2019年10月23日 更新

永野 一男の最期とは?豊田商事事件の概要と殺害した犯人達のその後も

豊田商事による大規模な詐欺事件が起きたのは1980年代のことです。「金」を使ったペーパー商法で、高齢者を狙った詐欺でした。その豊田商事の会長である永野一男の死は非常に衝撃的で残酷なものでした。豊田商事の詐欺の内容、そして何故永野が死んだのかについて解説します。

目次

世間へ大きな衝撃を与えた永野 一男の死

Death Funeral Coffin - Free photo on Pixabay (708028)

豊田商事の会長である永野一男の死は、あまりにもセンセーショナルに日本中に知られました。それは何と、マスコミの目の前で起きたのです。

1985年(昭和60年)の出来事なので、若い人には「豊田商事」も「永野一男」の名前もまったくピンとこないかもしれません。しかし現代の我々も深く考えるべき様々な問題を含んだ事件ですので、この機会にぜひ知っておいてはいかがでしょうか。

この記事では、豊田商事事件とはどんなものだったのか、会長の死はどうして起きたのか、そして会長永野一男を殺した犯人の目的やその後にまで迫ります。

永野 一男の最期

Staircase Body Corpse - Free photo on Pixabay (708030)

永野一男は、1952年、岐阜県に生まれました。集団就職で日本電装に入社しましたが、2年で退職したそうです。その後転職を繰り返しましたが、スリをはたらいて逮捕されたこともありました。

1981年に「大阪豊田商事」を設立、1年後には「豊田商事」と名を変えました。現物まがい商法で数千億円もの金を集めることに成功し、非常に派手好みでしたが、自分の顔を表に出すのは嫌っていました。本人は「顔を知られると殺される」と言ってマスコミ等も嫌っていたようです。

この男の最期とは、一体どんなものだったのでしょうか。

1985年6月18日自宅マンション前に報道陣が殺到する

Film Tv Video - Free photo on Pixabay (708032)

1985年6月18日、永野一男の自宅マンションの玄関前には多くのマスコミが集まっていました。というのも、この日永野が警察に逮捕されるのではないかという情報が出回っていたのだそうです。つまり、マスコミは永野が逮捕される瞬間をとらえようと集まっていたのです。

永野が会長をつとめる「豊田商事」の行っていた事業は詐欺であると世の中に知られ、この詐欺事件は社会問題になっていました。会長である永野がいつ逮捕されるのか、どのような罪状かは社会全体の関心事となっており、逮捕の瞬間をとらえたいとマスコミが考えたのも納得できます。

このように多くの人がいる中で、事件は起こりました。

被害者の元上司他1名が自宅に侵入

Egg Hen'S Food - Free photo on Pixabay (708035)

永野の自宅マンション前に、2人の男が現れました。2人は、ガードマンに「永野に会わせろ」という要求をしました。記者が「何をしに来たのか」と問うと「被害者から、永野をぶっ殺してくれと頼まれた」と片方の男が答えたそうです。

そして、カメラマンの持っていたパイプ椅子で永野の部屋のドアを叩き出しました。もうひとりの男が窓格子を引っ張って外し、結局窓ガラスを蹴破って自宅に押し入っていきました。この様子は、この時多数集まっていたマスコミが見て、撮影し、放送していました。

警察の中にも、この時のテレビを見ていて呆然とした人もいたということです。

全身を銃剣で十数回刺す

Knife Stabbing Stab - Free photo on Pixabay (708039)

2人の男は永野の自宅に押し入り、持っていた銃剣で永野の体を十数回にわたって刺しました。銃剣とは銃の先端に剣を装着して槍のように戦うことができる武器のことです。通常の短剣よりも持ち手となる部分が長いので、より簡単により深く差し込むことができると考えられます。

当然のことですが、日本では一般的に所持が認められるものではありません。

何度も何度も永野の体を刺したわけですが、その間もマスコミは永野の自宅前にいて、撮影し、放送していました。無論、室内で暴行が行われていたので外にいたマスコミが刺している様子を撮っていた訳ではありませんが、ただ大勢外にいたのに、この凶行はおこなわれてしまったのです。

病院に運ばれるも出血多量で死亡

Doctor Medical Medicine - Free photo on Pixabay (708042)

部屋から出てきた犯人は、そこにいたマスコミに向かって「警察を呼べ、俺が犯人だ」と語り、マンションから出たところで警察に現行犯逮捕されました。大勢のマスコミは止めることもなく撮影・放送し続けていましたが、警察への通報は行っていたということがわかります。

永野はすぐに病院に運ばれましたが、腹部を刺されたことが致命傷となり、出血多量のため死亡しました。事件が起きてから、45分後のことでした。十数箇所も刺されて亡くなったとあっては、いくら巨大詐欺事件の首謀者といえども残酷な死に方です。

犯人は逃げることもなく警察に逮捕されています。明確な動機があったということでしょうか。

「顔を知られると殺される」が現実となる

Portrait People Old - Free photo on Pixabay (708049)

永野一男が「顔を知られると殺される」と発言し、表に出ることを嫌っていたことは先に述べたとおりです。そしてそれが現実になってしまったのがこの事件なのです。

永野本人は、自分の犯してきた罪について十分に自覚していたということでしょう。だからこそ、一旦表に出てしまうと自分の命は狙われかねないとわかっていたので、表に出ることを極端に嫌っていたのだと考えられます。「豊田商事」が詐欺によって得た金額は数千億と言われています。それだけ多くの人を傷つけ、それゆえ多くの人から恨まれているという自覚が明確にあった。そしてその恐れは現実として起きてしまいました。

所持金はわずか711円だった

Wallet Credit Card Cash - Free photo on Pixabay (708194)

刺殺されたとき、永野一男の所持金は711円だったそうです。これはこの事件全体において大きな謎なのですが、大規模な詐欺で大金を手にしていたはずの永野が最後に持っていたお金としては711円というのはあまりに少ないようです。

金を手にしてからは、永野は高級車を買うなど派手な生活を送っていました。それなのに最後の所持金は711円。永野はもしかしたら、自分が殺されることをどこかで察知していたのかもしれません。そして個人的な財産(詐欺で得た金を財産と呼ぶのはためらわれますが)を予め処分していたのだとしたら、理解できます。

しかし、いずれにしてもその証拠はなく、永野が金をどうしたかは謎のままなのです。

所有物は売却にかけられるもそれほど高くは売れなかった

Judgment Judge Hammer - Free photo on Pixabay (708196)

永野が亡くなった後、所有していた高級車などが売却されましたが、あまり高額では売れなかったということです。というのも、永野が所有していた高級車というのはスーパーカータイプの車だったのです。ただでさえ限られた需要の高級品ですが、事件が起きた1985年当時はスーパーカーブームが終わっており、なかなか値段が上がらなかったのだとか。

高級車や、クルーザーなども所有していたとのことですがいずれもあまり高くは売れず、豊田商事の詐欺事業によって集められたお金を賄うのには到底届きませんでした。大量のお金はどこに消えてしまったのでしょうか。

生涯独身を貫いた

Leaf Leaves Single-Sheet - Free photo on Pixabay (708198)

1 / 8

関連する記事 こんな記事も人気です♪