2019年10月2日 更新

池田小事件とは?宇多田ヒカルが被害者に向けて捧げた楽曲がある?

将来を有望されていた小学生やその教師などが「嫌がることをすることが快感で生きがい」という頭のおかしな男に刺し殺されるという事件がありました。被害者たちは宇多田ヒカルさんのファンだったことから、宇多田ヒカルさんは偲ぶ歌を作りました。犯人のなぜ?に迫ります。

目次

根っからの殺人者は、理由があって殺人をするのではなく「殺したい」という気持ちを持っていることを必死に押し殺して生きていると言われています。

なぜ猫や小動物を殺したいのか?という理由などなく、子供の頃にも簡単に「殺せる」対象が猫や小動物であるというだけだそうです。大人になっていく過程で、知恵がついたり体が大きくなったりすると、必ず人間を殺したくなると言われています。

個人的な殺意を持ってしまい、突発的に殺人を犯してしまう人間は、猫や小動物を殺したいとは思わないのです。

自衛隊に強い関心を持っていた

Phantom Fighter Self - Free photo on Pixabay (671309)

宅間の家系では代々「先祖が旧薩摩藩の下級武士」であったことを事件発生前まで誇りにしており、宅間家の男子には、法律や警察関係の仕事を行う者が多かったそうです。

幼いころから「高学歴・エリート」に対して、心の底から羨望し嫉妬していた宅間守は、小学生の頃には「将来は自衛隊入るぞ~」と大声で叫び、一人で軍歌を大声で歌っていました。高校生になると同級生に「俺は自衛隊入るからお前らとはあと少しの付き合いや」と発言していたそうです。

高校時代にも「他人が嫌がること」を生きがいにし停学処分を受けた際には、一切の反省なく「自衛隊は内申書一切関係無しの一発勝負」という反省文を書いていました。

好意を抱いていた女子の弁当に精液をかけた

Lunch Box Dishes Korean Side - Free photo on Pixabay (671310)

好意を抱いていた女子の弁当に精液をかけ、知らずに食べる女子を眺めながら「支配欲」が満たされることを好んでいたようです。

愛された経験がない人間は、愛される気持ちの良さを知りません。「されると嬉しいこと」をすることは「愛される方法」と感覚で理解できず「やらされた」ことになるのでとことん嫌うのです。

「されると嫌がること」をすることを無理やり受け入れさせることで「認証された」「愛された」と感じるので、生きがいに変わるというわけです。

学歴コンプレックスだった

Library Books Education - Free photo on Pixabay (671315)

宅間守は「愛された」と感じる経験もなく「いてもいなくても良い人間」として扱われて生きてきました。自分は価値のない人間だと感じるのと同時に「同じ価値のない人間でも、生まれながらのセレブリティーなら強力なバックアップが受けられ、楽して良い人生をきられるのに」と強烈なジェラシーの気持ちを持っていました。

それぞれの立場や環境で、それぞれ種類の違う大変さがあることを知らずに「自分と同じで無能なくせに」と馬鹿にして強烈に妬みながら、努力することは敗北と感じていたようです。

精神障害者年金を受給していた

Coins Currency Investment - Free photo on Pixabay (671320)

頭のおかしい自分勝手な行動からトラブルが発生すると『精神病』の演技をすることで、刑罰を逃れ入院を繰り返していました。

1999年には「精神分裂病のため労働ができない」として傷病手当金を申請すると月20万円の『傷病手当金』が支給される事を知り、申請が受理されると、4月~2000年10月まで、20万円の傷病手当金を受け取っていました。

傷病手当金が終了すると『2級精神障害者福祉手帖』を申請し受理されると、月75000円ほどの『精神障害者年金』を池田小事件で逮捕される直前まで受け取っていたようです。

犯人・宅間守の生い立ち

Protection Of Minors Criminal - Free photo on Pixabay (671324)

宅間守という人間の人生を知るほど、たしかに「人間の滑稽さ」をカツンと頭にぶつけられます。100%スマートな人間はいないとしても「人間はここまで愚かになれるのだ」ということに衝撃を受けます。

自分の周囲にこのような人間がいると想像するだけで恐怖に感じます。愛されることの気持ちよさを知ってる人間とそうでない人間は、同じ人間とは思えない人間になってしまうようです。

宅間守は「自分は価値がない人間」だと実感しており、ずっと「死にたい」と思いながら「でも生きたい」「しかも努力せずに楽に生きたい」とあがいていました。

1963年11月23日に生まれる

Newborn Baby Feet - Free photo on Pixabay (671326)

宅間守は望まれて授かった子どもではなかったようですが、1963年11月23日、兵庫県伊丹市の工場街の工員家庭の家に生まれました。

典型的な「この親にしてこの子あり」といういびつな形のカップルである父親と母親、そして7歳年上の兄がいる「本来なら愛されるべき存在」としてこの世に生まれてきたポジションに見えますが、金銭的にも精神的にもギリギリで生きている両親には、4人家族の1人として一番幼い子供を愛することはできませんでした。

幼少時代から素行が悪かった

Children Playing - Free photo on Pixabay (671328)

宅間家の近所の住人たちは「幼少時代の宅間守は、3歳の時には三輪車で国道の中央を走って車を渋滞させるのを見て楽しむような、たびたび問題行動を起こして楽しんでいるようなたちの悪い子どもだった」と言いました。

小学校に上がると、自分より強い児童にはいじめられることを受け入れていましたが、自分より弱い児童に対しては徹底的にいじめるという、この頃からすでに「一番恥ずかしいタイプ」の人間だったのです。

気の弱さを認めずに、自分より弱い弱者を見つけ出してはサンドバッグのように使っていたのです。あだ名は『ゴン太』でした。

家庭環境について

Baby Feet Father - Free photo on Pixabay (671330)

両親が共働きであったため、宅間守が幼稚園に入園するまで「父方の祖父母宅」にて育てられました。育児もされないで暴力しか振るわれない実家より居心地は良かったようです。

父方の家は、現代の『鹿児島県』である『旧薩摩藩』の下級武士でしたが、明治維新の直後に『丁髷(ちょんまげ)』を落として警察官に就任し、奄美大島に渡った後に、大阪・河内へ移住した父を持つ『祖父』を誇り高く思っていました。

しかし、幼稚園入園後の4歳頃、伊丹市の実家に戻らされ、地元の幼稚園に入園させられました。宅間は池田小事件後の精神鑑定で「祖父母の家の方がよかった」と述べています。

小学校時代

Kids Painting School - Free photo on Pixabay (671331)

小学生時代の宅間守については、近所からの評判は良く「はきはきとして挨拶をする子ども」「頭がよく活発で、学習塾に通っており成績も良かった」などという証言が多くありました。

しかし、同級生からは「些細なことで殴りかかる」「強いものからはいじめられ、自分より弱い者にはいじめをする」など、ネガティブな証言が多くありました。猫などの小動物をいじめて殺すことを楽しみ始めたのもこの頃でした。

兵庫県伊丹市立の小学校卒業する時、卒業アルバムの寄せ書きに「長生きしよう」と書き込んでいます。後に、20歳年上のこの小学校の恩師で、作家『小松左京』氏の実妹である女性と結婚することになりました。

中学校時代

Middle School Education - Free photo on Pixabay (671333)

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