2019年8月16日 更新

左翼集団の代表格日本赤軍!その活動の全貌とメンバーの現在

新左翼系団体として、かつて世界同時革命を目指した日本赤軍という団体の名前を、あなたも一度は耳にしたことがあるかもしれません。この日本赤軍のメンバーは今も国際指名手配中です。ここでは、彼らが当時どのような活動をしていたのかを詳しく紹介していきます!

目次

War Desert Guns - Free photo on Pixabay (560955)

奥平純三は、国外での過激テロに多く関与し、日本赤軍最高幹部まで上り詰めた人物です。日本から中東のパレスチナへと活動拠点を移した際に、同じように共産主義思想を掲げるパレスチナ解放人民戦線(PFLP)との協力関係を結びました。

そして、彼らとともに軍事訓練を受けながらテルアビブ空港事件を起こすに至ったのですが、その事件がきっかけで奥平純三たちは英雄として祭り上げられ、協力体制だったPFLPの信頼を得たのです。
War Desert Guns - Free photo on Pixabay (561084)

この事件以後、日本赤軍と正式に名乗るようになります。そして、この事件の主だったメンバーの奥平と重信が新しくできた日本赤軍の最高幹部となったのです。

関与した事件

Pentagon Stop 11 September - Free photo on Pixabay (560976)

奥平純三が関与した事件は、1974年に起こったハーグ事件、そして1975年のクアラルンプール事件が最初です。そして、その翌年の1976年、ヨルダン入国の時に一度逮捕され、日本に帰ってきました。

そのおよそ10年後の1987年に開催されたベネチアサミットではローマとイギリス大使館、そしてアメリカ大使館にロケット弾が発射され、カナダ大使館では車が何者かに爆破されてしまった事件が発生し、この事件でレンタカーから奥平の指紋が検出されたことから、奥平がこの事件の犯人であるとされ、捜索が始まりました。
Squad Car Police Lights - Free photo on Pixabay (561044)

そして、イタリアのナポリにあるアメリカ軍の施設で自動車爆発テロを起こし、その場にいたアメリカ兵を含む数人が亡くなりました。

生死不明

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数々の海外での無差別過激テロを行ってきた奥平純三は、1998年に一度他人名義の旅券を取得するため日本に帰国しており、この時とその翌年の1999年に最低でも2回は同じ日本赤軍のメンバーだった重信房子と会っていたことが、2000年に重信房子が逮捕された後わかっています。

しかし、その後の彼の消息は警察などが懸命に捜査をしていましたが誰もわからないままで、今も奥平純三は国際手配されていますが、その生死は不明とされています。

他の日本赤軍の主要メンバー【逮捕者】

Handcuffs Black Criminal - Free photo on Pixabay (529734)

日本赤軍のメンバーには、「日本赤軍の女性」と呼ばれていた最高幹部の重信房子、奥平純三のほかに、さまざまな事件に深く関わっていた日本赤軍のメンバーの中で、逮捕されたメンバーも多数います。

なかには消息不明のメンバーもいますが、ここでは事件後逮捕されたメンバーの詳細情報をご紹介します。

奥平剛士

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日本赤軍の主要メンバーで最高幹部だった奥平剛士は、創設時からのメンバーで、同じ赤軍派で最高幹部だった奥平純三とは兄弟で、重信房子とは偽装結婚して戸籍上では夫婦でした。

その後レバノンに入り、1972年5月にテルアビブ空港乱射事件を起こし、空港警備隊との銃撃戦の際、射撃されたか自殺したかのどちらかで、同じ赤軍派のメンバーだった安田安之と共に死亡しました。この奥平剛士の死は、戸籍上の妻だった重信房子にショックを与え、彼の死を悼んで重信房子率いる「日本赤軍」の活動が改めて始まったのです。

丸岡修

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丸岡修は日本の新左翼活動家であり、日本赤軍のメンバーでした。丸岡は、幼い頃は五・一五事件などの青年将校に強いあこがれを持ち、左翼ではなくその頃は右翼思想を持っており、将来は自衛官を夢見ていました。しかしその後、ベトナム戦争について疑問を持ったことがきっかけで、高校を卒業した1970年からは大阪浪共闘に参加し、市民活動家として活躍していました。

そして、その後さらに1972年5月に起こったテルアビブ空港乱射事件には参加しなかったものの、彼も共犯で指名手配となり、日本赤軍のメンバーとしてその次の年起こったドバイ日航ハイジャック事件や1977年のダッカ日航機ハイジャック事件に関与しました。その後、1993年に逮捕され、無期懲役の判決を受けて2011年に収監先の八王子医療刑務所で心臓病により60歳で亡くなりました。

和光晴生

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和光晴生は、日本の新右翼活動家で日本赤軍のメンバーでした。もともと映画少年でしたが、通っていた大学の医学部が米軍から研究資金を受けていたことが報道され、それがきっかけで起こった学生運動に参加します。

一方で、新宿の映画館でもアルバイトをしており、大学中退した後は、若松英二のもとで働き始めて映画の上映で全国をまわりました。
Fence Freedom Prison - Free photo on Pixabay (561104)

しかしそのわずか数年後、和光は日本赤軍に参加し、1974年にはシンガポール事件、ハーグ事件、そして1975年にクアラルンプール事件に参加しました。しかし、その後逮捕されて、無期懲役を受け、2010年からは刑務所で服役しています。

西川純

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西川純は、西川純は日本赤軍のメンバーで、奥平純三と共に1974年にハーグ事件に参加しましたが、1975年に逮捕されました。しかし同じ年に起こったクアラルンプール事件がきっかけで釈放、そして出国しました。

しかし、1977年に起こったダッカ日航機ハイジャック事件にも関与し、国際指名手配されます。その後日本に帰国後に空港で逮捕され、検察からハーグ事件、そしてダッカ日航機ハイジャック事件の件で逮捕されました。
Prison Cell Jail - Free photo on Pixabay (560738)

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