2019年7月22日 更新

奈良県月ヶ瀬村中学生殺人事件の動機や原因となった村の風習

奈良県で当時中学生だった浦久保充代さんが殺害された事件は、犯人が村八分にされていたことが原因だとして話題になりました。犯行の動機や村の風習、現在の月ヶ瀬村についてご紹介します。また犯人がどのような差別を受けていたのかについても見ていきましょう。

目次

Learning Hint School - Free image on Pixabay (498449)

村八分とはある地域に住む者たちが特定の家族などに対して交際を断つことを言います。葬儀と火災の2つは他の者に被害が及ぶ可能性があるため関わりを持ちますが、他のことに対しては関わりを持たないため10-2で村八分となったのです。

他にも「はぶく」や「はじく」が訛って「はちぶ」になったとする説もあります。昔は村全体で助け合って生活することに利点があったので規則を破った人物がいれば制裁を受けるのは当然だと考えられていました。

しかし現代は村全体で協力し合わなくても各家庭で完結できるようになったため相互扶助の必要性はなくなっています。それでも村八分を行うのはただのいじめです。丘崎家は村に何の迷惑もかけていないのに村八分にされました。

丘崎誠人の両親

Karate Martial Arts Sport - Free photo on Pixabay (498450)

丘崎誠人の両親はともに朝鮮人と日本人のハーフで、内縁関係の夫婦であり父親は無口で母親は気性が荒い性格でした。2人は土木関係の仕事に就いて村人が物置小屋として使っていたところに住み始めます。

家にはトイレもお風呂もなく、外に掘った穴を使って用を足すしかありませんでした。隙間風が入り込みネズミが走り回っているような粗末な家に住まわされたのです。

集落では茶摘み農家がほとんどであったため、土木関係の仕事に就いている時点ですでに浮いた存在となっていました。

丘崎家に対する差別

Violence Against Women Domestic - Free photo on Pixabay (498451)

一家は両親、姉3人、妹1人、丘崎誠人の7人家族です。姉2人はすでに独立していたため、家では両親と姉、姉の子ども3人、妹と丘崎誠人の8人が生活していました。

両親が朝鮮人とのハーフだったことから村人に「チョーセン!」と見下した態度を取られます。また、丘崎家が茶摘み農家ではなかったことや区入りをしていなかったことでよそ者として扱われました。

30年間村に住んでもよそ者のレッテルがはがれることはありませんでした。

区入りもしておらず村八分の状態

Child Education Fear - Free photo on Pixabay (498453)

区入りとは村の一員になることを指し与力2人の推薦が必要ですが、丘崎家は誰からも推薦をもらうことができず区入りしていませんでした。

与力というのは同族組織から選ばれた村の複数の代表のことで一家の重要な事柄は何でも相談しなければいけないとされています。

「結婚相談はもちろん、仲人の決定まで与力に相談しないと将来の交際に支障をきたすという」と月ヶ瀬村史には書かれていました。区入りを果たせず与力もいないことから丘崎家は村八分の状態であったことがわかります。

丘崎一家の自宅

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自宅は村はずれの日当たりが悪い傾斜地にありました。じめじめした場所で、家はトタン屋根とベニヤ板の壁でできた元々物置に使われていた小屋です。

トイレを設置できなかったのは下水道敷設の分担金が支払えなかったためです。お風呂も設置されていなかったので薪を利用していました。

家は狭くて劣悪で、村に30年以上住んでも村人だと認めてもらえることはありませんでした。差別は朝鮮人と日本人のクウォーターである丘崎誠人まで続いたのです。

丘崎誠人に対する差別

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両親だけでなく子どもの丘崎誠人にも差別は行われました。村で事件が起きるたびに犯人扱いされて遊んでいるだけでも石を投げられたのです。

村で差別を受けていたことが原因で学校の教師からは体罰を受けました。丘崎誠人に対する差別を見ていきましょう。

公民館の放火事件

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丘崎誠人が小学3年生の時に村の公民館が全焼する火事が起きています。丘崎と姉が公民館の近くで火遊びをしていたという目撃証言や「逃げ!誠人」と声を聞いたという証言から丘崎誠人が放火犯だと疑われました。

本人に問い詰めることはしなかったものの、自身の子どもに丘崎とは遊ばないように言い聞かせる村人もいました。火事は管理の不手際が原因だとして片付きましたが一家に対する風当たりは強くなったのです。

事件以来、村で何か起きると丘崎家のせいにされるようになりました。

村での事件で犯人扱い

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火事以来村で起きた事件は丘崎のせいだとされるようになり、村のビニールハウスが燃えた時や青年団の祭りで現金が紛失した時にも疑われることになりました。

差別を受け続けた丘崎は徐々に心を閉ざして外で遊ばず家の中で過ごすようになります。中学2年生の頃からはほとんど学校へ行かなくなりました。

登校しても廊下に一人で立つなど学校にも友人はいなかったようです。村でも学校でも孤立していき、後に不登校となりました。

遊んでいると石を投げられる

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河原で遊んでいた時には「そんなところで遊ぶな」と石を投げられたと言います。子どもの頃から村人に白い目で見られ、差別を受けて育った丘崎は村への憎しみを募らせていきます。

気に入らないことが起こると母親を怒鳴るなど家庭内暴力の影も見えるようになりました。謂れのない差別を受け続けたことで心に深い闇を抱えるようになっていったのです。

封建的な村社会の中で丘崎一家が浮いた存在のまま、親から子へ差別は受け継がれました。

教師の体罰

Pencil Sharpener Notebook - Free photo on Pixabay (498465)

不登校になった理由を丘崎は教師による体罰のせいだと述べています。学校で花瓶を割ってしまった時に丘崎の言い分だけは聞いてもらえずに体罰を受けたのです。

中学2年生で不登校になってから教師が自宅を訪れたのは2、3回だけでした。卒業証書はクラスメイトが届けてくれましたが翌日に丘崎自身で破って燃やしています。

また、卒業生が1人1ページ綴る卒業文集には丘崎のページがありませんでした。丘崎は教師のえこひいきや体罰が引き金となり不登校となりました。

月ヶ瀬村の風習やしきたり

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