2019年8月12日 更新

幽霊船は実在する?実際にあった目撃情報や幽霊船の正体とは

昔から存在するとささやかれてきた幽霊船。多くの目撃情報とは裏腹に、その姿は未だ捉えられていません。怪談としても有名な幽霊船は実在するのでしょうか?幽霊船にまつわる実話、そして日本で幽霊船と言われる船のことまで、幽霊船にまつわることを丸ごと紹介します!

ロシアのクルーズ船だった全長100メートル、総重量1400トンから成るリュボーフィ・オルロワ号は、2012年にカナダのセントジョーンズ港を出港し、鉄くずとして売りさばかれる目的でドミニカ共和国へ向かいました。

しかしその航海中に大西洋沖で嵐に遭ったため、乗組員は全員無事でしたがリュボーフィ・オルロワ号は放棄されました。船が放棄された場所は海底に油田がある場所だったため、政府は安全な場所までリュボーフィ・オルロワ号を牽引し、その後船を解放しました。

以後、リュボーフィ・オルロワ号はイギリス近海で目撃情報が寄せられるも、行方不明のままです。

朝鮮人民軍第325

Lake Thun Ship Blümlisalp - Free photo on Pixabay (543541)

2015年11月に石川県沿岸に12隻の木造船が漂着しました。船は荒れ果てた状態で、船内には成人男性10人の遺体がありました。遺体の損傷は激しく、そのことから船が長期間にわたり漂流していたことが想像されました。

船体には「保安部」「朝鮮人民軍第325」とハングル文字で書かれていたため、当初は北朝鮮の秘密機関の船と推測されましたが、船内から漁に使う網が発見されたため、漁船の可能性が高いと判断されました。

しかし、なぜ漂流していたかは依然として不明なままです。

SAYO号

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2016年にフィリピンの港町バロボの漁師に、全長12メートルから成る「SAYO号」が発見されました。船体は損傷が激しくボロボロで、沈みかけているのを不審に思った漁師によって発見されたのでした。

船内にはミイラ化した遺体がテーブルに突っ伏していました。調査の結果、遺体は2009年にスペインのマヨルカ島を出港したドイツ人冒険家、マルクレッド・フリッツ・バヨラト氏ということが判明しました。単独で出港したバヨラト氏の死因は突発性心臓発作で、享年59歳でした。

サム・ラトゥランギ号

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全長177メートルから成る巨大な「サム・ラトゥランギ号」は、2018年8月末にミャンマー領海のマルタバン港で発見されました。エンジンが損傷し修復不能だったサム・ラトゥランギ号には乗組員も乗客もいませんでした。

調査の結果、もともと老朽化したサム・ラトゥランギ号を鉄くずとして売りさばくため、2隻の船でバングラデッシュへ牽引中悪天候に見舞われ、牽引していたケーブルが切れたことが原因で漂流していたことが分かりました。

日本の幽霊船「良栄丸」

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世界には多くの幽霊船の噂がありますが、日本では漁船「良栄丸」が幽霊船になった船として有名です。42トンの小型動力漁船「良栄丸」は、海上エンジントラブルから行方不明となり、11ヶ月間太平洋を漂流しました。

死亡者9人、行方不明者3人という悲惨な結末を迎えた良栄丸の海難事故。いったい日本の漁船に何が起こったのでしょうか。

良栄丸の遭難

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1920年12月5日、乗組員12人を乗せた良栄丸は神奈川県の三崎漁港を出港しました。良栄丸は銚子沖100キロメートル辺りでマグロ漁をしていましたが、海上でエンジントラブルに見舞われました。更に季節風の影響もあり、良栄丸は銚子沖のさらに東1600キロメートルあたりまで流されてしまいました。

無線装置もなく救助を求められなかった良栄丸は、その後4ヶ月に渡って漂流することになります。その間乗組員は漁で釣れた魚や船内にあった食料で食いつなぎました。

シアトル沖で発見

Sea Sunset Hdr - Free photo on Pixabay (543549)

乗組員全員を乗せたまま漂流を続ける良栄丸を救助する船は一向に現れず、船長である三鬼登喜造は今後の決断を迫られます。このままでは全員死んでしまうと考えた三鬼はアメリカへの漂着を目指すことを決断しました。船長のこの決断と、その後の機関修理の失敗が、良栄丸の悲劇につながったとも言われています。

1927年10月31日、アメリカのシアトル沖で貨物船マーガレット・ダラー号によって良栄丸は発見されました。出港から約1年が経過していました。

船内の状態

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良栄丸の船内には、9つのミイラ化した遺体がありました。遺体の状態から長期にわたって漂流していたこと、死亡してからある程度の日数が経過していることが分かりました。当初12人を乗せて出港しましたが、残り3人の遺体は発見されませんでした。

船体は沈没しておらず、船内からは航海日誌が見つかりました。普通放棄された船や海難事故に遭った船に何が起こったのか原因究明はとても困難ですが、良栄丸に残されていた航海日誌は、その後の調査に大いに役立ちました。

残されていた航海日誌

Book Embossing Leather - Free photo on Pixabay (543551)

良栄丸に残されていた航海日誌には、船長が銚子沖で遭難した際船員の同意を得て漂流することを決めたこと、救援が来なかったこと、船長がアメリカへ行くことを決断したことなど、遭難からの出来事の詳細が書かれていました。

航海日誌の1927年3月5日「本日朝食にて食糧なし」ということから食糧がついに底をつき、4日後の3月9日に栄養失調からか機関長が死亡したことが分かりました。その後次々と乗組員が死亡していった際の順番や経過まで明記されていました。

そんな航海日誌の最後の日付は発見される約5ヶ月前、1927年5月11日のものでした。

船員たちの遺書

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また良栄丸には航海日誌の他に、1927年3月6日に連名で書かれた板の遺書も残されていました。遺書だけでも日本に帰ることを望んだ船員は、溶けることのない板に遺書を認めたのでした。他に、遺髪として髪や爪を各自封筒に保管していたものも見つかりました。

また、船長は連名の遺書とは別に、妻子に宛てた便箋2枚の遺書を残していました。妻子の今後の生活を心配ているという内容の遺書の中でも、「大きくなっても漁師にはなるな。賢く頼みます。お母さんの言うことをよく聞きなさい。」という息子への言葉から、良栄丸がいかに過酷な状況にいたのかが想像できます。

さまざまなデマが拡散

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