2019年6月8日 更新

F1史上最強のドライバー!ミハエル・シューマッハの過去の栄光と現在

F1で語り継がれるミハエル・シューマッハは数々の伝説を残しました。しかしスキー事故以来姿を見ることはありません。今現在は一体どうなっているのか、また容体は少しずつでも回復しているのか気になる人も多くまた過去の栄光が気になる人もいると思います。

この年、ミハエル・シューマッハは前年度チャンピオンとしてカーナンバー1を引っ提げてフェラーリへ加入しました。それまでのフェラーリは今のようにトップ争いを出来るようなチームではありませんでした。

しかしミハエル・シューマッハはスペインGPでフェラーリ加入後初の優勝を飾りました。パフォーマンスに浮き沈みは多少ありましたが、ドライバーズ選手権では3位になり、コンストラクターズ選手権では2位となり、その結果はベネトンを上回る結果となりました。

1997年

Globe Map Country - Free photo on Pixabay (347769)

このシーズンはベネトンからテクニカルディレクターとチーフデザイナーがフェラーリに移籍してきました。

そのお陰で戦略やマシン開発におけるレベルアップが可能になり、その結果ウィリアムズのジャック・ヴィルヌーブとチャンピオンを巡って激しい戦いが繰り広げられました。

最終戦ではわずか1ポイント差という接戦でしたが結果48週目でヴィルヌーブをブロックしたがために接触し、そのブロックが重大な過失と判断されチャンピオンシップからは除外され、ドライバーズランキング2位も抹消されるという事がありました。

1998年

F1 Formula 1 Racing - Free photo on Pixabay (348149)

1998年のシーズンはミハエル・シューマッハとって強敵のミカ・ハッキネンが頭角を現したシーズンでもありました。

いよいよ王座奪回かと言われており、モンテゼーモロが王座奪回の年だと宣言したこともありファンの期待は大きいモノでした。

その期待通りにミハエル・シューマッハは最終の日本GPではポールポジションを取ることが出来、いよいよ王座奪回かと思われましたが、残念な事にミカ・ハッキネンに逆転優勝を許してしまう結果になってしまいました。

1999年

Helicopter Aircraft Scenic Flight - Free photo on Pixabay (351228)

1999年のシリーズは序盤リードを飾るも最終シケインで激突するなどトラブルに見舞われました。

最も大きなトラブルはイギリスGPでストウ・コーナーへのアプローチでの減速が不可能な状態になりコースアウトをした上にタイヤバリアに突き刺さった事故が挙げられます。

すぐにヘリコプターで搬送されましたがミハエル・シューマッハは後に自分が生きていることは奇跡と表現しているほどの惨事だったようです。

怪我の事もあり残り全てを欠場という手段もありましたがミハエル・シューマッハは6レースのみ休み15戦目でセカンド・ドライバーとしてチームのコンストラクターズ・タイトル獲得に貢献しました。

2000年

Entrepreneur Idea Competence - Free photo on Pixabay (351258)

このシーズン中にミハエル・シューマッハはドライバーズタイトルを獲得しています。またフェラーリは新しいマシンの開発が上手くいきそのお陰でポイントを稼げたともされています。

またミハエル・シューマッハにとってアイルトン・セナ以降ライバルとせれているミカ・ハッキネンとも厳しい攻防を繰り広げていたことから見るとドライバーズタイトルを獲得できたことはミハエル・シューマッハにとっても大きな喜びになったに違いありません。

2001年

Cup Winner Profit - Free image on Pixabay (351289)

このシーズンは全体的に見てもかなり調子が良かったシーズンだったのではないでしょうか。

その証拠にプロストが持つF1最多ポイントを更新し、(798・5ポイント)そして41回という最多のファステストラップ記録をたたき出しました。

それだけにとどまらず、51勝の最多勝記録に4度目のチャンピオンも獲得しているのでまさに絶好調だったといえます。そのうえカナダGPでは史上初の兄弟1・2フィニッシュを決めています。

しかしそのに、自分の成長はここまでで、あとはフェラーリが進化するしかないというような事も語っていました。

2002年

Frog Prince - Free photo on Pixabay (351324)

2002年のシーズンは前シーズンに引き続き絶好調が続きました。17戦中11回の優勝を飾り、最多勝記録を更新し
だけでなく、全レースで表彰台に乗るという偉業を成し遂げました。

その全レースにおいてはリタイアは一度もなかったようです。そして残り7戦を残しチャンピオンが決定したことで全世界にミハエル・シューマッハがいかに凄いドライバーなのかを知らしめた事になったのです。

まさにミハエル・シューマッハの黄金期であるといえる出来事でした。

2003年

Cemetery Peace Angel - Free photo on Pixabay (351416)

このシーズンでは今も活躍中(当時マクラーレン所属で現在はアルファロメオ所属)のキミ・ライコネンなどが頭角を現しミハエル・シューマッハに迫る勢いだったこともありかなりの苦境を強いられました。

またシーズン中に母を亡くしたこともありましたが結果としてはF1史上初の通算1000ポイントを獲得しまた4年連続で合計6度目のチャンピオンになりました。

悲しみや苦境にも負けずにレースに挑み尚且つ成績を残すミハエル・シューマッハはもはや最強であるといえます。

2004年

Boys Children Reading - Free photo on Pixabay (351559)

2004年は前シーズンに比べると黄金期にふさわしいシーズンとなりました。開幕戦から一気に5戦で優勝を果たし、6戦目のモナコGPでは苦しくもクラッシュの為リタイアをしてしまいます。

しかしその後は大きなトラブルも無く再び7連勝し圧倒的な強さを再び見せつけます。結果、18戦のうち13勝を果たしシーズン最多勝を記録し15回もの表彰台にのりまたもや5年連続チャンピオンを獲得しました。

またこのシーズンの鈴鹿GPでは兄弟1・2フィニッシュをしました。

2005年

Car Racing Barcelona Formula 1 - Free photo on Pixabay (353819)

2005年のシーズンは苦戦の嵐だったといえます。

新しいレギュレーションのマシンとタイヤの機能でかなり苦しい思いをした上に21世紀になってからは負け知らずだったミハエル・シューマッハはフェルナンド・アロンソにチャンピオンの座を奪われる結果になりました。

優勝を飾るどころか表彰台にのることも叶いませんでした。またハンガリーGPではポールポジションを獲得したもののキミ・ライコネンに逆転を許してしまいました。

2006年

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