目次
- ノーパンしゃぶしゃぶとは
- 1980年代に流行った
- サービスの内容
- ノーパンしゃぶしゃぶに似た店
- 今もノーパンしゃぶしゃぶはあるの?
- ノーパンしゃぶしゃぶが何故接待の場に
- 女性がいる場での商談がうまく進む
- 高コストだがそれ以上の効果が得られる
- チップを払えばそれ以上のサービスが得られた
- ノーパンしゃぶしゃぶ事件
- 大蔵省接待汚職事件
- 武藤敏郎自体は接待を受けていない
- 部下の不祥事のため更迭処分
- 呪われた82年組
- 関係者のその後
- 武藤敏郎とは
- 高学歴
- 大蔵省(現財務省)に入る
- 大蔵省接待汚職事件により辞職
- 武藤敏郎のその後
- 日本銀行に転じる
- 「最高の候補者」
- 総裁就任は見送りに
- 東京大学先端科学技術研究センター客員教授
- 大和総研の理事長
- 開成中学校・高等学校の学園長兼理事長
- 事務総長に
- 東京オリンピックのエンブレム問題
- 2015年、エンブレムが白紙撤回
- 武藤敏郎の記者会見
- 処分の内容と処分された人たち
- 武藤敏郎とノーパンしゃぶしゃぶ
この事件で、1998年に武藤氏は官房長の職を更迭され、大臣官房総務審議官に降格となりました。武藤氏自身は直接接待は受けていませんが、世論の声や、部下がそのようなお店で接待して汚職事件を起こしたということで管理監督責任を問われる形となりました。
前項の「武藤敏郎自体は接待を受けていない」でもあげましたが、国民から徴収した税金が接待で使われていて、特に汗水流して働いた中で払った税金なので、世論の目は厳しかったです。
そして、ノーパンしゃぶしゃぶで接待と報道されたのに加えて武藤氏の名前も報道されたので、バッシングはさらにひどくなったといっても過言はないでしょう。
そして、ノーパンしゃぶしゃぶで接待と報道されたのに加えて武藤氏の名前も報道されたので、バッシングはさらにひどくなったといっても過言はないでしょう。
呪われた82年組
1982年に大蔵省に入省した職員は、82年組と呼ばれています。この年に入省した82年組は、ノーパンしゃぶしゃぶ事件こと大蔵省接待汚職事件で逮捕されたり処分されたりしました。「関係者のその後」でもあげますが、自殺した人もいたとのことです。
あれから年月が経ち、82年組の一人である福田淳一元財務次官がテレビ局の女性記者にセクハラをしたと週刊誌で報道され、福田元財務次官はこのことを否定しましたが、国民の批判を浴び、辞任しました。
また、森友学園問題でおなじみの元国税庁長官で財務省の元理財局長の佐川宣寿氏も82年組です。森友学園問題で文書の改ざんをしたのが発覚し、減給20%3ヶ月の懲戒処分を受けて、その日のうちに依願退官をしました。それから停職3か月分に相当する処分を受けています。
このことから、大蔵省に入省した82年組は不祥事が多いということで、呪われた82年組と言われています。佐川氏の後任の理財局長だった迫田英典氏や女性活躍担当大臣の片山さつき氏も82年組です。
関係者のその後
この事件で、武藤氏は官房長の職を更迭されましたが、大蔵大臣だった三塚博氏を始め、日銀総裁だった松下康雄氏などが大蔵省の事務次官だった小村武氏と、銀行局局長と、銀行局担当審議官の杉井孝氏と、銀行局保険第一課の課長補佐と、証券局長だった長野庬士氏と、主計局次長の中島義雄氏と他にも多数いましたが、責任をって辞任という結果を迎えました。
そして、逮捕者は大蔵省のOBであった日本道路公団の経理担当理事と、証券局総務課の課長補佐と、証券取引等監視委員会の上席証券取引検査官と、金融検査部の金融証券検査官の室長と、金融検査部管理課の課長補佐と日本銀行の営業局の証券課の課長の6人となりました。
さらに、驚くことに3人の自殺者が出たという悲しい出来事がありました。銀行局の金融取引管理官と、日本銀行の理事と、当時の第一勧業銀行元頭取で元会長でもあった宮崎邦次氏が自殺したと報道されました。
さらに、驚くことに3人の自殺者が出たという悲しい出来事がありました。銀行局の金融取引管理官と、日本銀行の理事と、当時の第一勧業銀行元頭取で元会長でもあった宮崎邦次氏が自殺したと報道されました。
武藤敏郎とは
武藤敏郎氏はどのような人物なのでしょうか。武藤敏郎氏のプロフィールや大蔵省に入省後の大蔵省での経歴などを解説していきましょう。
高学歴
武藤氏は、埼玉県浦和市(現在のさいたま市浦和区)で6人兄弟として生まれ、双恵学園中学校、後ほどあげる開成高等学校を経て、東京大学法学部を卒業しました。卒業の時に司法試験に合格と国家公務員試験に合格し、大蔵省に入省しました。
父親は旧浦和市の市議会議員と収入役を務め、兄も上福岡市の元市長という、政治家一家に生まれたということになります。
父親は旧浦和市の市議会議員と収入役を務め、兄も上福岡市の元市長という、政治家一家に生まれたということになります。
武藤氏は元々弁護士になりたいと思っていましたので、大蔵省に入省が決まった時は、仕事をするうえで自分の正論が通らなかった場合はいつでもやめるという気持ちでいたとのことです。
大蔵省(現財務省)に入る
東京大学を卒業した後、大蔵省に入省しますが、入省後は主に主計局でキャリアを積んでいました。最初は大臣官房文書課に配属され、その後は関税局企画課の係長や滋賀県の彦根市にある彦根税務署長や、アメリカにある日本大使館の書記官などを経て、主計局に異動となりました。
それからいくつかの部署で次長や局長や次官や首席などを経て、1997年に官房長に就任しました。そして、出向で石川県の県庁で商工労働部長と総務部長を歴任しています。
それからいくつかの部署で次長や局長や次官や首席などを経て、1997年に官房長に就任しました。そして、出向で石川県の県庁で商工労働部長と総務部長を歴任しています。
大蔵省接待汚職事件により辞職
しかし、先ほどのノーパンしゃぶしゃぶ事件こと大蔵省接待汚職事件で、武藤氏は官房長の職を更迭されました。武藤氏はその接待には参加していないのにかかわらず、部下がそのようなお店で事件を起こしたということで監督責任を問われたわけです。
先ほどあげたように大臣官房総務審議官に降格となりましたが、その後は日本銀行の副総裁に就任するまで、2003年まで現在の財務省を含めて、主計局長や事務次官や顧問で活躍しました。
先ほどあげたように大臣官房総務審議官に降格となりましたが、その後は日本銀行の副総裁に就任するまで、2003年まで現在の財務省を含めて、主計局長や事務次官や顧問で活躍しました。
武藤敏郎のその後
この事件で武藤氏は官房長の職は更迭されましたが、2003年に退職するまでは財務省に在籍していました。退職後はどのような活躍をしたのか、武藤氏のその後を解説していきましょう。
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