2019年8月31日 更新

不老不死サンジェルマン伯爵の謎!18世紀から現在まで続く目撃情報

サンジェルマン伯爵は、不老不死で有名な人物ですが、現在の日本でも漫画家の荒木飛呂彦さんがサンジェルマン伯爵なのではないか?と噂されていています。サンジェルマン伯爵の不老不死の真相について、色々と探って行きたいと思います。                    

目次

サンジェルマン伯爵に関しての様々な人達の証言があるが、作曲家のジャン=フィリップ・ラモーの証言で彼は、1710年に初めてサンジェルマン伯爵に会うが「サンジェルマン伯爵はとても不思議な人物だ。

彼に何度か会った事はあるが、いつ見ても初めて会った時のサンジェルマン伯爵のように見える。見た目は40歳~50歳位に見えるが、それよりも若い可能性もある。彼の会話はとても面白くて、彼といると時間を忘れてしまうほど楽しい。」と証言している。

セルジ伯爵夫人

Palace Versailles France - Free photo on Pixabay (539637)

フランスの貴婦人セルジ伯爵夫人は1710年に、作曲家ラモーとベネチアで確かにサンジェルマン伯爵に初めて会ったと証言していました。

「その時のあの方は、45歳から50歳の間位に見えました。サンジェルマン伯爵に違いありません。」と証言していて、それから40年ほどした後に、夫人はサンジェルマン伯爵に再開し、その時

も同様に「40年前にベネチアでお会いしてから全く容姿が変わりませんね。」と夫人はサンジェルマン伯爵に尋ねると「一見変わらないように見えますが、実は非常に年を取っているのですよ。」と答えたそうです。

ルイ15世

Chapel Palace Of Versailles - Free photo on Pixabay (539599)

ルイ15世は1750年にオーストラリア大使から「フランスに今サンジェルマンという不思議な男が来ているので、会ってみてはいかがでしょうか?」と提案され興味が湧いたルイ15世は、サンジェルマン伯爵に会う約束を取り付けた。

謁見当日、ルイ15世の前に現れたサンジェルマン伯爵は、噂同様の40代~50代位の身なりがきちんとした紳士的な男だったそうで、サンジェルマン伯爵がルイ15世にお辞儀してから、何かをポケットから出してテーブルの上にバラバラとばらまいたそうで、それは全部ダイヤモンドでした。

ルイ15世は、それをどこで買って来たのかを尋ねるとサンジェルマン伯爵は、「自分で作りました。陛下への贈り物です。」と言った為、この事から、サンジェルマン伯爵は、ルイ15世に非常に気に入られたそうです。

サンジェルマン伯爵の生涯

Rose Window Strasbourg Cathedral - Free photo on Pixabay (511137)

サンジェルマン伯爵は、生まれてから亡くなるまでの、その生涯において様々な謎や逸話を数々残しました。出生の秘密やその生い立ちも謎が多く本当の所はどうなのか誰も良く分かっていませんでした。

彼の生涯に関する事のほとんどは、未だ謎のベールに包まれていて諸説紛々であり、サンジェルマン伯爵の正式名称は【 サン=ジェルマン伯爵クロード=ルイ(フランス語) 】であり、フランス王国の将軍で、1775年フランス元師に叙されました。

出性

Lavender Flowers Purple Wild - Free photo on Pixabay (539677)

出生については、諸説あり、曖昧ではっきりしておらず、1707年4月15日、ハンガリア出身でスペイン王妃マリー=アンヌ・ド・ヌブールと貴族のメルガル伯爵との間の私生児としてヴェルタンボーのシャトーで、生まれたと言われています。

彼は、幼少期からイエスズ会の学校教育を受けて、そのまま聖職者を志すが、直前になり、フランス王国のルイ15世から少尉として任命を受け、その後フランスを後にして、様々な戦地で戦闘を繰り広げる事となりました。

作曲家兼バイオリニスト

Violin Musical Instrument Music - Free photo on Pixabay (541209)

サンジェルマン伯爵は、1746年まで作曲家兼バイオリニストとしてロンドンで過ごしていました。この頃の伯爵は、とても裕福であった為、無報酬で作詞作曲した自分の曲を出版したり、イタリアの歌集を制作したりしながら独自の音楽家としての活動に力を注いでいました。

そんな最中、サンジェルマン伯爵は、1745年末に短期間投獄されたことで、ロンドンを後にしました。サンジェルマン伯爵の作品は、イギリス内でも人気を博していて、ロンドンを去った後にも彼の楽曲は、出版され続けていました。

現代においてもサンジェルマン伯爵が作曲した楽譜はドイツのhaanengels社より出版されているそうです。

シャンポール城での研究

Nordkirchen Castle Schloss - Free photo on Pixabay (556775)

1758年にパリに現れたサンジェルマン伯爵は、フランスの国王ルイ15世に、研究室用に使える、王族所有の施設として「世界の人類史上最も貴重な発見」を教え導く事を条件に、シャンポール城の使用を許可され、この城に自分の研究室を設けました。

何故サンジェルマン伯爵は、貴族の身分でありながらも研究室を必要としたのか?彼は普通の貴族とは違って、豊富な知識と高い教養を身に付け様々な文化や語学にも堪能であった為、より高い知識を探求する気持ちが強かった為だと考えられます。

スパイ容疑をかけられる

Window Hand Magnifying Glass - Free image on Pixabay (556763)

サンジェルマン伯爵は、語学にも堪能で、膨大な数の知識や財産を合わせ持ち、余りに異才を放つ存在だった為に1760年に、ルイ15世の重臣ジョワズール公爵に、スパイ容疑をかけられてフランスを追われる羽目になりオランダへ逃れました。

しかしながら、その後においても、伯爵の足跡は、未だヨーロッパ各地に残される事となり、イギリス、イタリア、ロシア、ザクセン及びプロイセンなどヨーロッパ中に現れて、自身の色彩と顔料についての研究した結果を披露しようと各国を回っていた事が記録されています。

1784年急死

Paris Eiffel Tower - Free image on Pixabay (561035)

残された記録には1766年、プロイセンの王フリードリヒ2世の庇護を受けていたが、次の年この地を旅立ちバルト海に面したゴットルプへ移り最終的には、ヘッセンの領主の元に身を寄せたそうです。

それから1784年2月27日に、このドイツのヘッセン州の地にて、急死したとされていますが、親しい間柄の領主によれば享年93歳であったと言われています。しかし、サンジェルマン伯爵の目撃証言は、この後も続いていたそうです。

サンジェルマン伯爵の死後の足跡

Notre Dame Paris Facade - Free photo on Pixabay (561042)

サンジェルマン伯爵は、1784年2月27に亡くなりましたが、その後も何故かヨーロッパ中のあらゆる場所で、目撃されていたそうで、彼の足跡は、死後も無くならずに益々謎が深まります。

不老不死の秘薬を持ちいつ誰に会っても、40代前後に見えて、死後も各地に現れ周りを驚愕させていたそうです。例えば、フランス革命の少し前に、亡くなった筈のサンジェルマン伯爵からマ

リーアントワネット宛てに匿名の手紙が届いたり、多数のパリでの目撃情報もありそんな所から不老不死の噂は、信憑性を増して行きました。

マリーアントワネットへ匿名の手紙

Old Letters Mail Stamps - Free photo on Pixabay (511224)

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