2019年9月19日 更新

クメールルージュとは?クメールルージュの残党の現在についても

クメールルージュという言葉を聞いたことがなくても、ポル・ポトという名前を知っている人は多いでしょう。ポル・ポトは、知識人をほぼ抹殺し、無垢な少年兵をカンボジアの貴重な人材にしました。ポル・ポトの残党はどうなっているのでしょう?奇跡的に帰国した日本人の現在は?

目次

クメールルージュについて知りたい

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『クメール・ルージュ』は、英語ではなくフランス語です。なぜフランス語なのか?カンボジアは、1887~1954年まで『フランス領インドシナ(仏:l'Indochine française)』というフランス領の一部であったからです。

フランスから独立しようとしていたインドシナでは、インドシナを狙う他国からの干渉により、いびつな関係性の国々が出来上がりました。日本と長らく騒がしいご近所の国々と似た状況です。

そして、国内でも「国を良くしたい」という思惑から、いくつかの対立が起きていました。殺人鬼ポル・ポトもその一人で、本名は『サロット・サル』ペンネームが「Political Potentiality(政治の可能性)」という意味の『ポル・ポト』でした。

クメールルージュの概要

Elephant Riding Children - Free photo on Pixabay (623689)

クメール・ルージュは急進的な毛沢東主義者の勢力で、旧支配勢力を打倒して新政権を樹立し、1975年から1979年にかけてカンボジアを支配した。指導者は政治家のサロット・サルだが、改名後のポル・ポトとしてのほうが有名。

フランスで学んだ知識人らが樹立した政権は、自立的な農業社会の創出を目指した。都市からは人が消え、そこにいた住民は地方の農業協同組合での労働を強いられた。多くの人が死ぬまで働かされ、飢えに苦しんだ人も多く、同国経済は崩壊した。

権力を握り暴力的な支配を行った4年間で、クメール・ルージュは自分たちの敵と認識した対象を全て拷問し、殺害した。その対象は知識人や少数民族、前政権の当局者、そしてこうした人々の家族にまで及んだ。

被害者には少数民族出身の人々もいたが、大部分は同国に多いクメール族だった

カンボジアの武装組織、政治勢力

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『クメール・ルージュ(仏:Les Khmers rouges)』とは、かつて存在したカンボジアの政治勢力・武装組織のことです。『クメール=クメール人』は、カンボジアの総人口の約90%、タイ東北部、ラオス南部、ベトナム南部などにも住む東南アジアの民族のことです。

『クメール・ルージュ(赤色のクメール)』という俗称は、カンボジアの政治家・軍人・カンボジア王国国防相・首相・初代クメール共和国首相・大統領・元帥『ロン・ノル(Lon Nol)』政権前に、カンボジア国王『ノロドム・シハヌーク(Norodom Sihanouk)』が、極左過激派をさしてつけた呼称です。

当時のカンボジア王国では『サンクム・リアハ・ニヨム(Sangkum Reastr Niyum)』=「庶民に帰依する組織」=『サンクム』=『人民社会主義共同体(Popular Socialist Community)』が事実上の一党支配政党でした。

毛沢東主義者の勢力

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クメール・ルージュのイデオロギーは、現在のベトナム・ラオス・カンボジアを合わせた領域『フランス領インドシナ(l'Indochine française)』からヨーロッパが撤退後、反植民地主義的な思想と、極端な「毛沢東を中心とする中華人民共和国の共産主義者が創立した政治思想=毛沢東思想」を組み合わせたものからなります。

本名『サロット・サル』で、改名『ポル・ポト』は、1950年代のフランスの大学への留学中に、毛沢東思想に親しみ、カンボジア人の間に存在した「ベトナム人への長い服従に対する反感」も感じずに入られませんでした。

ポル・ポトは、政権を握るとすぐ、植民地以前のカンボジアへの移行を試みます。中華人民共和国の政治家『康生(こう せい)』に大きく影響され、康生はポル・ポトを「毛沢東思想のもっとも忠実な実践者」として賞賛し、党中央が毛沢東思想に染まっていきました。

1953年反政府闘争を開始

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19世紀末~20世紀初頭、インドシナはフランスに植民地化されていました。1945年11月、マルクス・レーニン主義やホー・チ・ミン思想を国家理念とするベトナムの政党『ベトナム共産党』=『インドシナ共産党』が偽装解党し、ホー・チ・ミンが結成し主席の『ベトナム独立同盟会(ベトミン)』に合流しました。

1951年2月、インドシナ共産党第2回党大会で、ベトナム・ラオス・カンボジアに組織を分割することが決定し『ベトナム労働党』が発足。6月28日、クメール人民革命党結成準備委員会を樹立。9月30日、委員長『ソン・ゴク・ミン』とする秘密政党『クメール人民革命党』が結成されました。

1953年、ノロドム・シハヌークを国王とする『カンボジア』が独立すると、クメール・ルージュは反政府闘争を開始しました。

1960年代のベトナム戦争での勢力は小さかった

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1960年9月、第2回党大会が開催され、秘密政党『クメール人民革命党(Cambodian Peaple's Party)』から、党書記『トゥー・サムート』、副書記『ヌオン・チア』、中央委員会常任委員『ポル・ポト』とする『カンボジア(カンプチア)労働者党(CPK)』に改称されました。

中央委員『モーン』『イエン・サリ』『ケオ・メアス』『ソン・ゴク・ミン』『ソー・ピム』、中央委員候補『プラシト』『ノン・スオン』を選出。

1960年代、ベトナム戦争のため国内は不安定になりました。しかし、シハヌーク国王政権時代は、爆撃・内戦は局地的が小さく、食糧は輸出するほど豊富にあり、難民もほぼ発生しておらず、クメール・ルージュはまだ弱小勢力でした。しかし、ポル・ポトは密かに動いていました。

1975年から1979年にかけてカンボジアを支配

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1966年、ポル・ポトが中国から帰国後、1920年代にパリで鄧小平が発行していた地下新聞『赤い光(Reaksmei Krahom)』を真似て『赤旗(Tung Krahom)」を発行し始める。9月、党名『カンボジア労働者党』を『カンボジア共産党』へ改称し、
1967年、武装闘争開始。

1968年1月、カンボジア国王『シハヌーク』が『カンボジア共産党』へ闘争宣言。1970年3月、ロン・ノルによるクーデターにより王制廃止。4月、シハヌーク国王と『カンボジア民族統一戦線』の結成を合意し、5月、北京で『カンプチア王国民族連合政府(亡命政府)』結成。

1975年4月、『カンボジア民族統一戦線』が『プノンペン』を占領し『クメール共和国』崩壊。1976年1月、新憲法を発布し、国名『民主カンプチア』に改名。4月、首相『ポル・ポト』にし、非共産党の政府指導者を排除しました。

指導者はポル・ポト

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本名は『サロット・サル(Saloth Sar)』で、改名『ポル・ポト(Pol Pot)』は、1928年5月19日、現在のカンボジア王国『コンポントム州』であるフランス領インドシナの『プレク・スバウヴ』で生まれ育った、民主カンプチア首相・カンボジア共産党中央委員会書記長で、クメール・ルージュの精神的指導者です。

父『ペン・サロット(Phen Saloth)』、母『ソク・ネム(Sok Nem)』で、父は9ヘクタールの水田と3ヘクタールの農園と水牛6頭を所有しており、使用人は雇わず、2人の息子と養子にとった甥たち約20人で水田を耕作し、年平均で籾6トンと20人以上の家族を養える量を収穫する中規模の自作農でした。

父の姉『ネアク・チェン(Neak Cheng)』が王宮で働き始め、チェンの娘『ルク・クン・メアク(Luk Khun Meak)』が王宮舞踊団の踊り手になった後、国王『シソワット・モニヴォン』の側室になったことで王宮との関係は強まり、ポル・ポトの生家は王宮と関係のある家系とされていました。

住民に農業協同組合での労働を強いる

Agriculture Rice Harvesting - Free photo on Pixabay (623711)

1969年、カンボジアは耕作面積249万ヘクタールを有し、米23万トンを輸出していましたが、1974年には、耕作面積5万ヘクタールまで激減し、1971年10リアルであった米の値段は、1975年には340リアルにまで急騰しましたが、28万2000トンの米を輸入しなければならなくなっていました。

理由は1970年、アメリカ大統領『リチャード・ニクソン』に支持された、フランス式の教育を受けたカンボジアの政治家・軍人・カンボジア王国国防相・首相・初代クメール共和国首相・大統領を歴任・元帥『ロン・ノル』によるクーデターによるものでした。

クメール・ルージュは『オンカー(組織)』と名乗り、プノンペンなど都会の住民・資本家・技術者・知識人などから一切の財産・身分を剥奪し、都市をゴーストタウンにし田舎に強制移住させ、食糧増産を図りました。学校・病院・工場を閉鎖、銀行業務・貨幣を廃止、私有財産・宗教を禁止、都市文明を否定しました。

過労や飢えで死ぬ人々もいた

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