2019年9月19日 更新

クメールルージュとは?クメールルージュの残党の現在についても

クメールルージュという言葉を聞いたことがなくても、ポル・ポトという名前を知っている人は多いでしょう。ポル・ポトは、知識人をほぼ抹殺し、無垢な少年兵をカンボジアの貴重な人材にしました。ポル・ポトの残党はどうなっているのでしょう?奇跡的に帰国した日本人の現在は?

目次

なぜそのような政策をとったかと言うと、ポル・ポトが、原始社会である『原始共産制』の理想的な自給自足の生活を営んでいる、カンボジアの『山岳先住民族』を模範とした極端な重農主義・農本主義を強行したからです。

カンボジア王政が廃位され、アメリカ軍と南ベトナム軍がカンボジア領内に侵攻し、局地的にしかなかった米軍の空爆はカンボジア全域に拡大され、一年半の間に200万人が国内避難民化し、深刻な食糧不足に陥り、援助が行き渡らない農村部では大規模な飢餓が発生していたのです。

クメールルージュの敵とみなされた者は殺害された

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ポル・ポトや、強制収容所の所長『カン・ケク・イウ』ら多くの『クメール・ルージュ』幹部は、高学歴でインテリ出身でしたが「高度な知識や教養はポル・ポトの愚民政策の邪魔になる」と考え「眼鏡をかけている者」「文字を読もうとした者」「時計が読める者」など、学識がありそうな者はすべて殺害されました。

病人・高齢者・妊婦などの弱者、革命が成功したことを知り「国の発展のために」と海外から帰国した留学生・資本家・旧政権関係者・伝統文化の継承者、国民的歌手の『シン・シサモット』『ロ・セレイソティア』『ヨー・オウラーラング』ら音楽家も大量虐殺して文化浄化を行いました。

クメール・ルージュは当然「クメール民族至上主義」であり、入植者であるベトナム系・中国系などの非クメール人は積極的に民族浄化されました。ポル・ポト政権時代、華人と華僑は42万人から20万人に減り、東南アジア史上最大規模で殺害されましたが、ポル・ポトを支援した中国共産党はこれを無視しました。

1979年クメールルージュ崩壊

Phra Nakhon Si Ayutthaya Ancient - Free photo on Pixabay (623716)

1978年12月25日、カンボジアからの避難民から組織された反ポル・ポト『カンプチア救国民族統一戦線 (KNUFNS)』を先頭に、10個師団もの兵力を国境に集めた『ベトナム軍』は、カンボジアに侵攻し『カンボジア・ベトナム戦争』が発生しました。

ベトナム軍は「クメール・ルージュから『カンボジアを』解放しようとしている『KNUFNS』を後方から支援しているだけで『ベトナム正規軍』はいない」と言い張っていましたが、実際は『KNUFNS』の構成員は2万人程度で、15万人を超える『ベトナム正規軍』が派遣されていました。

ベトナム軍は、3年前まで続いたベトナム戦争を戦い抜いた、実戦経験が豊富な将兵が揃っていたのです。そのため、粛清による混乱で脆弱になっていた装備のクメール・ルージュを難なく排し、わずか半月でプノンペンを占領し、1979年1月7日にポル・ポト政権を追放しました。

ポル・ポトは1989年死去

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1997年、窮地に陥り政府との和解交渉を試みた腹心『ソン・セン』とその一族を殺害したポル・ポトは、クメール・ルージュの軍司令官『タ・モク』に「裏切り者」として逮捕され『終身自宅監禁』を宣告されました。

1998年4月、新政府軍の攻撃から逃れて密林地帯にポル・ポトを連れて行った『タ・モク』は「ポル・ポトは心臓発作で死去した」としましたが、遺体の爪が変色しており「毒殺か服毒自殺の可能性もある」とされています。ポル・ポトの遺体は、古タイヤと一緒に焼かれ、その場所に埋められました。

火葬にはポル・ポトの後妻と後妻との間に生まれた1人娘が立ち会い「世間が何と言おうと、私達にとっては優しい夫・父でした」と語りました。埋葬直後には墓は立てられませんでしたが、のちに粗末な覆屋の看板に「ポル・ポトはここで火葬された」とのみ記された墓所が建てられました。

民主カンプチア時代

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『民主カンプチア(Kâmpŭchéa Prâcheathippadey)』は『民主カンボジア』とも表記され、かつてカンボジアに存在した国家で、ポル・ポト政権の正式名称です。

1975年4月、カンプチア共産党『クメール・ルージュ』を主力とした『カンプチア民族統一戦線(FUNK)』 により『プノンペン』を制圧し、1979年1月『カンボジア・ベトナム戦争』での敗戦するまで、カンボジア全土を支配する政府として存在していました。

崩壊後も亡命政府として存続し「反ソ連・反ベトナム」陣営として、アメリカ合衆国・中華人民共和国などの支援を受け、国際連合にも議席を維持し続けました。1980年代以降、カンボジア内戦を長期化させ、大量殺戮などにより人口の3分の1を失いました。

カンボジアから民主カンプチアに

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インドシナは『アンナン共産党』『インドシナ共産主義者連盟」などの『共産主義組織』などの結成で、統一しないまま競合するという極めて複雑な状況が続いていました。後の『ホー・チ・ミン』=『グエン・アイ・クオック』は、タイや香港で活動し、中国に亡命していました。

1930年、グエンは香港に『インドシナ共産党』『アンナン共産党』の代表を呼び、合流させて『ベトナム共産党(旧ベトナム共産党)』を結成しましたが、グエンの独断で起こした行動であったため、モスクワから帰国した『チャン・フー』が『インドシナ共産党』に変更し書記長になりました。

1945年11月、インドシナ共産党は『ベトナム独立同盟会(ベトミン)』に合流し「解散」を宣言するが、1951年2月『ベトナム労働党』と改称しベトナム・ラオス・カンボジアに党組織が再建され『ベトナム労働党』が発足。9月、委員長『ソン・ゴク・ミン』とする秘密政党『クメール人民革命党』を結成。
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1960年9月、ポル・ポト、イエン・サリら「パリ留学組」が台頭し、中央委員会常任委員『ポル・ポト』、中央委員『イエン・サリ』『ソン・ゴク・ミン』らを任命し『カンボジア労働者党』に改称。

1966年、ポル・ポトが中国から帰国後、党名を『カンボジア労働者党』から『カンボジア共産党』へ改称し、1967年、武装闘争開始。1968年1月、カンボジア国王『シハヌーク』がカンボジア共産党へ闘争宣言。1970年3月、アメリカの犬『ロン・ノル』によるクーデターで王制廃止。

1975年4月、元カンボジア国王『シアヌーク』が北京から結成を呼びかけた組織『カンボジア民族統一戦線』がベトナム軍と一緒にプノンペンを占領し『クメール共和国』崩壊。1976年1月、新憲法を発布し、国名を『民主カンプチア』に改名。ポル・ポトを首相に選出し、非共産党の政府指導者を排除しました。

黒い農民服が国民の服装

Agriculture Rice Plantation - Free photo on Pixabay (623728)

中国の毛沢東主義に影響された『ポル・ポト』が『民主カンプチア』の首相に就任すると、資本主義や都市文明を徹底的に廃絶し『原始共産主義社会』を再現させる徹底的な国家の改造を行いました。

国民を農村への強制移住させ「米の生産量を3倍に引き上げる」ため、中国の人民服のような黒い農民服を「国民の服装」とし、ラッダイトのように近代的な機械を資本主義文明の象徴と見做し劣悪な環境の中、全て人間の手作業で5時~22時まで、農作業や灌漑施設の建設などのために働かせました。

強制労働時代

Buffalo Riding Agriculture - Free photo on Pixabay (623732)

ポル・ポト政権下で、医療施設も廃止されたままで、強制労働により運河やダムなどの巨大な水路が総延長1万5000kmも建設されるなど、異常に過酷な労働環境下では、当然、過労により死亡する国民が多く出ました。

また、生産された米のほとんどは「外国からの武器調達資金を得るための米」であったため、異常にに過酷な労働を課せられた後、1日2杯のおかゆだけしか許されないという食生活を余儀なくされた国民の多くは、飢餓・栄養失調・過労により亡くなってしまいました。

新人民と旧人民に分けられた

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国が悲惨な状態になっていくことを目の当たりにしたポル・ポトは、なんと!自身の政策が失敗したのではなく「カンボジアやクメール・ルージュ内部に、裏切り者やスパイが潜んでいる」という猜疑心を強めたのです。

このような猜疑心から「腐ったリンゴは、箱ごと捨てなくてはならない」と唱え、政治的反対者を虐殺しました。国民は、プノンペン陥落後に都市から強制移住させられた新参者で、反革命の嫌疑をかけられながら長期間クメール・ルージュの構成員であった『新人民』と『旧人民』に区分されました。

「旧人民」は、自ら食料を栽培することを許され、1976年まで共同体で配給を受けることができました。

自由恋愛や結婚の禁止があった

Asia Buffalo Cambodia - Free photo on Pixabay (623734)

ポル・ポト政権の『民主カンプチア』では、通貨の廃止、私有財産の没収、教育や医療の否定、国立銀行など国家機関も全てが廃止されました。

『国家無神論』であるとされ、カンボジアで伝統的な上座部仏教、カンボジア国内のイスラム教・キリスト教など全ての宗教を禁止し、カンボジア国内のベトナム系・タイ系・中国系・チャム族など少数民族の存在自体も禁止されました。

伝統的な家族の形態まで解体され、クメール・ルージュの許可がない自由恋愛や結婚も禁止されました。

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