目次
- 沖縄の秘祭「アカマタクロマタ」
- アカマタクロマタとは豊年祭
- 西表島古見のアカマタクロマタ
- 石垣島宮良のアカマタクロマタ
- アカマタクロマタの外見
- アカマタクロマタが行われる場所
- 沖縄県八重山諸島「新城島」
- アクセス方法
- 新城島に行くには予約が必要
- アカマタクロマタの開催日は公表されていない
- 新城島について
- 歴史
- 人口
- 上地島
- 下地島
- 観光客数
- アカマタクロマタの流れ
- 自治会長の挨拶
- 太鼓の音と共にアカマタクロマタが登場
- アカマタクロマタは踊り島民が歌う
- アカマタクロマタに関するタブー
- 島民以外の参加は禁止
- 写真・動画・録音撮影禁止
- 写生禁止
- 祭りの内容の口外は禁止
- 新城島には撮影録音禁止の看板が立てられている
- タブーを守らないとどうなるのか
- 不幸なことが降りかかる
- 命の危険
- 島民からの批判
- 豊年祭と関わりがある「人魚神社」
- 人魚神社とは
- ジュゴンを祀っている
- 立ち入り禁止である
- アカマタクロマタで発生した事件
- 1968年に部外者を島民が集団暴行
- 大昔には行方不明者も出ていた?
- 日本の奇祭は他にもある
- ケベス祭
- パーントゥ
- お祭りに纏わる怖い話
- 村の年寄りに聞いた話
- 山の『おまつり』
- どうして日本人は祭りが好きなのか
- 昔からの言い伝えを信じている
- 大勢で騒ぐきっかけ
- 日本だけではなく海外にも様々な奇祭が存在する
アカマタクロマタの開催日は公表されていない
via pixabay.com
上地島の『豊年祭』アカマタクロマタは毎年 旧暦6月に行われるという以外に何も知らされません。集落の参加者たちにも知らされないという厳重ぶりで、200年以上続いてきているそうです。
18世紀、琉球王朝から「異様な格好で神の真似をするなどけしからん」という政策により、村人の祭事は役人の厳しい監視付きで禁止されましたが、素朴な農民たちは夜間役人の目を逃れ、神の恵みを信じ、来夏世の豊穣を祈願して生産に励み、各集落では禁令を破ってでも祭礼を続けてきたのだそう。
禁令を破って祭礼を続けたことや、他の地域と全く違う神ことで偏見や差別もあったことなどから、集落以外には門外不出で開催日も知らされない祭りになったようです。
18世紀、琉球王朝から「異様な格好で神の真似をするなどけしからん」という政策により、村人の祭事は役人の厳しい監視付きで禁止されましたが、素朴な農民たちは夜間役人の目を逃れ、神の恵みを信じ、来夏世の豊穣を祈願して生産に励み、各集落では禁令を破ってでも祭礼を続けてきたのだそう。
禁令を破って祭礼を続けたことや、他の地域と全く違う神ことで偏見や差別もあったことなどから、集落以外には門外不出で開催日も知らされない祭りになったようです。
新城島について
via pixabay.com
新城島は、絶滅危惧種「イリオモテヤマネコ」で有名な、日本のいちばん西にある『西表島』の南東側のお隣りにあり、沖縄の先島諸島の八重山列島に所属しています。多くの日本人にとって未体験の秘島『新城島』には、立入禁止な神社の聖域や、数々の不思議な観光名所があります
新城島の東隣には『黒島』があり、目と鼻の先には『石垣島』もあります。
新城島とは、北東側の細長い島『上地島』と、南西側の丸い島『下地島』の、2つの島を合わせた呼び名です。
新城島の東隣には『黒島』があり、目と鼻の先には『石垣島』もあります。
新城島とは、北東側の細長い島『上地島』と、南西側の丸い島『下地島』の、2つの島を合わせた呼び名です。
歴史
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1477年、朝鮮『済州島』から漂流民3人が与那国島の島民に救助され、波照間島で保護され、勃乃伊島に護送されたそうなのですが、これが『新城島』だと見られています。漂流民は「波照間島から一昼夜で着いた平坦な島は、40戸ほど民家があり、2日ほどで一周できた」と説明しています。
他にも「米は西表島で入手していましたが、キビ・アワ・麦などが栽培され、男女ともに青い玉の腕輪や足輪を身に着けていた」とも話しました。水田がないため、島民は船で西表島の南風見村に通い耕作を行うようになったそうです。
1429~1879年の450年間、琉球諸島を中心に存在した『琉球王国』の2島・6間切(=市町村)の中では『黒島』に属し、1628年、3間切に再編された後に『石垣間切』に属しました。
他にも「米は西表島で入手していましたが、キビ・アワ・麦などが栽培され、男女ともに青い玉の腕輪や足輪を身に着けていた」とも話しました。水田がないため、島民は船で西表島の南風見村に通い耕作を行うようになったそうです。
1429~1879年の450年間、琉球諸島を中心に存在した『琉球王国』の2島・6間切(=市町村)の中では『黒島』に属し、1628年、3間切に再編された後に『石垣間切』に属しました。
人口
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下地島では、1953年、大原中学校下地分校が、1954年、大原小学校下地分校が廃校になり、1955年頃から西表島や石垣島へ島民が流れ、1962年、最後の住民が上地島に移転し廃村しました。
上地島では、1963年、上地中学校が大原中学校に統合され、一家で島を離れる島民が増えました。1975年、ようやく西表島からの海底送水が実現しましたが、過疎化のため上地小学校は廃校になりました。1988年、海底送電が開始され、1日15時間のみの給電が24時間給電になりました。
住民登録上、住所を新城島に置きながら、石垣島や西表島にも家を持ち、新城島に行き来している人が多く、新城島出身者の郷友会は石垣島等にあるため、新城島民は祭の時期に戻ってくるそうですが、2016年の島の人口は15人です。
上地島では、1963年、上地中学校が大原中学校に統合され、一家で島を離れる島民が増えました。1975年、ようやく西表島からの海底送水が実現しましたが、過疎化のため上地小学校は廃校になりました。1988年、海底送電が開始され、1日15時間のみの給電が24時間給電になりました。
住民登録上、住所を新城島に置きながら、石垣島や西表島にも家を持ち、新城島に行き来している人が多く、新城島出身者の郷友会は石垣島等にあるため、新城島民は祭の時期に戻ってくるそうですが、2016年の島の人口は15人です。
上地島
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上地島は、大部分は森で覆われている長さが約2.5km、幅が約0.7kmの島が、東北から南西に細長く延び、西海岸中部に集落があり、2001年時点で26戸の家屋が残っていましたが、人口は常時10人未満です。
集落の東側には『イショーウガン(磯御嶽)』とも呼ばれる『アールウガン(東御嶽)』あり、かつて琉球王府から人頭税としてジュゴンの干し肉の上納を義務付けられていた新城島は、この御嶽にジュゴンの頭骨を奉納して豊漁を祈願していました。
集落の西側には『イルウガン(西御嶽)』があり、集落の北側には『ナハウガン(美御嶽)』があり、集落から離れた東側には『パンガナシヰウガン(シヰサブエーヌ御嶽)』があります。
集落の東側には『イショーウガン(磯御嶽)』とも呼ばれる『アールウガン(東御嶽)』あり、かつて琉球王府から人頭税としてジュゴンの干し肉の上納を義務付けられていた新城島は、この御嶽にジュゴンの頭骨を奉納して豊漁を祈願していました。
集落の西側には『イルウガン(西御嶽)』があり、集落の北側には『ナハウガン(美御嶽)』があり、集落から離れた東側には『パンガナシヰウガン(シヰサブエーヌ御嶽)』があります。
下地島
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下地島は、集落が現存していない、南北方向約1.3km、東西方向約1.5kmの半円形の島です。かつては北部に集落がありましたが、現在では外周部の森と海岸以外は肉用牛の牧場となっており、牧畜業が営まれており、牧場の管理人のみ滞在しています。
下地島には8つの御嶽があることから『八御嶽(ヤーヤマ)』と呼ばれました。1964年、神仏にかけた願がかなった後に、礼参りをして、願がけを解く『解願(がんほどき)(パジニガイ)』が行われ、すべての祭祀が停止し、1984年以降、各御嶽に記念碑が建立されています。
下地島には8つの御嶽があることから『八御嶽(ヤーヤマ)』と呼ばれました。1964年、神仏にかけた願がかなった後に、礼参りをして、願がけを解く『解願(がんほどき)(パジニガイ)』が行われ、すべての祭祀が停止し、1984年以降、各御嶽に記念碑が建立されています。
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島の東北海岸に『アーリウワン(東御嶽)』が、島の南西海岸に『イリウワン(西御嶽)』が、東御嶽と同じ敷地に『パンゾウワン(繁盛御嶽島)』が、北海岸付近に『イショーワン(磯御嶽)』とも呼ばれる、7つ入口がある『ナナゾウワン(七門御嶽)』があり、100頭余のジュゴンの頭骨が奉納されています。
他にも、アカムタ御嶽とも呼ばれる『ナハヤマワン(中山御嶽)』や、水の神を祀る『マラパイヤワン(マラパイヤ御嶽)』があり、 島の中心部には『ナハスコワン(中城御嶽)』『カンヤドゥルワン(神宿る御嶽)』があります。
観光客数
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新城島には『新城島観光』や『パナリ島観光』等が、自社や『安栄観光』の船を利用し、石垣島等からのツアーを催行しており、西表島からはシーカヤックでのツアー等も行われています。2008年までの年間観光者数は1千人台でしたが、2009年以降は2千人超え、2013年以降は3千人前後にもなりました。
1972年、ヤマハリゾートが「小浜島を拠点に、上地島~西表島(仲間川河口のヤッサ島)を結ぶ」という開発計画を公表し、農地法により土地の転用ができなかったヤッサ島は開発が断念され、小浜島・上地島で開発が行われました。
小浜島では、三井不動産が所有するリゾート施設『はいむるぶし』が、上地島では『竹富町立上地島小学校跡地」と私有地を買収し『はいむるぶし』の別館が建設されていましたが、新城島公民館に『はいぶるむし』が無償譲渡され、解体され、2014年、公民館施設を兼ねた防災施設になりました。
1972年、ヤマハリゾートが「小浜島を拠点に、上地島~西表島(仲間川河口のヤッサ島)を結ぶ」という開発計画を公表し、農地法により土地の転用ができなかったヤッサ島は開発が断念され、小浜島・上地島で開発が行われました。
小浜島では、三井不動産が所有するリゾート施設『はいむるぶし』が、上地島では『竹富町立上地島小学校跡地」と私有地を買収し『はいむるぶし』の別館が建設されていましたが、新城島公民館に『はいぶるむし』が無償譲渡され、解体され、2014年、公民館施設を兼ねた防災施設になりました。
アカマタクロマタの流れ
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アカマタクロマタには、順序というか『流れ』があります。島民が、琉球王朝の命令に命がけで背いてまでも200年以上も密かに開催し続けていた豊年祭は、島民にさえ輪郭はふんわりとしか知らされませんが、しっかりとした流れが決められているのです。
一つ一つがきちんと決められた順序で行われてこそ、アカマタ・クロマタは豊年祭として成功できるようです。沖縄には「沖縄タイム」と言うルーズな時間の流れがありますが、アカマタ・クロマタに関しては、その時期になると島民がピリピリしだすほど、独特なムードが流れるようです。
一つ一つがきちんと決められた順序で行われてこそ、アカマタ・クロマタは豊年祭として成功できるようです。沖縄には「沖縄タイム」と言うルーズな時間の流れがありますが、アカマタ・クロマタに関しては、その時期になると島民がピリピリしだすほど、独特なムードが流れるようです。
自治会長の挨拶
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広場の中にも、あちこちに撮影禁止の看板が掲げられていた。受付にいた自治会長にそれとなく「撮影禁止の理由は?」と聞くと、厳しい目つきで「公開されてないから!」と一喝された。
19時過ぎに、自治会長のあいさつで豊年祭が始まり「宮良ではサトウキビを主とし畜産などをおこなっている」と集落が農業主体であると示し「今年の収穫を祝い、来年の豊穣を期してニーロー神(アカマタ・クロマタのこと)を呼びます」「神ごとでありますことから、一切の撮影を禁止します」と宣言します。
石垣市長、地元のJA会長、精糖会社の社長の演説が続き、集落のみの秘祭だったことから『治外法権』と言われるほどの厳重な交通規制が引かれ、30分ほど経ったころには日は落ち黄昏時に変わります。
19時過ぎに、自治会長のあいさつで豊年祭が始まり「宮良ではサトウキビを主とし畜産などをおこなっている」と集落が農業主体であると示し「今年の収穫を祝い、来年の豊穣を期してニーロー神(アカマタ・クロマタのこと)を呼びます」「神ごとでありますことから、一切の撮影を禁止します」と宣言します。
石垣市長、地元のJA会長、精糖会社の社長の演説が続き、集落のみの秘祭だったことから『治外法権』と言われるほどの厳重な交通規制が引かれ、30分ほど経ったころには日は落ち黄昏時に変わります。
太鼓の音と共にアカマタクロマタが登場
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