2019年9月19日 更新

クメールルージュとは?クメールルージュの残党の現在についても

クメールルージュという言葉を聞いたことがなくても、ポル・ポトという名前を知っている人は多いでしょう。ポル・ポトは、知識人をほぼ抹殺し、無垢な少年兵をカンボジアの貴重な人材にしました。ポル・ポトの残党はどうなっているのでしょう?奇跡的に帰国した日本人の現在は?

目次

残党のリーダーが1998年に謝罪

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残された兵士は、全盛期の半数で約4000人でした。1997年、ポル・ポトは、窮地に陥り政府との和解交渉を試みた腹心『ソン・セン』とその一族を殺害し、クメール・ルージュの軍司令官『タ・モク』に「裏切り者」として逮捕され『終身自宅監禁』を宣告され、密林地帯で死亡しました。

1998年12月29日、残された『クメール・ルージュ』のリーダーは、1970年代の大量殺戮に対して謝罪しました。そして、1999年までに、大半のメンバーは投降or拘束されました。

クメールルージュ特別法廷も行われた

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クメール・ルージュ裁判は「自国民大虐殺・人道に対する罪など、元指導者達を裁く裁判」とされ、国連をはじめ国際社会が働きかけた一方、2006年7月3日にまで開始を引き延ばされ、1998年に『ポル・ポト』が、2006年に『タ・モク元軍参謀長・最高司令官』が死亡し、存命中の指導者の高齢化も進んでいました。

二審制で、最高刑は終身刑で、運営予算5600万ドルのうち日本はが2160万ドルを拠出しています。5~10人の『クメール・ルージュ』元最高幹部らが訴追される予定でしたが、現政権は元最高幹部らと司法取引を行い恩赦を与え、訴追に消極的で批判を受けていました。

2010年7月26日、元収容所元所長『カン・ケク・イウ』に対し、一審で禁錮35年の判決を言い渡しましたが、2012年2月3日の上訴審判決では、一審の禁錮35年を破棄し最高刑の終身刑を言い渡しましたが、政権内部の人間を死刑に処することはできませんでした。

2018年クメールルージュ指導者に有罪判決

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2018年11月16日、ポルポトの『クメール・ルージュ』政権で国会議長を務め、第2位の地位にあった『ヌオン・チア』と、国家幹部会議長であった『キュー・サムファン』被告が、国連が支援する法廷で「イスラム系民族のチャム族とヴェトナム系民族に対する大量虐殺」の罪で裁判にかけられました。

ポル・ポトの『クメール・ルージュ』政権によるカンボジア国民の殺害は「国際的な大量虐殺の定義に当てはまらない」とされ、人道に対する罪で訴追されており「人道に対する罪」で終身刑となり服役している2被告は、再び終身刑を宣告されたのです。

クメール・ルージュ政権下で苦しんできた人々で満員のプノンペンの裁判所で、チア被告は「チャム族・ヴェトナム系カンボジア人を抹殺する目的での大量虐殺」で、サムファン被告は「ヴェトナム系民族に対する大量虐殺」で有罪となり、強制結婚や強姦、宗教的迫害などでも有罪となりました。

クメールルージュがモデルの作品

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『ポル・ポト』=『サロット・サル』家は王室とも繋がりのある名家で、エリートコースを歩みフランスに留学します。インドシナ戦争でカンボジアはフランス側でしたが、東南アジア人全体に対して嫌悪感を抱いていたフランス人に嫌われ鬱屈した日々を送りました。

しかし、フランス共産党に手を差し伸べられ党員になったサル青年は、過激派の先輩らと交流を重ね思想に感化され、帰国後、フランス語教師として働き、結婚し平凡な人生を謳歌していましたが、地下活動を始め『クメール人民革命党』内で力を強めていきました。

しかし、フランスからの植民地解放を期に、シアヌーク国王による抗仏運動と共産党への弾圧で、共産党筆頭書記で武闘派左翼組織『クメール・ルージュ』のポル・ポトは秘密警察に追われ、仲間たちとジャングルに潜伏し、幼稚な「理想国家再建」を計画し、カンボジア政権の頂点に立ったのです。

最初に父が殺された

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「最初に父が殺された(First They Killed My Father)」は、自身もカンボジアからの養子を持つ『アンジェリーナ・ジョリー』が監督した2017年の伝記・歴史・スリラー映画です。

クメール・ルージュ時代のカンボジアを生き抜いた『ルオン・ウン』の回想録「最初に父が殺された 飢餓と虐殺の恐怖を越えて」を基にし、ジョリーとウンが脚本を執筆した作品です。

『テルライド映画祭』や『トロント国際映画祭』で上映され、第90回アカデミー賞外国語映画賞にはカンボジア代表作として出品されました。2017年9月15日よりネットフリックスで配信されています。

シアター・プノンペン

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1970年代のクメール・ルージュによる大虐殺を潜り抜けた1本の恋愛映画をめぐるヒューマン・ドラマ「シアター・プノンペン(The Last Reel)」は、2014年のカンボジア映画です。

この映画が初監督作品となる、カンボジアの新鋭女性監督『ソト・クォーリーカー』が手がけ、2014年・第27回東京国際映画祭「アジアの未来」部門で「遺されたフィルム」という映画祭上映時タイトルで、国際交流基金アジアセンター特別賞を受賞した作品です。

カンボジアの首都プノンペンに暮す『ソポン』という女子大生が、1970年代のポル・ポト政権下で作られた古い映画に若い頃の母が出演していたということまで知ることから物語が始まります。母に聞いても語りたがりませんが、その映画をどうしても見たいソボンは、映画を探し始め、母国の映画史を発掘していくのでした。

消えた画 クメール・ルージュの真実

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「消えた画 クメール・ルージュの真実(仏:L'Image manquante)」は『クメール・ルージュ』に関するドキュメンタリー映画です。第66回カンヌ国際映画祭である視点部門で上映され、最高賞を獲得しました。

2013年のシネマニラ国際映画祭ではワールド・シネマ部門で上映され、審査員大賞を獲得しました。第21回リュミエール賞ではドキュメンタリー賞を獲得し、第41回セザール賞ではドキュメンタリー賞にノミネートされました。

第86回アカデミー賞外国語映画賞ではカンボジア代表作として出品され、ノミネートされました。映画の大半はニュースとドキュメンタリー映像で、ポル・ポトにより掌握されるカンボジアが土人形を使って描かれてもいる、リティ・パニュ監督による2013年の映画です。

クメールルージュは最悪の時代だった

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今でも、国民の3人に1人が1日1ドル以下で生活している最貧国カンボジアでは次々と豪華ホテルが建てられ、ベトナムや他国にお金が流れる仕組みになっているそうです。

どこの国でもこのような事態になる動機は同じですが、ベトナムでもポル・ポト率いる『クメール・ルージュ』が支持されたのは、長い内戦が続き、農村で国民の8割以上を占める農民が貧困に苦しむ一方で、都市で華僑やベトナム系住民が贅沢な生活を送っていたことによる結果でした。

しかし、やっと戦争から解き放たれたと思っていた国民は、さらに地獄絵図のような生活を強いられることになったのです。現在、カンボジアには平和が蘇ってきていますが、貧富の格差は相変わらず存在しています。カンボジア政府が貧富の格差を解消しないまま、貧しい農民の不満が爆発しないことを祈ります。

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