Lake Lagoon - Free photo on Pixabay (605666)

人は何故か、自分だけは死なないと思っていることが多い生き物です。野生の勘を失い、平和ボケしてしまった現代人は緊急時にも正常性バイアスによって、平常を保とうとしてしまうほどの衰えっぷりです。更に自然に対する知識も乏しく、危機管理能力も著しく衰えていると言えるでしょう。

そのような状況で、危険性を客観視することも出来ずに命を落としてしまったのが、カメラマンの星野道夫です。1996年(平成8年)7月25日(木)、星野はTBSの番組「どうぶつ奇想天外」の撮影の為、ロシアのクリル湖畔に来ていました。同行したのはTBSスタッフの3人と、ロシア人のガイド2人で、彼らは小屋に泊まり込むことになったのです。

しかし星野は、ヒグマと鮭の撮影の為、小屋から少し離れた場所に1人でテントを張り、そこを取材と宿泊場所として使うことにしました。
Starry Sky Tent Night - Free photo on Pixabay (605821)

ちなみにこの地域は自然保護区で、ガイド達も銃を持ち込むことも使うことも禁止されている場所で、ヒグマが出た場合の撃退方法はクマ避けスプレーと音のみです。取材を始めてから2日程は何もありませんでしたが、27日(土)になって、取材チームとは別の男が、星野の横にテントを張っていました。

この男はアメリカ人のカメラマンで、彼もまた撮影にやってきていたのですが、夜に異音を聴いて外を見ると、ヒグマが小屋の食糧庫によじ登っている姿を発見します。驚いたアメリカ人は、星野にもクマの存在を伝えますが、彼は「ガイドを呼んで」とお願いし、テントからは出てきませんでした。

クマを何とか追い払い、ガイド達は小屋で寝ることを星野に進めますが、彼は「鮭を食べてお腹が一杯なのだから襲ってくるはずがない」と頑なに言い続け、度々ヒグマがテントに近づく中、ずっとテントに居座り続けていたのです。結果、2週間程過ぎた8月8日(木)の深夜4時頃、星野はついにヒグマに咥えられ引きずられていきました。そして無残にも、森の中で食い殺された姿で発見されたのです。

福岡大ワンゲル部・ヒグマ襲撃事件

Climbing Mountains Load - Free photo on Pixabay (605686)

山はかつて神域や御神体と信仰の対象だった為、日本では趣味や遊びで気楽に入るものではありませんでした。その概念は、今もあまり変わっていないのですが、明治維新後に入り込んだキリスト文化の白人達が、日本の山を征服する為に登山を開始し、ある意味で神域を破壊していきました。その後、日本でも登山ブームが60~70年代に起こり、現在では山ガールなどと女性までが山に登るようになったのです。(山の神は女性なので、本来女人禁制でした)

そのような登山ブーム真っ最中の1970年(昭和45年)7月14日(火)に、はるばる九州からやってきた、福岡大学のワンダーフォーゲル部の5人が、北海道新得町(しんとくちょう)にやってきました。彼らは憧れの日高山脈を縦走する予定で、念入りな準備を整えて山へと入って行くのです。

ちなみに、九州にはクマはいません。本州のクマはツキノワグマですが、1957年(昭和32年)以降、目撃情報が無く絶滅したと考えられています。彼らは情報として、北海道にはヒグマがいることは知っていましたが、習性や生態などは全くの無知だったのです。彼らが目指した日高山脈は、現在でも多くのヒグマが生息している地帯ですが、大学生達はこの場所でヒグマに出遭うことなど、全く予想していなかったと言われています。
Brown Bear Master Petz Nature Park - Free photo on Pixabay (605910)

メンバーは、リーダーで20歳(3年生)の竹末一敏、サブリーダーで22歳(3年生)の滝俊二、そして19歳(2年生)の興梠(こおろぎ)盛男、19歳(1年生)の西井義春、18歳(1年生)の河原吉孝という5人です。新得町に到着した彼らはすぐに山へと向かい、少し予定が遅れつつも25日(土)には中間地点の丸ノ沢カールに到着後、その場にテントを張りました。

そこへヒグマが現れ、彼らをジッと見つめているところを発見し、メンバーは初めて見るヒグマにはしゃぎ、写真を撮ったりしていたのです。その様子を伺いながら、ヒグマはジリジリと彼らの方へと進み出し、念の為、テントから離して置いた食料品をあさり始めました。これから頂上を目指す彼らは食糧を奪われては困ると判断し、音を出してヒグマを追い払い、荷物を取り返したのです。

しかし、ヒグマは自分の獲物や臭いのついた物には、執念とも言えるほど強く執着する生き物です。1度は姿を消したヒグマは、翌朝から5度も逃げる彼らを追い、最終的に竹末、興梠、河原の3人を食い殺してしまいました。残る滝と西井は助けを呼ぶために27日(月)には下山しており、生還することが出来たのです。最後の最期まで1人生き残っていた興梠は、死の直前までの状況をメモに残していました。

ペトロパブロフスク羆事件

Phone Communication Connection - Free photo on Pixabay (605696)

ネット上ではまことしやかに語られるヒグマ事件の海外版として、ロシアのペトロパブロフスクで起きた壮絶なヒグマ事件があります。2011年(平成23年)8月13日(土)、カムチャッカ半島の東岸にあるペトロパブロフスクという街に、オルガという19歳の女性と、その義理の父に当たるイゴールは、オルガの卒業記念に2人でキャンプに来ていました。その日の午後、川原で寝転ぶイゴールの前に、突如として現れた巨大なヒグマはイゴールを襲い殺してしまうのです。

葦のおかげでヒグマから隠れられていたオルガは、恐怖の余り逃げ出そうとするのですが、ヒグマはすぐさま気が付き追いかけてきました。彼女はあっさりと脚を襲われ、その場に倒れてしまったのです。身動きの取れなくなったオルガを、ヒグマは容赦なく食べ始め、死を覚悟した彼女は死の直前まで母と電話で話し、自分がクマに食べられている様子と別れの言葉を告げて亡くなりました。

この事件は、オルガの最期の言葉までリアルに書かれ、場所や日付なども具体的なことから、本当にあったのかもしれないと感じる話です。しかし、ニュースや新聞記事なども無く、食べられながら電話をする余裕があるのか否かなど疑問に残る点も多い為、今ではデマと言われています。

ニュージャージーハイカー襲撃事件

Freedom Travel Hiking - Free photo on Pixabay (605702)

最後に紹介するクマの事件は、アメリカで起きたもので、襲撃したクマもヒグマでは無く、アメリカグマ(通称:アメリカクロクマ)という種類です。

2014年(平成26年)9月21日(日)、アメリカの大学生達4人のグループは、ニュージャージー州のウェスト・ミルフォードという自然保護区にハイキングに来ていました。楽しく森の中を歩いていると、途中で後ろからアメリカグマが後ろから付いてきていることに気が付きます。まさに森のクマさんの歌のように、クマは彼らの後を付けてきたのです。

距離もあり、クマもあまり動く気配が無かった為、4人は写真を撮ったりと当初は呑気にクマを眺めていました。しかし、彼らの予想に反して、徐々に距離を詰めてくるクマに少しずつ恐怖を感じた彼らは、パニックに陥りバラバラに走りだしたのです。クマは動いている物を追いかける習性がある為、猛然と追いかけてきます。逃げている内の1人、ダーシュ・パテルは途中で靴が脱げてしまい、そのままクマに襲われてしまったのです。
Black Bear - Free photo on Pixabay (606113)

襲われている最中、ダーシュは「早く逃げろ!」と叫び、他の3人はその隙に逃げ出すことに成功し、警察に通報することが出来ました。

警察は通報を受け、すぐにダーシュの捜索を開始しましたが、渓谷の谷の底に残念ながらダーシュの遺体を発見します。クマは遺体の周りをグルグル回っており、警察は遺体回収の為に持っていたショットガンでクマを射殺しました。

ダーシュの遺体は、無残にもあちこち食われており、クマの胃からは衣服や体毛、そして爪や皮膚なども発見されています。この場所でクマに襲われる事故が起きたのは、1852年(日本では江戸時代)以来無かったと言われ、なんと162年ぶりの死亡事故だったのです。亡くなったダーシュにとっては、とても不運な事故だったと言えるでしょう。

創業以来事故のない奥飛騨クマ牧場

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1976年(昭和51年)にオープンしてから43年、こじんまりとした牧場ながら、1度も事故を起こしたことが無いというクマ牧場が、岐阜県の奥飛騨温泉郷の中にあります。北アルプスの麓にあるこの場所は、たくさんの温泉や雄大な景色も楽しむことが出来るでしょう。

そのような観光スポットの中に、奥飛騨クマ牧場はあります。「ある日、森のクマさんに出逢いませんか?」というメルヘンチックなキャッチフレーズが付けられているこの牧場には、90頭程のツキノワグマと1頭のヒグマが暮らしているのです。

ここでは、全国のクマ牧場でも珍しい、ツキノワグマメインの奥飛騨クマ牧場を紹介していきます。

奥飛騨クマ牧場の魅力

Heart Love Romance - Free photo on Pixabay (606179)

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