目次
- ペプロウとは
- ヒルデガード・ペプロウ
- 対人関係理論で知られる
- 精神看護の母と呼ばれている
- ペプロウの経歴
- 1909年誕生
- 1939年ポッツタウン病院付属看護学校入学
- 第二次世界大戦で活躍する
- シングルマザーとして子供を育てながら看護を続ける
- 1952年人間関係の看護論を出版
- 1970~1972年看護師協会会長を務める
- ヴァージニア・ヘンダーソン
- ヴァージニア・ヘンダーソンの取り組み
- 晩年まで看護界を牽引する
- 看護界を牽引した2人の女性
- ペプロウが説いた看護理論
- 看護を人間関係のプロセスだと考えた
- 看護と患者は互いに学び成長していくもの
- ペプロウの看護理論の解釈
- 精神分析の転移、看護者の立場
- 看護者の演ずる二次的な役割
- 4つの段階について
- 方向付けの段階
- 同一化の段階
- 開拓利用の段階
- 問題解決の段階
- ペプロウが説いた不安の定義と実例
- 不安のレベル“軽度”の解説と実例
- 不安のレベル“中等度”の解説と実例
- 不安のレベル“強度”の解説と実例
- 不安のレベル“パニック”の解説
- 対処に効果を得られたその他の例
- 対処に効果を得られなかった例
- 専門看護師育成の基礎を築いたペプロウについて知ってみよう
ペプロウとは
via pixabay.com
ヒルデガード・ペプロウは、現代看護学黎明期における理論家の一人として近代看護学に多大な貢献をしたアメリカ出身の看護学者です。看護というものを人間関係のプロセスであると考え、看護者と患者のそれぞれが互いに学び成長していくことを理論化し「対人関係理論」を提唱しました。
この「対人関係理論」は「ペプロウ看護論」とも呼ばれ広く知れ渡っています。ここではそんなヒルデガード・ペプロウについて少し掘り下げてご説明しましょう。
この「対人関係理論」は「ペプロウ看護論」とも呼ばれ広く知れ渡っています。ここではそんなヒルデガード・ペプロウについて少し掘り下げてご説明しましょう。
ヒルデガード・ペプロウ
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劣悪な労働環境であった看護師の仕事を改革し基礎を作った近代看護教育の母であるナイチンゲール以降の近代看護において、「対人関係理論」という看護理論を提唱し看護学に大きく貢献しました。
ヒルデガード・ペプロウは精神科看護に従事していたこともあり、彼女の提唱した「対人関係理論」は心理学・精神医学に影響を受けているのが特徴です。とりわけ現代精神医療の基盤を築き上げたアメリカの精神科医H.S.サリヴァンの人間関係論的精神医学に強く影響を受けたそうです。
ヒルデガード・ペプロウは精神科看護に従事していたこともあり、彼女の提唱した「対人関係理論」は心理学・精神医学に影響を受けているのが特徴です。とりわけ現代精神医療の基盤を築き上げたアメリカの精神科医H.S.サリヴァンの人間関係論的精神医学に強く影響を受けたそうです。
対人関係理論で知られる
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精神医学を学び、精神科看護に従事していたヒルデガード・ペプロウは1952年に『人間関係の看護論』を出版し、ロングセラーとなります。この著書に書かれていた事が後に「対人関係理論」「ペプロウ看護論」という理論で広く知れ渡っていきました。
この「対人関係理論」では看護を人間関係のプロセスであると考え、今まで行われてきた病気や怪我などの悪い所をただ治す事だけを求める疾患中心の看護から、看護者と患者がお互いに学び成長していく人間中心の看護へと変えていきました。
この「対人関係理論」では看護を人間関係のプロセスであると考え、今まで行われてきた病気や怪我などの悪い所をただ治す事だけを求める疾患中心の看護から、看護者と患者がお互いに学び成長していく人間中心の看護へと変えていきました。
精神看護の母と呼ばれている
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「対人関係理論」によってヒルデガード・ペプロウは後に“精神看護の母”と呼ばれ、看護界を牽引していく需要な人物となっていきました。そんな彼女ですが、貧しい家庭に生まれ、又その後も波乱万丈の人生でした。
同時期に看護界を牽引していた看護研究者で看護理論家のヴァージニア・ヘンダーソンとは対照に悪戦苦闘の生涯を送ります。強い責任感と一途なまでに公正を求める思いが様々な困難となって彼女の身に降り掛り、平穏が訪れたのはその生涯の最後であったそうです。
同時期に看護界を牽引していた看護研究者で看護理論家のヴァージニア・ヘンダーソンとは対照に悪戦苦闘の生涯を送ります。強い責任感と一途なまでに公正を求める思いが様々な困難となって彼女の身に降り掛り、平穏が訪れたのはその生涯の最後であったそうです。
ペプロウの経歴
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ヒルデガード・ペプロウは貧しい家庭に生まれて幼い頃から働き、また移民であったが故に優秀であっても迫害や差別の憂き目に遭うこともあり彼女が知識人として認められるには相当な努力が必要でした。
しかし、彼女はどんな逆境であっても自身の持つ強い責任感によって正義と信念を貫く為に行動を起こしていきます。アクティブで優秀であったからこそ、看護という仕事に厳しく、看護を疾患中心の考えから人間中心の考えに変え治療の一形態として再定義しようと努めました。
それ故に多くの賛同者を得ましたが、同時に身近に居る多くの看護職の人たちによって取り組みを阻まれることもあったのです。コネクションは無く、様々な面で苦労をしながらも最終的に看護師協会の会長を務めるまでに至ります。
晩年は鬱病に苦しみ生涯の最後に平穏が訪れるまで波乱万丈だった彼女の人生について、対照的なヴァージニア・ヘンダーソンと共にご紹介していきます。
しかし、彼女はどんな逆境であっても自身の持つ強い責任感によって正義と信念を貫く為に行動を起こしていきます。アクティブで優秀であったからこそ、看護という仕事に厳しく、看護を疾患中心の考えから人間中心の考えに変え治療の一形態として再定義しようと努めました。
それ故に多くの賛同者を得ましたが、同時に身近に居る多くの看護職の人たちによって取り組みを阻まれることもあったのです。コネクションは無く、様々な面で苦労をしながらも最終的に看護師協会の会長を務めるまでに至ります。
晩年は鬱病に苦しみ生涯の最後に平穏が訪れるまで波乱万丈だった彼女の人生について、対照的なヴァージニア・ヘンダーソンと共にご紹介していきます。
1909年誕生
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1909年9月1日、アメリカのペンシルバニア州レディングにてポーランドからの移民で労働者階級の両親の元、6人兄弟の次女としてヒルデガード・ペプロウは生まれます。
両親が移民の上に労働階級であった為、彼女は貧しい家庭の中で育ちます。幼少期より病院に住み込み、そういった環境の中で働きながら彼女は成長していきました。後に看護界に携わっていったのも幼い頃からのこの体験が影響していたのかもしれません。又、移民であったことは周りからの差別や迫害の対象にもなりました。
両親が移民の上に労働階級であった為、彼女は貧しい家庭の中で育ちます。幼少期より病院に住み込み、そういった環境の中で働きながら彼女は成長していきました。後に看護界に携わっていったのも幼い頃からのこの体験が影響していたのかもしれません。又、移民であったことは周りからの差別や迫害の対象にもなりました。
1939年ポッツタウン病院付属看護学校入学
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やがて同州にあるポッツタウン病院附属看護学校に入学し本格的に看護学を学んでいきます。その後、1943年にはバーモント州にあるベニントン大学を卒業し学士号を取得します。
1947年にはコロンビア大学のティーチャーズ・カレッジで修士号、1953年に40歳を過ぎてようやく教育博士号を取得しています。博士号を取得する以前は5年間講師の仕事をし、後にラトガーズ大学にて看護教育の教育課程のカリキュラム構築に貢献をしました。
1947年にはコロンビア大学のティーチャーズ・カレッジで修士号、1953年に40歳を過ぎてようやく教育博士号を取得しています。博士号を取得する以前は5年間講師の仕事をし、後にラトガーズ大学にて看護教育の教育課程のカリキュラム構築に貢献をしました。
第二次世界大戦で活躍する
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また、ヒルデガード・ペプロウは従軍看護師として第二次世界大戦中にイギリスへと渡ります。精神科看護に従事していた彼女は戦闘体験によってPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむ多くの兵士たちの心を支援していきます。
その実践は軍の中でもとても評価の高いものでした。そして彼女はこの戦闘地帯でマックという医師と出会い彼との子供を授かります。マックとは友情、尊敬、そして愛情を深めましたが、妊娠し出産までに至ったことは隠し続けました。
その実践は軍の中でもとても評価の高いものでした。そして彼女はこの戦闘地帯でマックという医師と出会い彼との子供を授かります。マックとは友情、尊敬、そして愛情を深めましたが、妊娠し出産までに至ったことは隠し続けました。
シングルマザーとして子供を育てながら看護を続ける
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戦闘地帯で傷付いた兵士たちを診ていた医師マックとの間に出来た子供のことをヒルデガード・ペプロウは隠し、彼女はシングルマザーとして子育てをしながら看護を続けていきます。
一人で子育てと看護の仕事を両立させると決め、彼女の妹バーサや弟のウォルターの理解と支援によって遂にはそれを成功させました。理解者、支援者の存在があったことは勿論ですが、いかなる状況下でも客観的な判断を下し、また行動を起こせる彼女自身の内在的な力強い心もあっての成功と言えるでしょう。
一人で子育てと看護の仕事を両立させると決め、彼女の妹バーサや弟のウォルターの理解と支援によって遂にはそれを成功させました。理解者、支援者の存在があったことは勿論ですが、いかなる状況下でも客観的な判断を下し、また行動を起こせる彼女自身の内在的な力強い心もあっての成功と言えるでしょう。
1952年人間関係の看護論を出版
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彼女は看護の仕事を続けていく中で、自身の実直さ故の母親への愛着や葛藤、又貧困との闘いなど厳しい状況であっても患者と向き合い続けました。彼女の考える精神療法を患者に対し実施しながら回復促進の実証を得ていきました。
そうした取り組みの中、H.S.サリヴァンやフロム・ライヒマンなどの精神医学に精通する医師達と出会い大きな影響を受けます。そして1952年、ヒルデガード・ペプロウ は自身の著書『人間関係の看護論』を出版しました。
そうした取り組みの中、H.S.サリヴァンやフロム・ライヒマンなどの精神医学に精通する医師達と出会い大きな影響を受けます。そして1952年、ヒルデガード・ペプロウ は自身の著書『人間関係の看護論』を出版しました。
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