目次
- 達磨大師とは
- インド人
- 中国禅宗の開祖
- 「達磨」「達磨祖師」とも呼ばれる
- 勝利の際目を書き入れるダルマのモデル
- 「だるまさんがころんだ」などで古くから子どもにも親しまれる存在
- 達磨大師の一生
- 南インド香至国で誕生
- 本名は菩提多羅
- 般若多羅という僧侶が香至国を訪れる
- 般若多羅に出家を進められる
- 父親の死をきっかけに出家
- 40年以上の厳しい修行により一人前として認められる
- 中国に渡ったのは100歳を超えてから
- 嵩山少林寺に滞在し手足が朽ち落ちる程の修行を続ける
- 初めての弟子「慧可」
- 日本に渡り聖徳太子と面会したという説も存在する
- 日本と達磨の関係
- 起き上がり小法師
- 目入れだるま
- 選挙だるま
- 達磨の外見について
- 手足がないのは厳しい修行のため
- 怖い顔をしているの心を見つめ苦しみに耐えているため
- 達磨大師の教え
- 不立文字
- 教外別伝
- 直指人心
- 見性成仏
- 達磨に関する伝説
- 150歳で亡くなった
- 9年間座禅を組んでいた
- キリストの弟子トマスと同一人物
- 少林寺を確立した
- 達磨大師の名言
- 全ての人が道を知っているがわずかな人だけ道を歩いている
- 心が差別をすることを邪と言う
- 気は長く心は丸く
- 人は大きく己は小さく
- 達磨大師の言葉から学ぶべきことがある
目入れだるま
合格祈願や商売繁盛、家内安全などなど、縁起物として扱われる目入れだるま。片目だけ入れて置かれていることが多いですが、買ってすぐに目を入れて、願いが叶ったらもう片方を入れます。
この目入れだるまの始まりはだるま屋がお客から「この達磨の目が気に入らない」と言われたことから始まったと言われています。真っ白な目の状態で売っておいて、買ってくれたらもう片方入れてやるからもう片方は願いが叶ったら自分で入れてねという新しいビジネスから始まったようです。
願掛けではあるにはあるのですが、まさかの始まり方ですね。
この目入れだるまの始まりはだるま屋がお客から「この達磨の目が気に入らない」と言われたことから始まったと言われています。真っ白な目の状態で売っておいて、買ってくれたらもう片方入れてやるからもう片方は願いが叶ったら自分で入れてねという新しいビジネスから始まったようです。
願掛けではあるにはあるのですが、まさかの始まり方ですね。
選挙だるま
via pixabay.com
選挙のニュースでテレビを見ていると出てくる大きなだるま。選挙だるまと言います。当選した議員が大きなだるまに目を入れているのがよく映し出されていますね。
こちらのだるまの始まりは選挙が始まった明治以降となるでしょう。議員が直接買うこともあるようですが、周りから送られることが多いようです。
あの大きなだるまは60センチほどの大きさだと約5万円します。一番大きなものは知事選などの比較的上の方に立つ選挙であることが多いようです。市議会議員などは50センチぐらいのもの。選挙ともなると忙しくなるので周りの方も買い忘れる方も多いようです。
ヒゲには縁起物である亀、まゆには鶴が描かれていることがあります。
こちらのだるまの始まりは選挙が始まった明治以降となるでしょう。議員が直接買うこともあるようですが、周りから送られることが多いようです。
あの大きなだるまは60センチほどの大きさだと約5万円します。一番大きなものは知事選などの比較的上の方に立つ選挙であることが多いようです。市議会議員などは50センチぐらいのもの。選挙ともなると忙しくなるので周りの方も買い忘れる方も多いようです。
ヒゲには縁起物である亀、まゆには鶴が描かれていることがあります。
達磨の外見について
達磨の外見ですが、私達日本人がイメージするのは張り子の丸いだるまです。ですが実在の人物が実際あの姿でいるわけではありません。手足がないという言い伝えも確かにありますが、あの縁起物のだるまは張り子にするにあたって手足を省略した可能性もありますよね。
禅宗の修行はとても厳しいため、その厳しさを伝えるために言い伝えられた可能性もなきにしもあらず。次は達磨の外見がどうしてあのような形に描かれることになるのかを考えてみます。
禅宗の修行はとても厳しいため、その厳しさを伝えるために言い伝えられた可能性もなきにしもあらず。次は達磨の外見がどうしてあのような形に描かれることになるのかを考えてみます。
手足がないのは厳しい修行のため
だるまといえば手足がないというのが定番のようになっていますが、これは9年間に及ぶ厳しい修行のため、手足が腐って切断しなければいけなくなったという話から。
しかし、達磨忌を行うようなお寺にある達磨大師の木像には手があるようです。
どうして手足が描かれないかというと、法衣が長くて座禅しているときは見えないから。もう一つは雪が降るほどの嵩山少林寺での修行は寒いですから、寒さをしのぐために掛け布団をかけている姿をかたどったのが張り子のだるまだからという説もあります。
しかし、達磨忌を行うようなお寺にある達磨大師の木像には手があるようです。
どうして手足が描かれないかというと、法衣が長くて座禅しているときは見えないから。もう一つは雪が降るほどの嵩山少林寺での修行は寒いですから、寒さをしのぐために掛け布団をかけている姿をかたどったのが張り子のだるまだからという説もあります。
怖い顔をしているの心を見つめ苦しみに耐えているため
だるまのあの怖い顔ですが、人々を睨みつけたり金剛力士像のように邪悪なものを睨みつけたりしているわけではありません。
怖いと言ってもなんとなく温かみがある顔をしていますよね。この独特な顔は自分の心を見つめ、厳しい修行に耐えている時の顔です。ひたすら修行をしていたことを考えれば、あまり笑っていることも少なかったのではと考えることができますよね。
そして達磨大師はインド人です。中国や日本などの東アジア人から見ると彫りが深く毛深いため、真剣な顔をしているだけであの怖い顔に見えていたのかもしれません。
同じ理由で日本にペリーが来航した時も怖い表情のペリーが浮世絵として描かれています。
怖いと言ってもなんとなく温かみがある顔をしていますよね。この独特な顔は自分の心を見つめ、厳しい修行に耐えている時の顔です。ひたすら修行をしていたことを考えれば、あまり笑っていることも少なかったのではと考えることができますよね。
そして達磨大師はインド人です。中国や日本などの東アジア人から見ると彫りが深く毛深いため、真剣な顔をしているだけであの怖い顔に見えていたのかもしれません。
同じ理由で日本にペリーが来航した時も怖い表情のペリーが浮世絵として描かれています。
via pixabay.com
あの険しい表情のもう一つの伝説としては
「9年間の厳しい修行の間、眠ることがないようにまぶたを切り落とした説」
まぶたを切り落としては瞬きもできないため目も見えなくなってしまいます。流石にそれはない…と思うのですが、いかに達磨大師が行なった修行が厳しかったかを伝えたかったのでしょう。
「9年間の厳しい修行の間、眠ることがないようにまぶたを切り落とした説」
まぶたを切り落としては瞬きもできないため目も見えなくなってしまいます。流石にそれはない…と思うのですが、いかに達磨大師が行なった修行が厳しかったかを伝えたかったのでしょう。
達磨大師の教え
via pixabay.com
達磨大師は高僧として様々な教えを残しています。普段から仏教に触れることがないのであれば難しく敬遠してしまうかもしれませんね。達磨大師自身も非常に厳しい修行の中から習得したものなのですから、難しいのは当然かもしれません。
達磨大師が残した教えの大きな部分は主に心や精神での悟りです。それまで経典を頼りに行ってきた仏教の修行ですが、この教えで仏教そのものの伝え方が大きく変わったと言っても過言ではありません。どのような教えなのでしょうか。
達磨大師が残した教えの大きな部分は主に心や精神での悟りです。それまで経典を頼りに行ってきた仏教の修行ですが、この教えで仏教そのものの伝え方が大きく変わったと言っても過言ではありません。どのような教えなのでしょうか。
不立文字
via pixabay.com
不立文字は経典の言葉からあえて離れてひたすら座禅をすることで悟りを体験するという意味です。
文字である経典は人の取り方でいかようにも意味が変わってしまうため真実の仏法はそこにはないという、達磨大師本人の戒めでもありました。
どんなに良いことが書いてあってもそれを体験して見なくてはちゃんと理解することは難しいですよね。達磨大師は文字や口で伝えるだけではダメで、体験することで心から心へ伝えるということを重要視していました。
文字である経典は人の取り方でいかようにも意味が変わってしまうため真実の仏法はそこにはないという、達磨大師本人の戒めでもありました。
どんなに良いことが書いてあってもそれを体験して見なくてはちゃんと理解することは難しいですよね。達磨大師は文字や口で伝えるだけではダメで、体験することで心から心へ伝えるということを重要視していました。
教外別伝
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「きょうげべつでん」と読みます。上記の不立文字とあまり違いはありません。文字(経典)を超えたところ、それが「仏心」と言います。
いくら文字に残していても、実際にはどんなものなのかは仏教の祖であるブッダ自身ではないとわかりません。つまり文字ではなく心で理解しないことには本当の智慧ではないということです。
「甘い」と書いても何がどんなものなのかわかりません。砂糖が甘いのか、何か果物なのか。そしてどんなふうに甘いのかは本人にしかわかりません。こういったことが文字や言葉だけではよく起こります。達磨大師はそれを心で理解するというのです。
いくら文字に残していても、実際にはどんなものなのかは仏教の祖であるブッダ自身ではないとわかりません。つまり文字ではなく心で理解しないことには本当の智慧ではないということです。
「甘い」と書いても何がどんなものなのかわかりません。砂糖が甘いのか、何か果物なのか。そしてどんなふうに甘いのかは本人にしかわかりません。こういったことが文字や言葉だけではよく起こります。達磨大師はそれを心で理解するというのです。
直指人心
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「じきしにんしん」
人の心には感情的ではない、仏になる可能性になる心が潜んでいるというのです。例えばわたしたちが何かをしようとした時に周りにアドバイスを求めたり雑誌やネットで調べることがあります。ですがそんな時にまずは自分の中の心にもう一度問いかけて自分自身の姿を見て取れということです。
達磨大師は座禅も経典も経験も本当は不要なものと断言しています。あんなに厳しい修行をしたのに…です。最後には自分の心の中を極めるしかないと言っています。
人の心には感情的ではない、仏になる可能性になる心が潜んでいるというのです。例えばわたしたちが何かをしようとした時に周りにアドバイスを求めたり雑誌やネットで調べることがあります。ですがそんな時にまずは自分の中の心にもう一度問いかけて自分自身の姿を見て取れということです。
達磨大師は座禅も経典も経験も本当は不要なものと断言しています。あんなに厳しい修行をしたのに…です。最後には自分の心の中を極めるしかないと言っています。
見性成仏
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