2019年8月26日 更新

FFを手がけた伝説のプログラマ!ナーシャジベリの現在と残した伝説!

FFと言えば、ギネスにも認定された世界的に有名なゲームですが、FFシリーズの作品を手がけたプログラマーにナーシャジベリという人がいました。彼は天才と言われ、数々の伝説を残したことでも有名です。今回は、ナーシャジベリの現在と語り継がれる伝説についてご紹介します!

ナーシャジベリとは?

Laptop Computer Internet - Free photo on Pixabay (578413)

数々の伝説を残した天才的なプログラマと言われる、ナーシャジベリ氏をご存知でしょうか?ゲーム業界では有名な存在ですが、今回初めて名前を聞いた方も少なくないでしょう。

ですが、一方でナーシャジべリ氏のファンも多く、Apple社でスティーブ・ジョブズのパートナーだったスティーブ・ウォズニアックという人物は、1981年2月に飛行機事故の墜落にあい、記憶を一時喪失していたところ、ナーシャ氏のゲームをプレイして記憶が戻り、彼に直接お礼を言いに行ったなんていう逸話もあるようです。

そこで、今回はナーシャジベリ氏が一体どんな人物なのか?そのプロフィールやナーシャ氏の現在、手がけてきた作品や、ナーシャ氏が残した逸話まで一挙にご紹介します。日本のゲーム業界を発展させた一人として、今なおその功績が語り継がれるナーシャジベリ氏について、まずはそのプロフィールから見て行きましょう。

ナーシャジベリは天才的なプログラマ

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ナーシャジベリ氏は並みのプログラマではなかったと言われています。なぜなら彼は、ソフトウェア単体のプログラミングだけではなく、ハードウェアのプログラミングとの関連性を利用した、普通では考えつかないようなコードを書くことで、原案者から出る様々な要望や発想をゲームに落とし込むことが出来たのだそうです。

そんなナーシャ氏の類まれなる発想や、何より作品に対する熱意は一体どこからやってくるのでしょう?どうやら、ナーシャジベリ氏のプログラミングへの飽くなき挑戦心や開発への情熱は、彼が持つハングリー精神がもとになっているようで、それは後述する彼の仕事のパートナーであった坂口博信氏も語っていることです。

ナーシャ氏がハングリー精神を持つに至った経緯について、まずは彼がどんな人生を歩んできたのかご紹介します。

元々はイランの王族である

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ナーシャジベリ氏は1957年にイランで生まれましたので、年齢はおそらく61歳か62歳(2019年8月現在)です。元々はイランの王族の家系に生まれ何不自由ない生活を送っていたようですが、1978年1月イランのパフラヴィー王朝において始まったイラン革命により、自身の国が荒れる中で一人アメリカに渡ることを決意しています。

もともと裕福な家庭に育ったため、幼いころから高度な教育を受けており、ゲームやコンピューターといった分野に高い関心を持っていたナーシャジべリ氏は、渡米後コンピューター科学を熱心に学び、子供の頃から志していたプログラマになる夢を見事に果たしています。

これはあくまでも推測ですが、おそらく彼は故郷にはもう二度と戻らないという思いで、国を後にしたのではないでしょうか。そんな決心が、ナーシャ氏の中でハングリー精神を育てて行ったのではないかと想像されます。

会社を設立するも倒産

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ナーシャジベリ氏は、二度ほどゲーム制作会社を設立しています。一度目は、彼が23歳の時1980年のことでした。友人のジェリー・ジューエル氏と共同で、Apple用のゲーム制作会社「シリウスソフトウェア」を立ち上げたのです。

ナーシャ氏は精力的にゲーム製作に励みに、「ゴーゴン」「スペースエッグス」などのヒット作を、一時は月に一作という超人的なペースで世に送り出していたそうです。しかし、超人的な開発能力を持ちながらも、会社設立からわずか1年後の1981年、ナーシャ氏は「シリウスソフトウェア」を退職しています。

しかし彼はここで終わるような人間ではなく、その後新会社の「ジべり・ソフトウェア」を立ち上げました。二度目の会社の立ち上げ以降は、「ホライズンV」や「ジーニス」といった、現在の3次元シューティングゲームの先駆けとなる個性的なゲームを制作していました。
Fortnite Computer Game - Free photo on Pixabay (578423)

ですがその天才的な発想に時代がまだ追い付いておらず、中々ヒットと作に恵まれないまま、1983年に起こったアタリショックの影響もあり、一度目に立ち上げた「シリウスソフトウェア」共々倒産してしまったのです。

アタリショックとは

Hand Man Figure - Free photo on Pixabay (578427)

アタリショックとは、アメリカ(北米)の家庭用ゲーム機の売り上げが、1982年の時点では32億ドル(日本円で約7520億円)に達していたものの、その三年後の1985年にはわずか1億ドル(日本円で約200億円)にまで減少したことにより、家庭用ゲーム機市場が崩壊したことを指す言葉です。

ゲーム市場の売上不振により、ゲーム機やホビーパソコンを販売していた大手メーカーの何社かは破産に追い込まれ、最大手だったアタリ社も崩壊し、会社は分割されてしまいました。

この1983年から1985年の間に北米で起こったゲーム市場の崩壊を「Video game crash of 1983」と呼び、日本ではアタリショックと言われています。しかし、ゲーム市場の低迷も長くは続かず、80年代後半には徐々に回復していきました。

坂口博信と友人関係になる

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アタリショック後、ナーシャジべリ氏は世界中を目的もなく旅していたそうです。しかしある日のこと、ソフト会社を経営していた友人のダグ・カールストン氏からナーシャ氏にある誘いの声がかかりました。

それは、日本で新たなファミリーコンピューター(ファミコン)の製作にプログラマとして参加してみないか、というものでした。

その誘いに興味をもったナーシャ氏は急遽日本へ向かいました。そして知人の紹介により、任天堂の宮本茂氏と当時のスクウェア(現スクウェア・エニックス)のスタッフだった坂口博信氏と出会います。坂口氏はもともとナーシャジベリ氏のゲームの大ファンだったこともあり、二人は友人関係になりました。

スクウェア・エニックスに在籍していた

Computer Code Coding - Free photo on Pixabay (578430)

坂口氏は友人でもありその才能を見込んでいたナーシャジべリ氏を熱心に説得しました。そしてナーシャ氏は坂口氏の熱意に応える形で「スクウェア」(現スクウェア・エニックス)に入社したのです。

坂口氏は1980年代当時、電機工事会社のソフト部門「スクウェア」のスタッフとしてPCゲームやファミコンソフトを作っていましたが、作ったゲームはどれも業績があがらず、市場からの撤退を考えていた矢先の事「これを最後の作品にしよう」と決心して作ったのが大ヒットRPG「ファイナルファンタジー」でした。

そして、その天才的なプログラミンを見込まれたナーシャジべリ氏は、初期のFFシリーズを支える中心人物の一人に抜擢されたのです。

数々の有名策のプログラミングをした

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ナーシャジべリ氏はスクウェア入社後、当時では珍しかった3D描写のゲーム「飛び出せ大作戦(1987)」や「ハイウェイスター(1987)」などを手がけました。

そして、ナーシャ氏の代表作とも言えるFFシリーズの開発にメインプログラマとして携わっています。ナーシャジべリ氏の天才的なプログラミングは、間違いなく初期のFFシリーズを支えており、その誕生はナーシャ氏の功績によるところが大きいと言えます。

ちなみに、ナーシャ氏がFFシリーズの製作を担当したのは「FFⅢ」までで、本来であればその後の「FFⅣ」も担当する予定でしたが、1993年の「聖剣伝説2」の開発を最後にスクウェアを退職しています。

ナーシャジベリの現在

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