目次
- 池田容之が起こした「横浜バラバラ強盗殺人事件」
- 横浜バラバラ強盗殺人事件の概要
- 2009年6月18日~19日に発生
- 犯行グループは密輸を行っていた
- 犯行に及ぶきっかけ
- 池田容之らが麻雀店経営者ら2名を呼び出し監禁
- ホテル従業員との会話
- 被害者Aの殺害方法
- 被害者Aが殺害されている時の被害者B
- 命乞いをする被害者を無視する
- 被害者Bの殺害方法
- 被害者から約1300万円を奪う
- 遺体の行方
- 近藤剛郎を除く犯行グループメンバーが逮捕
- 6月24日死体発見により事件発覚
- 10月15日死体遺棄容疑で池田容之再逮捕
- 11月11日強盗殺人容疑で池田容之再逮捕
- 近藤剛郎は現在も指名手配
- 池田容之に被害者が殺されるまでのやり取り
- 私立高校を卒業していた池田容之
- 池田容之の出生
- 中学~高校時代
- 職を転々としていた
- 22歳で結婚するが離婚
- 暴力団に所属
- 近藤剛郎との出会い
- 31歳で横浜バラバラ強盗殺人事件を起こす
- 池田容之の異常性
- 生きている人間の首を平然と切断
- 命乞いを嘲笑い無視
- 被害者との面識がなかった
- お金の為なら何でもやる人間だった
- 被害者の首を切断した後に談笑していた
- 横浜バラバラ強盗殺人事件のその後
- 池田容之の罪
- 近藤剛郎を国際指名手配
- 死刑判決が下った池田容之の現在
- 池田容之は現在も服役中
- 死刑求刑の際の池田容之の様子
- 表情や行動
- 池田容之の発言
- 池田容之が事件を起こした動機
- 事件の原点は「アメリカン・ギャングスター」
- 自分は人を殺せる人間とアピールするために殺した
- 自分は神に選ばれた
- 共犯者の近藤剛郎について
- 早稲田大学の法学部に在籍していた
- 様々な麻薬密輸事件に関係している
- 事件後逃亡、現在はタイへ?
- 最初に逮捕された共犯者3名について
- 滋賀県在住の21~22歳の男
- 計画を聞いていなかった
- 被害者との面識は一切なかった
- 監禁・死体遺棄に関与していた
- 事件の黒幕とされている工藤明生について
- 詐欺の帝王
- 元関東連合の幹部
- 平愛梨の愛人との噂
- 架空人物説も
- 横浜バラバラ強盗殺人事件の被害者
- 被害者2名は元暴力団組員
- 麻雀店の経営権を近藤剛郎から奪っていた
- 婚約者・妻がいた
- 日本で発生したバラバラ殺人事件
- 佐世保女子高生殺害事件
- 一斗缶事件
- 座間9遺体事件
- 北九州監禁殺人事件
- 藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件
- 人違いバラバラ殺人事件
- 池田容之は罪を悔いているのだろうか?
これだけ残忍な手口で2人の人間を殺害した池田容之という男は、いったいなぜここまで凶悪な人間になってしまったのでしょうか?
裁判の際に、男性裁判員が「生まれてから今までのどこで道を外れたのか、その理由も分かれば」と問いかけたように、この事件を知るうえで、池田が生まれてからどのような人生を歩み、どのように堕ちていったのかを知ることは大変重要なことでしょう。
ここではそのような池田の生い立ち、学生時代やこの事件の首謀者である近藤剛郎との出会いなどについて書いていきます。
裁判の際に、男性裁判員が「生まれてから今までのどこで道を外れたのか、その理由も分かれば」と問いかけたように、この事件を知るうえで、池田が生まれてからどのような人生を歩み、どのように堕ちていったのかを知ることは大変重要なことでしょう。
ここではそのような池田の生い立ち、学生時代やこの事件の首謀者である近藤剛郎との出会いなどについて書いていきます。
池田容之の出生
via pixabay.com
池田容之は1978年、兵庫県で生まれました。父親は甲子園に出場経験もある元高校球児で銀行員というエリート街道を走ってきたような人物でした。そのため、比較的裕福で経済的には恵まれた環境で育ったといいます。その後、親の転勤に伴い、5歳の時に横浜市に引っ越しました。
池田の幼少期を知る人は明るい子だったと言い、この段階では、貧困で辛い思いをして育っていたり、親から虐待を受けて育ったなどの、後に池田が道を踏み外していく原因になるような要素はなかったようです。
池田の幼少期を知る人は明るい子だったと言い、この段階では、貧困で辛い思いをして育っていたり、親から虐待を受けて育ったなどの、後に池田が道を踏み外していく原因になるような要素はなかったようです。
中学~高校時代
via pixabay.com
池田が後に麻薬密輸グループのリーダーにまでなり、このような凶悪事件を起こすことからも、学生時代は手の付けられないほどの不良だったのかと思いきや、むしろ反対に優等生だったようで、中学3年生の時には生徒会長まで務めていました。
中学卒業後は横浜市内の私立高校に進学し、ここでも特に問題を起こすようなこともなく無事卒業しています。裁判で読み上げられた池田の母親の調書によると、学生時代の池田は陽気な性格だったということで、ここでもやはり後の凶悪殺人鬼の面影は感じられません。
裁判時に裁判員から「時間を巻き戻せるとしたら、どこに戻りたいか」と質問され、「できることなら学生時代に戻ってもっと本を読んでいればと思う」と答えていることから、池田自身にとっても学生時代は充実していた時期だったということでしょう。
中学卒業後は横浜市内の私立高校に進学し、ここでも特に問題を起こすようなこともなく無事卒業しています。裁判で読み上げられた池田の母親の調書によると、学生時代の池田は陽気な性格だったということで、ここでもやはり後の凶悪殺人鬼の面影は感じられません。
裁判時に裁判員から「時間を巻き戻せるとしたら、どこに戻りたいか」と質問され、「できることなら学生時代に戻ってもっと本を読んでいればと思う」と答えていることから、池田自身にとっても学生時代は充実していた時期だったということでしょう。
職を転々としていた
via pixabay.com
それまでは順風満帆かと思えた池田の人生ですが、高校卒業後は車両工場や造船所、ホストなどの仕事を転々とするようになります。工場などで働いていた際には鉄パイプ切断の作業で電動ノコギリを使っていたとのことで、そのことから犯行に電動ノコギリを使うことを思いついた可能性もあります。
それまでの人生がうまくいっていただけに、高校卒業後にうまくいかない自分とのギャップが大きく、池田は挫折を味わいます。また、仕事が長続きせず、収入が増えないことで、エリートで銀行員だった父親と自分を比較してコンプレックスを抱くようになっていったのかもしれません。
それまでの人生がうまくいっていただけに、高校卒業後にうまくいかない自分とのギャップが大きく、池田は挫折を味わいます。また、仕事が長続きせず、収入が増えないことで、エリートで銀行員だった父親と自分を比較してコンプレックスを抱くようになっていったのかもしれません。
22歳で結婚するが離婚
via pixabay.com
池田は22歳の時に結婚をしていて、娘も生まれました。数年後に離婚してしまうのですが、その後も決して多くはない自分の収入から毎月の養育費として10万円を捻出して送っているなど、家族想いとも思える一面も見せています。
それだけに、なぜ人の親でありながらこのような凶行に及んでしまったのかが不思議で仕方がありません。自分の娘を殺人鬼の娘にしてはならないなどと考えて、犯行を思いとどまることはできなかったのでしょうか?
公判で裁判員から「あなたの家族も社会からはじき出されることになることは分かっていますか?」と質問された際には、「それは理解しています」と答えています。結局、池田の中にあるのは己の欲望のみだったということでしょうか。
それだけに、なぜ人の親でありながらこのような凶行に及んでしまったのかが不思議で仕方がありません。自分の娘を殺人鬼の娘にしてはならないなどと考えて、犯行を思いとどまることはできなかったのでしょうか?
公判で裁判員から「あなたの家族も社会からはじき出されることになることは分かっていますか?」と質問された際には、「それは理解しています」と答えています。結局、池田の中にあるのは己の欲望のみだったということでしょうか。
暴力団に所属
via pixabay.com
結婚して子供が生まれても仕事は長続きせずにやがて離婚。その後も職を転々としていた池田は2004年頃に指定暴力団稲川会系組織の組員となり、ここから明確な転落の道を歩むようになります。その後は山口組系の組織に移り、約2年間を暴力団組員として過ごしていました。
この頃には実家との連絡も絶っており、池田の母親はそれでもどこかで生きていると信じて「腐るなよ、いつか道は開ける」とメールを送り続けたと言います。しかし、開けるかもしれなかったその道を、結局池田は自分自身で永久に閉ざしてしまうこととなりました。
この頃には実家との連絡も絶っており、池田の母親はそれでもどこかで生きていると信じて「腐るなよ、いつか道は開ける」とメールを送り続けたと言います。しかし、開けるかもしれなかったその道を、結局池田は自分自身で永久に閉ざしてしまうこととなりました。
近藤剛郎との出会い
via pixabay.com
その後、池田は都内の岩盤浴店店長として働いていましたが、休みなく働いても収入は23万円程度。そこから月10万円の養育費を払ってしまうと自身の生活はかなり厳しいものとなり、どうにかしてもっと金を稼ぐ方法はないかと考えていました。
そんな折、池田は友人の紹介で近藤剛郎と知り合います。出会ってから間もない年下の近藤に池田は何かを感じたのか、崇拝にも似た感情を持つようになり、やがて近藤の手引きで麻薬密輸の仕事に手を染めていくこととなりました。
そんな折、池田は友人の紹介で近藤剛郎と知り合います。出会ってから間もない年下の近藤に池田は何かを感じたのか、崇拝にも似た感情を持つようになり、やがて近藤の手引きで麻薬密輸の仕事に手を染めていくこととなりました。
31歳で横浜バラバラ強盗殺人事件を起こす
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麻薬密輸グループのリーダー格となった池田は、まさに近藤の右腕でした。やがて、近藤がかつて経営していた歌舞伎町の麻雀店の経営権を巡って被害者らとトラブルになると、池田に2人を殺害する人物を探すよう依頼します。
すでにこの頃には人の道に外れていた池田は、この依頼を自分にとってのし上がるチャンスだと考え、二つ返事で引き受けます。こうして、当時31歳だった池田は悪魔に魂を売り渡し、横浜バラバラ殺人事件という凶行に及ぶこととなりました。
すでにこの頃には人の道に外れていた池田は、この依頼を自分にとってのし上がるチャンスだと考え、二つ返事で引き受けます。こうして、当時31歳だった池田は悪魔に魂を売り渡し、横浜バラバラ殺人事件という凶行に及ぶこととなりました。
池田容之の異常性
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これほどまでにこの事件が世間からも注目され、裁判馴れしていないであろう裁判員の人たちを以てしても死刑を求刑させるほどとなった最大の理由は、やはり池田という男に他の殺人犯とはまた違った異常性を感じ、社会的影響の大きさを危惧したからでしょう。
これまでも池田の残忍な犯行の手口について述べてきましたが、ここではさらに犯行時の池田の様子などを中心に、その異常性について深く掘り下げて書いていきたいと思います。
これまでも池田の残忍な犯行の手口について述べてきましたが、ここではさらに犯行時の池田の様子などを中心に、その異常性について深く掘り下げて書いていきたいと思います。
生きている人間の首を平然と切断
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池田は被害者Bを生きたまま首を電動ノコギリで切断するというおぞましい方法で殺害しています。それについて池田は「チェックアウトが迫っていて、バラバラにするには時間がないと思い、首を切って殺そうと思った」と語っています。
さらに池田は、「切っている最中はとにかく切ることに夢中で、切り口や血を見ても気持ち悪いとは感じなかった。首の前半分がぱっくり割れて、頭部と胴体の切断面に気管が見え、胴体の方からはまだ呼吸音が聞こえた。その様子を見て『気管が切れても呼吸するのか。それなら後ろから切った方が楽だったかな、悪いことしたな』と思った」と、淡々と首を切断した様子について語っています。
さらに池田は、「切っている最中はとにかく切ることに夢中で、切り口や血を見ても気持ち悪いとは感じなかった。首の前半分がぱっくり割れて、頭部と胴体の切断面に気管が見え、胴体の方からはまだ呼吸音が聞こえた。その様子を見て『気管が切れても呼吸するのか。それなら後ろから切った方が楽だったかな、悪いことしたな』と思った」と、淡々と首を切断した様子について語っています。
命乞いを嘲笑い無視
via pixabay.com
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