2019年7月20日 更新

通州事件とは?発生の原因や海外の反応・事件内容の嘘と真実も

通州事件の嗜虐的な犯行の原因と、その裏に隠された陰謀に迫ります。猟奇的な犯行の被害者は日本人でした。南京事件の証拠と言われている写真には、通州事件のものも多く使われているのです。日本を辱めようとする嘘を見破り、生存者の証言から通州事件の真実に触れていきます。

目次

兵隊は切り裂いた腹に手を突っ込みましたが、赤ちゃんを掴むことができなかったようです。すると今度は陰部の方から切り裂きました。

ようやく赤ちゃんを取り出した兵隊はとニヤニヤと笑いながら、赤ちゃんを保安隊と学生の方に放り投げたのです。そして、保安隊と学生たちは赤ちゃんを踏み潰しました。

手の指が切断された

手 テーブル クロス 犯罪 - Pixabayの無料写真 (479154)

第2連隊歩兵隊長代理の桂鎮雄は、「カフェの裏で親子の遺体を見たが、子どもの手の指は揃えて切断されていた」と証言しています。

年端も行かぬ子どもにまで、鬼畜の行為をしていたのです。子どもは息を引き取るまでの間に、これまで経験をしたことのない恐怖と苦痛を受けました。

この時通州では腹を割く、肉体の一部をえぐり取る、体を切り刻むなどの残虐な行為が繰り返されていました。老若男女を問わず、日本人なら子どもまでもが犠牲者となったのです。

内臓が散乱するまで刺された

Zombie Murder Manslaughter - Free photo on Pixabay (479147)

第2連隊歩兵隊長代理の桂鎮雄は、「南城門にある商店の男性遺体は、胸腹の骨が露出しており内臓も散乱していた」と言っています。

近水楼でも男性の遺体の上半身が蜂の巣のように突き刺されていたと証言しており、中国人が執拗に残虐な行為を繰り返していたことが分かります。

通州事件の痛ましい現場写真が残されています。しかし、通州事件の犯行現場を記録した痛ましい犠牲者の姿が、中国と日本国内の左翼勢力によって、日本人による中国での犯罪行為の証拠として広められているのです。

鼻に針金を通された子供

Baby Child Lactation - Free photo on Pixabay (479233)

那駐屯歩兵第2連隊小隊長の桜井文雄は、守備隊の東門で数メートル間隔に横たわる日本人の遺体を見ています。どれも無残に惨殺されており、その鬼畜の所業は見るに耐え難いものでした。

犠牲者の中には、何の罪もない子どもの姿もあったのです。この時桜井が見た子どもの遺体の鼻には、針金が通されていました。

保安隊や国民政府軍の兵士、中国人の学生たちは、子どもが恐怖と苦痛で泣き叫ぶさまを見ながら犯行に及んでいるのです。

片腕を切られた老婆

Person People Old - Free photo on Pixabay (486856)

よろけながら逃げる老婆を、中国人の学生が青龍刀で切りつけました。しかし、よろけながらも必死に逃げようとする老婆の頭を切りつけられずにいました。

学生は老婆を殺害しようと執拗に青龍刀を振り回し、とうとう老婆の左腕を肩付近から切り落としたのです。学生は倒れ込んだ老婆の胸と腹を一回ずつ突いて去りました。

学生にも祖父母はいるでしょうに、心を持たぬ悪魔のように老婆の命を奪ったのです。老婆は「悔しい、敵を伐って欲しい」「いちぞう」と言うと、最後に「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて息を引き取りました。

犠牲者が投げ込まれた池はの血によって赤く染まった

Man Back Lake - Free photo on Pixabay (486871)

近水楼の近くにある池では、40人から50人の日本人が集められていました。そこへ手に穴を開けられて、針金で数珠つなぎにされた10人ほどの日本人が連れて来られたのです。

ひとりの男性の首を青龍刀で切り落とすと、転がり落ちた頭をボールのように池に蹴り入れました。二人目の男性を虐殺し終わると、保安隊や国民政府軍の兵隊、そして学生たちが一気に残りの日本人を襲撃し始めたのです。

殺害された40人から50人の日本人は全て池に投げ込まれ、おびただしい血で池の水は赤く染まりました。

通州事件のその後

Architecture Palace Gothic - Free photo on Pixabay (497598)

通州事件の報道は、日本国内の世論に大きな影響を与えました。聞くだけで気を失いそうになるほどの惨劇に、日本人は激しい怒りを覚えたのです。日本軍も黙って引き下がるわけにはいきません。

また、身の危険を感じた在日中国人は帰国しました。通州事件のその後を見てみましょう。

1937年7月30日日本軍奈良部隊が冀東政府保安隊約300人を攻撃

Cologne Bombing Destruction - Free photo on Pixabay (486874)

反乱者たちは、1937年7月30日に、日本軍が通州に向かったという報せを受けました。また、日本軍の偵察機が低空飛行を繰り返したことで、保安隊や国民政府軍の兵士、そして中国人の学生は逃走します。

日本軍が通州の城門をくぐった時、すでに保安隊たちの姿はありませんでした。しかし、7月30日午前10時40分頃、北京の西北で逃走中の保安隊約300名を捉えることができたのです。

日本軍はただちに保安隊約300名に対して攻撃を開始しました。さらに8月2日午前10時頃、通州から8kmほど東の燕郊鎮に逃亡していた保安隊たち200名に対し、日本軍の飛行隊は空爆を開始しました。

主犯とされる張慶餘は中将まで昇格した

Dragon Red Sculpture - Free photo on Pixabay (486879)

張慶餘は通州事件を引き起こした後、日本軍に捕まることを恐れて南京に逃亡しました。そこで軍政部第6補充訓練処長を任されています。その後、第91軍副軍長や国民党軍事委員会中将参議などを歴任し、1946年に引退しました。

残虐な張慶餘も国民党政府にしたら英雄です。その功績を認められて中将にまで登りつめたのです。張慶餘は引退後に天津で寓居しましたが、1963年9月18日に死去しています。享年69歳でした。

暴虐支那を懲らしめろという世論が巻き起こる

News Daily Newspaper Press - Free photo on Pixabay (486886)

通州事件は当時の日本でも報道され、その残虐性が日本国民の知るところとなりました。妊婦を含む婦女子や幼い子どもにまで及んだ惨劇に、日本国民は激昂しました。

日本国内では、暴戻(ぼうれい)支那を膺懲(ようちょう)するという意味の、暴支膺懲が巻き起こったのです。激しい反中感情による世論の後押しもあり、日中全面戦争へ突入させる引き金ともなりました。

中国に対する日本国民の激昂は、在日中国人にも影響を与えます。

在日中国人などは報復を恐れ帰国

Sea Ocean Boat - Free photo on Pixabay (486889)

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