2019年9月26日 更新

池田容之とは?横浜バラバラ強盗殺人事件の概要や犯人の現在についても

残虐極まりない犯行で日本中を震撼させた横浜バラバラ強盗殺人事件。死刑判決が下された池田容之は現在どのような心境で刑の執行を待っているのでしょうか?その生い立ちや高校時代、その後の転落を紹介するとともに、黒幕と噂される工藤明生なる人物についても迫っていきます。

目次

これだけ残忍な手口で2人の人間を殺害した池田容之という男は、いったいなぜここまで凶悪な人間になってしまったのでしょうか?

裁判の際に、男性裁判員が「生まれてから今までのどこで道を外れたのか、その理由も分かれば」と問いかけたように、この事件を知るうえで、池田が生まれてからどのような人生を歩み、どのように堕ちていったのかを知ることは大変重要なことでしょう。

ここではそのような池田の生い立ち、学生時代やこの事件の首謀者である近藤剛郎との出会いなどについて書いていきます。

池田容之の出生

Family People Child - Free photo on Pixabay (663569)

池田容之は1978年、兵庫県で生まれました。父親は甲子園に出場経験もある元高校球児で銀行員というエリート街道を走ってきたような人物でした。そのため、比較的裕福で経済的には恵まれた環境で育ったといいます。その後、親の転勤に伴い、5歳の時に横浜市に引っ越しました。

池田の幼少期を知る人は明るい子だったと言い、この段階では、貧困で辛い思いをして育っていたり、親から虐待を受けて育ったなどの、後に池田が道を踏み外していく原因になるような要素はなかったようです。

中学~高校時代

Knowledge Book Library - Free photo on Pixabay (663584)

池田が後に麻薬密輸グループのリーダーにまでなり、このような凶悪事件を起こすことからも、学生時代は手の付けられないほどの不良だったのかと思いきや、むしろ反対に優等生だったようで、中学3年生の時には生徒会長まで務めていました。

中学卒業後は横浜市内の私立高校に進学し、ここでも特に問題を起こすようなこともなく無事卒業しています。裁判で読み上げられた池田の母親の調書によると、学生時代の池田は陽気な性格だったということで、ここでもやはり後の凶悪殺人鬼の面影は感じられません。

裁判時に裁判員から「時間を巻き戻せるとしたら、どこに戻りたいか」と質問され、「できることなら学生時代に戻ってもっと本を読んでいればと思う」と答えていることから、池田自身にとっても学生時代は充実していた時期だったということでしょう。

職を転々としていた

Tie Necktie Adjust - Free photo on Pixabay (663585)

それまでは順風満帆かと思えた池田の人生ですが、高校卒業後は車両工場や造船所、ホストなどの仕事を転々とするようになります。工場などで働いていた際には鉄パイプ切断の作業で電動ノコギリを使っていたとのことで、そのことから犯行に電動ノコギリを使うことを思いついた可能性もあります。

それまでの人生がうまくいっていただけに、高校卒業後にうまくいかない自分とのギャップが大きく、池田は挫折を味わいます。また、仕事が長続きせず、収入が増えないことで、エリートで銀行員だった父親と自分を比較してコンプレックスを抱くようになっていったのかもしれません。

22歳で結婚するが離婚

Couple Groom Bride - Free photo on Pixabay (663575)

池田は22歳の時に結婚をしていて、娘も生まれました。数年後に離婚してしまうのですが、その後も決して多くはない自分の収入から毎月の養育費として10万円を捻出して送っているなど、家族想いとも思える一面も見せています。

それだけに、なぜ人の親でありながらこのような凶行に及んでしまったのかが不思議で仕方がありません。自分の娘を殺人鬼の娘にしてはならないなどと考えて、犯行を思いとどまることはできなかったのでしょうか?

公判で裁判員から「あなたの家族も社会からはじき出されることになることは分かっていますか?」と質問された際には、「それは理解しています」と答えています。結局、池田の中にあるのは己の欲望のみだったということでしょうか。

暴力団に所属

Fist Blow Power - Free photo on Pixabay (662884)

結婚して子供が生まれても仕事は長続きせずにやがて離婚。その後も職を転々としていた池田は2004年頃に指定暴力団稲川会系組織の組員となり、ここから明確な転落の道を歩むようになります。その後は山口組系の組織に移り、約2年間を暴力団組員として過ごしていました。

この頃には実家との連絡も絶っており、池田の母親はそれでもどこかで生きていると信じて「腐るなよ、いつか道は開ける」とメールを送り続けたと言います。しかし、開けるかもしれなかったその道を、結局池田は自分自身で永久に閉ざしてしまうこととなりました。

近藤剛郎との出会い

Smoking Young People Youth Be - Free photo on Pixabay (662939)

その後、池田は都内の岩盤浴店店長として働いていましたが、休みなく働いても収入は23万円程度。そこから月10万円の養育費を払ってしまうと自身の生活はかなり厳しいものとなり、どうにかしてもっと金を稼ぐ方法はないかと考えていました。

そんな折、池田は友人の紹介で近藤剛郎と知り合います。出会ってから間もない年下の近藤に池田は何かを感じたのか、崇拝にも似た感情を持つようになり、やがて近藤の手引きで麻薬密輸の仕事に手を染めていくこととなりました。

31歳で横浜バラバラ強盗殺人事件を起こす

Killer Horror Jimmy - Free photo on Pixabay (662882)

麻薬密輸グループのリーダー格となった池田は、まさに近藤の右腕でした。やがて、近藤がかつて経営していた歌舞伎町の麻雀店の経営権を巡って被害者らとトラブルになると、池田に2人を殺害する人物を探すよう依頼します。

すでにこの頃には人の道に外れていた池田は、この依頼を自分にとってのし上がるチャンスだと考え、二つ返事で引き受けます。こうして、当時31歳だった池田は悪魔に魂を売り渡し、横浜バラバラ殺人事件という凶行に及ぶこととなりました。

池田容之の異常性

Skulls Bones - Free image on Pixabay (663069)

これほどまでにこの事件が世間からも注目され、裁判馴れしていないであろう裁判員の人たちを以てしても死刑を求刑させるほどとなった最大の理由は、やはり池田という男に他の殺人犯とはまた違った異常性を感じ、社会的影響の大きさを危惧したからでしょう。

これまでも池田の残忍な犯行の手口について述べてきましたが、ここではさらに犯行時の池田の様子などを中心に、その異常性について深く掘り下げて書いていきたいと思います。

生きている人間の首を平然と切断

Crosscut Saw Blade Teeth Of - Free photo on Pixabay (662906)

池田は被害者Bを生きたまま首を電動ノコギリで切断するというおぞましい方法で殺害しています。それについて池田は「チェックアウトが迫っていて、バラバラにするには時間がないと思い、首を切って殺そうと思った」と語っています。

さらに池田は、「切っている最中はとにかく切ることに夢中で、切り口や血を見ても気持ち悪いとは感じなかった。首の前半分がぱっくり割れて、頭部と胴体の切断面に気管が見え、胴体の方からはまだ呼吸音が聞こえた。その様子を見て『気管が切れても呼吸するのか。それなら後ろから切った方が楽だったかな、悪いことしたな』と思った」と、淡々と首を切断した様子について語っています。

命乞いを嘲笑い無視

Halloween Horror Scary - Free photo on Pixabay (663082)

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