2019年9月19日 更新

クメールルージュとは?クメールルージュの残党の現在についても

クメールルージュという言葉を聞いたことがなくても、ポル・ポトという名前を知っている人は多いでしょう。ポル・ポトは、知識人をほぼ抹殺し、無垢な少年兵をカンボジアの貴重な人材にしました。ポル・ポトの残党はどうなっているのでしょう?奇跡的に帰国した日本人の現在は?

目次

クメールルージュの子供への残酷さ

Chicken Old Man Birds - Free photo on Pixabay (623737)

ポル・ポト政権『クメールルージュ』が組織される前は、カンボジアでは内戦が続き、無数の爆弾が降り注ぎ、50万人もの人々が亡くなるという大惨事を国民は経験していました。カンボジアでは「もう内戦などコリゴリ」と、ポル・ポトが作ってくれる新しい政治に期待していました。

しかし、ポル・ポト政権は、まさに「原始共産主義」への逆戻りを強制する政権でした。「貨幣は富の蓄積を生み、貧富の差を拡大する」という理由で廃止され、国民は物々交換で政治活動を行なうことを強要され「農業を国の産業にする」と、都市は不要とされ農村に強制移住させられました。

ポル・ポトは「集団農作業で農作物を収穫し、海外に輸出して外貨を得て、その外貨で工業施設を作り『社会主義国』を完成させる」という、稚拙な国家作りを無理矢理通そうとしていたのです。ほとんどの大人は殺害されたため、もれなく子供が国の主役へと巻き込まれることになりました。

少年兵を使っていた(※虐殺もさせていた)

School Teacher Education - Free photo on Pixabay (623741)

ポル・ポトや強制収容所の所長『カン・ケク・イウ』ら、クメール・ルージュの幹部は高学歴でインテリの者が多くいましたが「高度な知識や教養は、ポル・ポトの愚民政策の邪魔になる」と考え「医師・教師・技術者を優遇する」と自己申告させ、別の場所へ連れ去り殺害しました。

国民の間では「連れ去られた者は帰ってこない」ということが知れ渡り始め「教育を受けた者は殺される」ということが知れ渡り、無学文盲を装って難を逃れようとする者もいましたが「眼鏡をかけている者」「文字を読もうとした者」「時計が読める者」など、少しでも学識があると見なされた者は片っ端から殺害されました。

ポル・ポトは「子供は何色にも染まっていない」と考え、10代前半の子供を『少年兵』として重用するようになり、虐殺までさせていました。

子供医師や子供看守もいた

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ポル・ポトは、教育を受け知識を持った大人は信用せず、逆に「自分が考え実行する国造りに邪魔になる」と考え、少しでも教育されている気配がある大人は片っ端から殺害していきました。

そして、色に染まっていない無邪気な子供を積極的に社会的に重要なポジションつかせました。

牢屋の看守も子供。スパイも子供。大人を殺すのも子供。傷ついた兵士や、最悪な環境の中で体調を壊す農民らが向かう先は、もちろん病院ですが、そこで診察してくれる医者も子供でした。

子供を洗脳した

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独裁者『ポル・ポト』の名言集というものがあります。信じられないことに「たとえ自分の親であっても、社会の毒と思えば微笑んで殺せ」「腐ったリンゴは、箱ごと捨てろ」「知識人は邪魔」「無知で貧乏で純粋な農民が最も改造しやすい」「国を指導する我々以外の知識人層は不要」というものでした。

無駄な知識が教育されていない子供は、ポル・ポト自身を「神格化」するように洗脳するには大変効率的だったのです。知識人は余計な知識が多すぎるし、金持ちは財産に未練を持ち「改造」しにくいため、捨てるものが何もなく、知識もない、純粋な子供や貧乏な農民や底辺の労働者が最も改造しやすいという理屈です。

クメールルージュから生き延びた日本人がいる

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ポル・ポトの『クメール・ルージュ』政権下のカンボジアに、7名の日本人女性が残留しており、そのうち5名は死亡または行方不明になりました。内藤泰子さんと細川美智子さんの2名は生き残り、1979年にベトナム経由で帰国しました。

1942年、東京都世田谷区出身の『細川美智子』さんは、1962年、留学後日本で仕事をしていたカンボジア青年と結婚し、カンボジア『プノンペン』に移住し、2人の男児に恵まれ平穏な生活をしていましたが、1975年4月にポルポト派がプノンペンを制圧した後、出国のタイミングを失っていました。

1979年1月、ポルポト率いる『クメール・ルージュ』政権が崩壊するまでの3年8ヶ月間、カンボジア国内に身を置くことになりましたが、夫は死亡し地獄の苦しみを味わい、2人の男児と共に日本へ帰国することになってしまいました。

カンボジア人外交官と結婚した内藤泰子さん

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1932年、日本出身の内藤 泰子さんは、1976年位に「弟よ」を歌ってヒットした歌手の『内藤やすこ』さんとは違います。東京で出会ったカンボジア人外交官と国際結婚し、その後、夫の帰国に同行してカンボジア『プノンペン』に移住し暮らしていました。

泰子さんは、夫との間に2人の子供がおり、夫にとってこの結婚は再婚で、前妻との間に3人の子供がおり、夫婦は合計5人の子供を持つ親でした。

泰子さんはメガネを手放せないほどの視力の持ち主でしたが、殺害されずに済んだそうです。

クメールルージュで家族を失う

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内藤さんの体験は過酷でした。1975年に始まった、ポル・ポトによる『クメール・ルージュ』=『民主カンプチア』支配下の農村の労役で、夫との子供2児も、夫の先妻の子供も衰弱して亡くなりました。

外交官だった夫『ソー・ランタン』氏は「もしあの日、無理にでもお前と子供だけでも日本に避難させていれば」と、自分の判断の甘さを亡くなるまで病床で悔いていたそうです。 
 
ポル・ポト率いる『クメール・ルージュ』は、ベトナム戦争で腐敗した『ロン・ノル』政権により追放された元カンボジア国王『シハヌーク』がクメール・ルージュ側につき、国王を慕う農民層がクメール・ルージュを支持し、プノンペンを制圧し、5年に渡る内戦がようやく終わったと安堵していたのです。

1979年日本に帰国

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泰子さんは家族をすべて失う過酷な状況を生き抜き、ポル・ポト率いる『クメール・ルージュ』政権崩壊後、1979年に日本に生還した数少ない日本人としてマスコミで報道された人物です。

ヘリが着陸してドアが開くと、40半ばだが白髪がみられる髪に、つるが壊れ紐で止めた眼鏡をかけた、物静かで上品な感じの内藤さんが現れました。ホテルでNHKのインタビューが始まりましたが、次々と繰り出される質問に落ち着いて答えたそうです。
 
カンボジアでの体験記を『サンケイ新聞』に連載し、著書『カンボジアわが愛』を出版し、手記を『文藝春秋』などに発表し講演活動も行い、内藤泰子さんの体験に関する著述も発表されましたが、1982年8月30日、乳癌のため死去されました。

クメールルージュの残党の現在

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なぜ、ポル・ポト率いる『クメール・ルージュ』が勢力を伸張させてカンボジア内戦に勝利したのでしょう?クメール・ルージュの残党は、現在どうなっているのでしょう?

そもそも、ベトナム戦争下のアメリカに「ベトナムと仲良くするな」と力を持たされ腐敗した『ロン・ノル』政権に追放された、元カンボジア国王『シハヌーク』が、クメール・ルージュ側についたことで、尊王的に国王を慕う農民層がクメール・ルージュを支持するようになったのです。

1955~1975年の『第二次インドシナ戦争』=『ベトナム戦争』では、日本に投下した総量の3倍もの爆撃をアメリカから受け、数十万の農民が亡くなり、農業インフラが犠牲になり、カンボジアの田園風景は一面焦土と化したのです。

1996年大量の離脱があった

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1996年、フランス領インドシナ『コーチシナ』のカンボジア系少数民族の裕福な地主の家に生まれ『クメール・ルージュ』の民主カンプチア政権下で副首相・外相を歴任し、死去するまで第3位の地位にあった『イエン・サリ』を含む多量離脱がありました。

1998年12月、カンボジア『スヴァイリエン州』に裁判官の息子として生まれ、カンボジア内戦期に王国民族連合政府の副首相兼国防相・民主カンプチア『クメール・ルージュ』政権で国家元首を歴任した『キュー・サムファン』は、ポル・ポトに次ぐ第2位の地位にあった『ヌオン・チア』と共に投降しました。

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