目次
- 祟り神の祟りは本当にある?
- 祟り神とは
- 祟り神とは
- 祟り神の代表「牛頭天王」
- 日本書紀に記された神剣の祟り
- もののけ姫に出てくるタタリ神
- もののけ姫のあらすじ
- もののけ姫のタタリ神の正体
- タタリ神が及ぼした人間への影響
- タタリ神の呪いを受けたアシタカ
- アシタカへの呪いは消えた?
- 日本を代表する祟り神一覧【八所御霊】
- 崇道天皇(早良親王)
- 伊予親王
- 藤原吉子
- 橘逸勢
- 文室宮田麻呂
- 菅原道真
- 吉備真備
- 井上皇后
- 平将門の霊
- 関東大震災での首塚の損壊
- 将門の強い祟り
- 将門のご利益
- 祟り神の怨霊を鎮める御霊神社
- 全国の御霊神社
- 関東地方
- 中部地方
- 関西地方
- 祟りと呪いの違いとは?
- 日本の神様の種類
- 日本神話由来の神様
- 陰陽道の神様
- 民間信仰の神様
- 人神
- 琉球の神
- 祟り神を怒らせないように注意!
2体目のタタリ神も、イノシシに似た容姿を持つ神でした。乙事主(おっことぬし)と呼ばれる、500年以上生きている神です。タタリ神に変貌するまでは、穏やかで落ち着いた性格でした。融通が利かない頑固な一面ものぞいていましたが、自身の一族や、森の将来をただひたすらに案じる優しい神です。
優しい乙事主をタタリ神にしてしまったのも、エボシ御前と呼ばれる女性指導者でした。鉄を作り強力な武力を揃え、人間の発展のみを望んでいる女性です。
優しい乙事主をタタリ神にしてしまったのも、エボシ御前と呼ばれる女性指導者でした。鉄を作り強力な武力を揃え、人間の発展のみを望んでいる女性です。
タタリ神が及ぼした人間への影響
2体のタタリ神は、以前の様子から大きくかけ離れた、悍ましい容姿となり人間や村を襲いました。タタリ神特有の体の内側から這い出てくる謎の黒い触覚は、神々の内からわき出す人間への恨みを表しているようで、止めどなく出現し続けます。
恐ろしい容姿になり果てたタタリ神たちは、人間にどのような影響を与えたのでしょうか。タタリ神は、人間だけではなく、多くの生命を手あたり次第奪っていきます。タタリ神の体から這い出ている黒い触覚に触れると、皮膚や植物が溶けるシーンが描かれていました。
つまり、タタリ神は触れるもの全ての、生命を奪う力があると考察できます。また、アシタカに呪いを残したことから、死のタイミングまで操れたのではなかとも考えられるのです。
恐ろしい容姿になり果てたタタリ神たちは、人間にどのような影響を与えたのでしょうか。タタリ神は、人間だけではなく、多くの生命を手あたり次第奪っていきます。タタリ神の体から這い出ている黒い触覚に触れると、皮膚や植物が溶けるシーンが描かれていました。
つまり、タタリ神は触れるもの全ての、生命を奪う力があると考察できます。また、アシタカに呪いを残したことから、死のタイミングまで操れたのではなかとも考えられるのです。
タタリ神の呪いを受けたアシタカ
タタリ神がもたらすのは、生命のはく奪だけではありませんでした。タタリ神の呪いを受けたアシタカは、その呪いと引き換えに大きな力を得ます。刀を素手で曲げたり、放った弓が神がかった力を持つなどの現象が見られたのです。
他にも、銃や短剣で攻撃されても出血が見られなかったり、怪我を負うものの生命に関わる事態に陥らないなど、人間とかけ離れた特徴が見られるようになりました。もののけ姫で描かれているタタリ神もまた、日本に実在した祟り神と同じく、災いと富両方を与えることができる存在だということがわかります。
他にも、銃や短剣で攻撃されても出血が見られなかったり、怪我を負うものの生命に関わる事態に陥らないなど、人間とかけ離れた特徴が見られるようになりました。もののけ姫で描かれているタタリ神もまた、日本に実在した祟り神と同じく、災いと富両方を与えることができる存在だということがわかります。
アシタカへの呪いは消えた?
アシタカは、自身に科せられた死の呪いと、タイムリミットが進む中、真実と理想を見出すために奮闘します。サンや動物たちの主張、人間や女性たちの主張どちらにも理解し得る部分があるとし、中立的にも見える立場を続けました。しかし、最終的に、アシタカは森で生きるのか、人間の村で生きるのか決断します。
もののけ姫は終わりに近づくにつれ、多くの思いが交差し被害者や加害者、善悪の区別が曖昧になっていく作品です。アシタカや登場人物が下した決断が正しかったのか、自分ならどのような選択をするのか考えさせられる作品ですし、簡単に答えが出せない疑問を投げかける作品でもあるのです。
アシタカがどのような決断をくだしたのか、アシタカの呪いはどのように進んでいったのか詳しく知りたい人は、是非もののけ姫を鑑賞してみましょう。
もののけ姫は終わりに近づくにつれ、多くの思いが交差し被害者や加害者、善悪の区別が曖昧になっていく作品です。アシタカや登場人物が下した決断が正しかったのか、自分ならどのような選択をするのか考えさせられる作品ですし、簡単に答えが出せない疑問を投げかける作品でもあるのです。
アシタカがどのような決断をくだしたのか、アシタカの呪いはどのように進んでいったのか詳しく知りたい人は、是非もののけ姫を鑑賞してみましょう。
日本を代表する祟り神一覧【八所御霊】
via pixabay.com
日本では、人やこの世を恨みながら死んだ人、無実の罪をきせられ亡くなった人の多くが、怨霊と化し祟り神になると考えられていました。特に、生前信仰心が篤い、神道や陰陽道を信仰していた人、位が高い人などは祟り神として強い力を持つと考えられることもあったようです。
生前、人やこの世を恨み、祟り神となった人々を祀る八所御霊神社と呼ばれるものがあります。日本を代表する8人の祟り神を祀っている神社です。ここからは、八所御霊神社に祀られている人物の生前の様子や、なぜ祟り神になってしまったのか解説していきましょう。
生前、人やこの世を恨み、祟り神となった人々を祀る八所御霊神社と呼ばれるものがあります。日本を代表する8人の祟り神を祀っている神社です。ここからは、八所御霊神社に祀られている人物の生前の様子や、なぜ祟り神になってしまったのか解説していきましょう。
崇道天皇(早良親王)
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日本を代表する祟り神の1人は、崇道天皇(すどうてんのう)です。別名、早良親王(さわらしんのう)とも呼ばれています。早良親王は幼少期、皇太子に選ばれ次期天皇と目されていました。
しかし、当時の天皇であった桓武天皇の右腕として活躍していた藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺され、事件へ関与したとし皇太子をはく奪されます。つまり、崇道天皇と呼ばれているものの天皇になれなかった人物なのです。早良親王は最後まで自身の潔白を主張し続け、島流しの途中で絶命します。
早良親王が絶命したことから、天皇近辺に災いが起こるようになりました。早良親王の代わりに皇太子となった小殿親王が病に倒れたり、関係者が立てつづけて死亡するなど、不幸事が続きます。天皇近辺に起こった災いを、早良親王の祟りだと考えた朝廷は、早良親王に「天皇」の尊号を与え、遺体を祀りました。
しかし、当時の天皇であった桓武天皇の右腕として活躍していた藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺され、事件へ関与したとし皇太子をはく奪されます。つまり、崇道天皇と呼ばれているものの天皇になれなかった人物なのです。早良親王は最後まで自身の潔白を主張し続け、島流しの途中で絶命します。
早良親王が絶命したことから、天皇近辺に災いが起こるようになりました。早良親王の代わりに皇太子となった小殿親王が病に倒れたり、関係者が立てつづけて死亡するなど、不幸事が続きます。天皇近辺に起こった災いを、早良親王の祟りだと考えた朝廷は、早良親王に「天皇」の尊号を与え、遺体を祀りました。
伊予親王
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前項でも登場した桓武天皇の第3皇太子として知られる、伊予親王(いよしんのう)も祟り神として知られています。伊予親王は、桓武天皇から寵愛を受けていました。他皇太子とは違った扱いをされたり、度々邸宅に立ち寄られていたことでも知られています。
しかし、突然謀反の疑いをかけられ、母親と共に幽閉されました。幽閉から約1カ月後、2人は毒を飲み自害します。2人の死後、平城天皇は伊予親王とその母の霊に悩まされるようになりました。平城天皇は躁うつ病を発症し、早々に天皇の座を弟に譲ります。
さらに伊予親王の親族や王子女から奪った資産も全て返却し、自害した伊予親王とその母を丁重に祀りました。このような様子から、平城天皇が伊予親王の祟りを、どれだけ恐れていたのか理解できることでしょう。
しかし、突然謀反の疑いをかけられ、母親と共に幽閉されました。幽閉から約1カ月後、2人は毒を飲み自害します。2人の死後、平城天皇は伊予親王とその母の霊に悩まされるようになりました。平城天皇は躁うつ病を発症し、早々に天皇の座を弟に譲ります。
さらに伊予親王の親族や王子女から奪った資産も全て返却し、自害した伊予親王とその母を丁重に祀りました。このような様子から、平城天皇が伊予親王の祟りを、どれだけ恐れていたのか理解できることでしょう。
藤原吉子
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身に覚えのない疑いをかけられ、藤原吉子は息子と共に、寺へ幽閉されました。第50代天皇、桓武天皇の妻であり、前項でご紹介した伊予親王の母が藤原吉子です。無実の罪をきせられ自害に追い込まれたこと、自分や息子、その娘たちまで地位をはく奪されたことなど、恨みの種は多々ありました。
伊予親王及び藤原吉子の死後、祟りを恐れた朝廷は、2人を弔うと同時に、はく奪した地位を変換します。島流しを受けていた親族を京の都へ呼び戻したり、その後の生活も保障しました。このような行いによって、親子の祟りはおさまったと言われています。
伊予親王及び藤原吉子の死後、祟りを恐れた朝廷は、2人を弔うと同時に、はく奪した地位を変換します。島流しを受けていた親族を京の都へ呼び戻したり、その後の生活も保障しました。このような行いによって、親子の祟りはおさまったと言われています。
橘逸勢
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平安時代の貴族であり、書道家でもあった橘逸勢(たちばなのはやなり)も、祟り神であったと言われています。書に関する知識・才に長けていたため、三筆と称されていました。語学を勉強するために唐へ渡ったり、琴を学んだりと穏やかに暮らしていたところ、突然謀反の疑いで逮捕されます。
橘逸勢は逮捕後、激しい拷問を受け続けますが、罪を否定し続けました。罪を否定し続けたにもかかわらず、橘逸勢は島流しが決定します。島流しの途中で、橘逸勢は病死し、その姿を哀れに思った娘は、出家し祈りを捧げました。
のちに、橘逸勢の疑いは晴れましたが、無実の罪によって死亡した橘逸勢は、怨霊になったと考えられ恐れられます。不遇の死や思いがけない死をとげた者たちを弔う御霊会(ごりょうえ)では、前項の早良親王や伊予親王と共に、祀られてました。
橘逸勢は逮捕後、激しい拷問を受け続けますが、罪を否定し続けました。罪を否定し続けたにもかかわらず、橘逸勢は島流しが決定します。島流しの途中で、橘逸勢は病死し、その姿を哀れに思った娘は、出家し祈りを捧げました。
のちに、橘逸勢の疑いは晴れましたが、無実の罪によって死亡した橘逸勢は、怨霊になったと考えられ恐れられます。不遇の死や思いがけない死をとげた者たちを弔う御霊会(ごりょうえ)では、前項の早良親王や伊予親王と共に、祀られてました。
文室宮田麻呂
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文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)という平安初期の貴族も、祟り神になったと言われています。文室宮田麻呂も、謀反の疑いを密告されました。密告によって捕らえられ、拷問を受けます。
当時は、政権争い、権力争いが活発に行われていたため、何かに優れた人は脅威とみなされ除外されることも少なくなかったのです。逮捕された文室宮田麻呂は、激しい拷問の末、島流しとなりました。のちに無罪が証明され、丁重に祀られます。
当時は、政権争い、権力争いが活発に行われていたため、何かに優れた人は脅威とみなされ除外されることも少なくなかったのです。逮捕された文室宮田麻呂は、激しい拷問の末、島流しとなりました。のちに無罪が証明され、丁重に祀られます。
菅原道真
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