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日本赤軍の元最高幹部の重信房子は、終戦間もない昭和20年9月3日に生まれました。4人兄弟の次女として、東京の世田谷区に生まれ、美しく成長して周囲からも評判となった彼女ですが、大学に入学するまでは、文学少女で本が好きなごく普通の女の子として育ちました。
将来の夢は、小学校の教員をしながら小説を書くことでした。そんな彼女を変えてしまったのは、昼間働いて夜通っていた大学時代の頃でした。一体彼女の身に何が起こったのでしょう?
将来の夢は、小学校の教員をしながら小説を書くことでした。そんな彼女を変えてしまったのは、昼間働いて夜通っていた大学時代の頃でした。一体彼女の身に何が起こったのでしょう?
家族
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重信房子の父親は彼女と対局の右翼の活動家で「血盟団」という団体に所属していました。彼女がまだ生まれる前は、第二次世界大戦前の血盟団事件に関与した右翼団体金鶏学院の門下生だったそうです。
そして、重信房子の家族の生活は幼少期から家が貧乏だったため、彼女は普通高校を諦めてアルバイトをしながら夜間大学に通うことになります。そして、幼少期から右翼派だった父親の影響を強く受けたことで娘の重信房子は、世界を自分たちの手で変えたいと強く思うようになるのです。
そして、重信房子の家族の生活は幼少期から家が貧乏だったため、彼女は普通高校を諦めてアルバイトをしながら夜間大学に通うことになります。そして、幼少期から右翼派だった父親の影響を強く受けたことで娘の重信房子は、世界を自分たちの手で変えたいと強く思うようになるのです。
学生運動
昼間アルバイトをしながら明治大学に通っていた重信房子が、入学してしばらくした頃、学生運動に参加します。ちょうどその時代、重信房子の周囲の大学生たちは学生運動の真っただ中でした。そして、もともと父親の影響でこういった活動に興味があった彼女もいつしか、その波に呑まれていったのです。
最初は、友達の誘いをきっかけに、軽い気持ちで大学の学費値上げ反対のデモに参加しました。そして、そのデモがのちに明治大学紛争へと発展することになったのです。
最初は、友達の誘いをきっかけに、軽い気持ちで大学の学費値上げ反対のデモに参加しました。そして、そのデモがのちに明治大学紛争へと発展することになったのです。
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そして、その学生運動がきっかけで彼女は資本主義への疑問を抱くようになり、過激な共産思想を持つまでになってしまいました。
日本赤軍での立ち位置
重信房子が次第に、明治大学の学生運動のリーダー格となり、1969年に結成された赤軍派の創立メンバーとなりました。この赤軍派は新左翼と呼ばれる団体で、のちに日本赤軍や連合赤軍のもとになった非常に過激で危ない共産思想を持った団体だったそうです。
そして、共産思想を掲げた日本赤軍の暴力を盾にした過激テロ行為がいっそう激しさを増し、いつしか彼女たち赤軍派の人たちは皆、公安警察からマークされるようにもなるのです。
そして、共産思想を掲げた日本赤軍の暴力を盾にした過激テロ行為がいっそう激しさを増し、いつしか彼女たち赤軍派の人たちは皆、公安警察からマークされるようにもなるのです。
美人革命家
重信房子は、幼いころから美人でした。その美貌は周囲でも噂になるほどで「日本赤軍の女帝」とも呼ばれ、女性革命家として日本赤軍の幹部メンバーになった後でも、そんな彼女の容姿は世間から注目を集めました。
そんな彼女が日本赤軍の最高幹部まで上り詰めたちょうどその頃、赤軍派の行動を細かく調べていた公安が、大菩薩峠での赤軍派の軍事訓練に突如やってきて、その時その場にいたメンバーを50人ほど凶器現場集合罪で逮捕しました。
そんな彼女が日本赤軍の最高幹部まで上り詰めたちょうどその頃、赤軍派の行動を細かく調べていた公安が、大菩薩峠での赤軍派の軍事訓練に突如やってきて、その時その場にいたメンバーを50人ほど凶器現場集合罪で逮捕しました。
逮捕
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そんな大菩薩峠事件と同じころ、彼女も沖縄返還運動に参加した罪で警察に逮捕されますが、取り調べの後ひと月ほどで釈放されています。その後、彼女は1970年に世間を驚かせた有名なハイジャック事件「よど号ハイジャック事件」にも何かしら関与したともいわれています。
ほかに、海外でも中東地域の反イスラエルアラブ国家からの資金、そして武器援助などを受け、世間を震撼させた「ドバイ日航機ハイジャック事件」や「シンガポール事件」、そして「ハーグ事件」など世界でも有名となった数々の凶悪なテロ事件も、彼女が先頭に立って次々と発生させ話題となりました。
ほかに、海外でも中東地域の反イスラエルアラブ国家からの資金、そして武器援助などを受け、世間を震撼させた「ドバイ日航機ハイジャック事件」や「シンガポール事件」、そして「ハーグ事件」など世界でも有名となった数々の凶悪なテロ事件も、彼女が先頭に立って次々と発生させ話題となりました。
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そして重信房子が関与した中の1つだった「ハーグ事件」で彼女は国際指名手配を受けますが、逃亡を続けました。そして、その後日本に不法入国してしばらくの間、大阪市の西成区のマンションにひっそりと潜伏していたそうです。
それから26年もの時が経ち、2000年になると日本赤軍の支援者を視察していた大阪府の公安は彼女と似た女性を発見し、直ちに捜査を開始して逮捕します。この逮捕の決め手となったのは、たばこの吸い方といった日常の姿と、まったく同じ指紋といったものでした。
それから26年もの時が経ち、2000年になると日本赤軍の支援者を視察していた大阪府の公安は彼女と似た女性を発見し、直ちに捜査を開始して逮捕します。この逮捕の決め手となったのは、たばこの吸い方といった日常の姿と、まったく同じ指紋といったものでした。
最高幹部「奥平純三」
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日本赤軍の最高幹部だった奥平純三も、ここまでご紹介してきた重信房子と同様に、国内外での過激テロ行為に及んだ主要メンバーの1人です。
ここからは、当時そんな日本赤軍の最高幹部である奥平純三について、詳しく彼の生い立ちからさかのぼってみていきましょう。
ここからは、当時そんな日本赤軍の最高幹部である奥平純三について、詳しく彼の生い立ちからさかのぼってみていきましょう。
生い立ち
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日本赤軍の最高幹部だった奥平純三は、1949年2月9日山口県下関市に生まれ、熊本マリスト学園高等学校を卒業して大学受験に失敗し、浪人経験を経てようやく大学に入学します。それまでは共産思想には無縁の人生を歩んでいました。
しかし、大学在学中にパルチザングループと呼ばれるグループに所属し、大学卒業後の1973年には一度、建設会社に就職しますが、そのわずか1年後の1974年に退職してしまい、偽造パスポートで不法に出国して赤軍派の活動に参加することになります。
しかし、大学在学中にパルチザングループと呼ばれるグループに所属し、大学卒業後の1973年には一度、建設会社に就職しますが、そのわずか1年後の1974年に退職してしまい、偽造パスポートで不法に出国して赤軍派の活動に参加することになります。
家族
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奥平純三の家族には、同じ日本赤軍のメンバーだった奥平剛士がいます。日本赤軍に加入し、ハーグ事件をはじめとしたさまざまな事件に関与した彼は、日本赤軍最高幹部としてトップで周りを率いる立場におり、さまざまな事件に主要メンバーとして関わっていました。
そして、イスラエルのテルアビブ空港を過激テロ行為で襲撃した「テルアビブ空港乱射事件」に関与しましたが、そこで亡くなった同じ日本赤軍のメンバーだった奥平剛士は彼の次弟でした。
そして、イスラエルのテルアビブ空港を過激テロ行為で襲撃した「テルアビブ空港乱射事件」に関与しましたが、そこで亡くなった同じ日本赤軍のメンバーだった奥平剛士は彼の次弟でした。
日本赤軍最高幹部
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