目次
- 良栄丸遭難事故と事故にまつわる怖い噂
- 良栄丸遭難事故
- 1926年千葉県銚子沖での事故
- 1960年静岡県沼津港沖での事故
- 1926年良栄丸遭難事故詳細
- 良栄丸の船について
- 12月12日航行の自由を失う
- 季節風で戻れず
- 漂流を決意
- アメリカへの漂着を目指す
- 次第に食料が尽きて乗組員が次々と死亡
- ミイラ船良栄丸の発見
- シアトル沖でアメリカの貨物船に発見される
- 乗組員の遺体はミイラ化
- 乗組員が残した遺書
- 板に連名で遺書を書き残す
- 船長が妻子に宛てた遺書
- 良栄丸遭難事故の不可解な点
- 他の船舶と一切コンタクトが無かったこと
- アメリカ貨物船の12月23日の目撃談
- 最後の航海日誌が奇妙
- 発見時の船内に現金や書類が無かった
- 残り3名の遺体
- 良栄丸に関する噂
- 乗組員が狂ってしまった
- 切り刻まれた遺体
- 食人行為が行われた
- 良栄丸に関する怖い噂の真相
- ネット上にある情報の多くはデマ
- デマの航海日誌が拡散
- デマが広まった原因
- 児童向けのミステリー事件紹介本
- アメリカの報道
- ひかりごけ事件との混同
- 詳しい報道が無かった
- 多くのデマに苦しんだ遺族
- 日誌全文が新聞で公開
- 日誌の内容を知った船長の妻の様子
- 1960年の第2良栄丸遭難事故
- 第2良栄丸遭難事故概要
- 名前と人数の一致
- 恐怖のミイラ船良栄丸の遭難は悲しい事故だった
1960年1月12日、戦後の高度経済成長期の真っただ中で、日本中に活気が溢れていた頃のこと。高知県土佐清水市の漁船・第2良栄丸が、静岡県の沼津港を出港し、その後、1月21日の夜に遭難しました。
この第2良栄丸の乗組員は12名で、結果としてそのうちの3名が行方不明となり、残る9名は自力で小笠原諸島の無人島に泳ぎ着くことができました。9人は遭難から90時間後には、近くを通った巡視船「むろと」によって無事救助されています。
この第2良栄丸の乗組員は12名で、結果としてそのうちの3名が行方不明となり、残る9名は自力で小笠原諸島の無人島に泳ぎ着くことができました。9人は遭難から90時間後には、近くを通った巡視船「むろと」によって無事救助されています。
名前と人数の一致
via pixabay.com
1926年に起きた良栄丸遭難事故で、出港時乗組員は12名だったにも関わらず、アメリカの貨物船に発見された時には遺体の数は9体しかありませんでした。つまり3名は行方不明となっています。
そして1960年の第2良栄丸事故では、同じ「良栄丸」という名前の船において遭難事故が起こり、当初の乗組員は12名。良栄丸と違い、9名は生存した状態で発見されましたが、やはり3名の行方不明者が出ています。
このように、船名、乗組員数、行方不明者数などが奇妙に一致しているとして、2つの事故の関連性を怪しむ意見が出るなど、当時この第2良栄丸遭難事故は世間を騒がせる出来事となりました。
そして1960年の第2良栄丸事故では、同じ「良栄丸」という名前の船において遭難事故が起こり、当初の乗組員は12名。良栄丸と違い、9名は生存した状態で発見されましたが、やはり3名の行方不明者が出ています。
このように、船名、乗組員数、行方不明者数などが奇妙に一致しているとして、2つの事故の関連性を怪しむ意見が出るなど、当時この第2良栄丸遭難事故は世間を騒がせる出来事となりました。
恐怖のミイラ船良栄丸の遭難は悲しい事故だった
via pixabay.com
事故発生当時から現在に至るまでの長きに渡って、良栄丸の遭難事故はオカルト的な脚色をされ続け、一つの娯楽的読み物としての扱いを受けてきました。
しかし、実際にはその多くの部分がデマであり、そのデマによって遺族の人々が苦しんできたという事実が背景にあることを忘れてはなりません。
この良栄丸遭難事故の事実は、遭難という危機的状況に合いながらも、力を合わせて、いつしか祖国に戻ることを願っていた乗組員たちの、悲しい事故だったといえるでしょう。
しかし、実際にはその多くの部分がデマであり、そのデマによって遺族の人々が苦しんできたという事実が背景にあることを忘れてはなりません。
この良栄丸遭難事故の事実は、遭難という危機的状況に合いながらも、力を合わせて、いつしか祖国に戻ることを願っていた乗組員たちの、悲しい事故だったといえるでしょう。
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