目次
- 世間へ大きな衝撃を与えた永野 一男の死
- 永野 一男の最期
- 1985年6月18日自宅マンション前に報道陣が殺到する
- 被害者の元上司他1名が自宅に侵入
- 全身を銃剣で十数回刺す
- 病院に運ばれるも出血多量で死亡
- 「顔を知られると殺される」が現実となる
- 所持金はわずか711円だった
- 所有物は売却にかけられるもそれほど高くは売れなかった
- 生涯独身を貫いた
- 豊田商事会長刺殺事件として知られる
- 豊田商事事件
- 1980年代に発生した組織的詐欺事件
- 被害総額は2,000億円とも言われている
- 永野 一男が殺害されたことによって多くの謎が解明されないまま
- マスコミや警察へも多くの批判が集まった
- 豊田商事事件の詐欺内容
- 独居老人を狙い親しくなる
- 客に金の購入を持ちかける
- 客が購入した金を会社が預かる
- 金の引換券として「純金ファミリー契約証券」が発行される
- 少額の利子を払い客を信用させた
- 客の手元には金が渡らずただの紙切れのみが残る
- 1985年社会問題化
- 永野 一男を殺害した犯人のその後
- 殺害直後の映像が中継され話題となる
- 報道陣に警察を呼ぶよう指示
- 大阪府警に現行犯逮捕される
- 主犯格飯田篤郎
- 矢野正計
- 幹部による口封じ説なども飛び交う
- 飯田篤郎はマスコミを批判し自らの行動を弁明
- 懲役8~10年の実刑判決が下される
- 現在は2人とも刑期を終え出所している
- 永野 一男を殺害した動機【飯田篤郎】
- 大阪豊中市で鉄工所を営んでいた
- 高齢者や障害者を積極的に雇用
- 多額の借金により倒産
- 豊田商事による直接的な被害はなかった
- 知人に頼まれた
- 高齢者をターゲットにしたやり方が気に入らなかった
- 殺すつもりはなかった
- 出所後妻と一緒に暮らしている
- 永野 一男を殺害した動機【矢野正計】
- 建設作業員
- 飯田に恩があった
- 「自分はやっていない」が口癖
- 出所後結婚し5人の子宝に恵まれた
- 出所後飯田と仲違いし現在は交流がない
- 永野 一男殺害に関してマスコミへ多くの批判が集まった
- 人が殺されているのに見ているだけ
- テレビ中継された暴力表現
- 窓ガラスを壊す際に使用されたのは報道陣のパイプ椅子
- 犯行を止めるよりも「報道が第一」という考え
- 警察を非難し責任逃れ
- 豊田商事事件の謎
- 2000億円の行方
- 会長の貧相な暮らし
- 黒幕の存在
- 殺害動機
- 判決の軽さ
- 警察の不審な行動
- 現在もマスコミへの批判は絶えない
- ネガティブ情報の拡散
- 嘘や噂を本当のように報道する姿勢
- 「マスゴミ」という呼び名の定着
- 権力者や組織への過剰な配慮
- マスコミ批判はそのまま自分たちへ
- マスコミの情報を鵜呑みにしているのは世間
- マスコミの情報を求めているのは世間
- マスコミは自分たちを映し出している
- マスコミも世間も目の前で人が危険にさらされていても写真を撮る
マスコミといってもそれぞれが一般企業です。つまり、経済活動のためにはお金が必要で、そのためにはより多くの客を得なければなりません。より多くの客を得るために、マスコミは嘘でも刺激的な情報を流し、より叩きやすいものを叩く風潮を作り上げているのです。
私たちが、そのような情報を望んでいるということなのです。人の幸せではなく、人の不幸に喜んで飛びつく人間の心理が、マスコミの行動を決定づけてしまっているのです。
私たちが、そのような情報を望んでいるということなのです。人の幸せではなく、人の不幸に喜んで飛びつく人間の心理が、マスコミの行動を決定づけてしまっているのです。
マスコミは自分たちを映し出している
via pixabay.com
マスコミがひどいことをしているなと感じたら、一度振り返ってみる必要があるかもしれません。自分自身が、誰かが傷つくような情報を求めていないか?より刺激的な情報であれば嘘でも構わないから炎上させたいと思っていないか?と。
多くの人がそれを望んでいるから、マスコミはこのような活動をするのではないか、と考えてみると、実は思い当たるふしが出てくるのではないでしょうか。マスコミは、自分たちの写し鏡であると理解して、今一度私たちは自分の情報に対する姿勢を考え直す時に来ているのかもしれません。
多くの人がそれを望んでいるから、マスコミはこのような活動をするのではないか、と考えてみると、実は思い当たるふしが出てくるのではないでしょうか。マスコミは、自分たちの写し鏡であると理解して、今一度私たちは自分の情報に対する姿勢を考え直す時に来ているのかもしれません。
マスコミも世間も目の前で人が危険にさらされていても写真を撮る
via pixabay.com
現代を生きる我々にとって、写真を撮り、撮られることは日常と切り離せません。誰もが皆小型のカメラを持ち歩いているのと同じなのです。そして撮った写真はあっという間に世界中に拡散されます。
おそろしいことですが、どんな残酷な事故が起きたときも、どんな強い災害が起きたときも、その様子をカメラに収めようとする人は必ずいます。目の前で誰かが傷ついていても、悲しんでいても、写真を撮るのはもはやマスコミの専売特許ではありません。
私たちひとりひとりが、人を傷つけるかもしれない凶器となりうる道具を持ちながら生きているということを自覚しなければならないのではないでしょうか。
おそろしいことですが、どんな残酷な事故が起きたときも、どんな強い災害が起きたときも、その様子をカメラに収めようとする人は必ずいます。目の前で誰かが傷ついていても、悲しんでいても、写真を撮るのはもはやマスコミの専売特許ではありません。
私たちひとりひとりが、人を傷つけるかもしれない凶器となりうる道具を持ちながら生きているということを自覚しなければならないのではないでしょうか。
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