目次
- 達磨大師とは
- インド人
- 中国禅宗の開祖
- 「達磨」「達磨祖師」とも呼ばれる
- 勝利の際目を書き入れるダルマのモデル
- 「だるまさんがころんだ」などで古くから子どもにも親しまれる存在
- 達磨大師の一生
- 南インド香至国で誕生
- 本名は菩提多羅
- 般若多羅という僧侶が香至国を訪れる
- 般若多羅に出家を進められる
- 父親の死をきっかけに出家
- 40年以上の厳しい修行により一人前として認められる
- 中国に渡ったのは100歳を超えてから
- 嵩山少林寺に滞在し手足が朽ち落ちる程の修行を続ける
- 初めての弟子「慧可」
- 日本に渡り聖徳太子と面会したという説も存在する
- 日本と達磨の関係
- 起き上がり小法師
- 目入れだるま
- 選挙だるま
- 達磨の外見について
- 手足がないのは厳しい修行のため
- 怖い顔をしているの心を見つめ苦しみに耐えているため
- 達磨大師の教え
- 不立文字
- 教外別伝
- 直指人心
- 見性成仏
- 達磨に関する伝説
- 150歳で亡くなった
- 9年間座禅を組んでいた
- キリストの弟子トマスと同一人物
- 少林寺を確立した
- 達磨大師の名言
- 全ての人が道を知っているがわずかな人だけ道を歩いている
- 心が差別をすることを邪と言う
- 気は長く心は丸く
- 人は大きく己は小さく
- 達磨大師の言葉から学ぶべきことがある
達磨が7歳の時に行脚の旅をしていた般若多羅が国を訪れます。国王が宮中に招き仏教の教えを説いてもらうととても素晴らしい教えだったので国王はお礼に宝物を与えました。
般若多羅は感謝の言葉を述べ「これ以上の宝物は他にあるでしょうか」と王子たちに言いました。
上2人の王子は「これ以上の宝はない、最高のものだ」と話したのですが、達磨は「たしかにこの宝物は素晴らしいが、本当に素晴らしいのは正しい教えであり、智慧の光こそが最も素晴らしい光を放つものだ」と言ったのです。
般若多羅は感謝の言葉を述べ「これ以上の宝物は他にあるでしょうか」と王子たちに言いました。
上2人の王子は「これ以上の宝はない、最高のものだ」と話したのですが、達磨は「たしかにこの宝物は素晴らしいが、本当に素晴らしいのは正しい教えであり、智慧の光こそが最も素晴らしい光を放つものだ」と言ったのです。
般若多羅に出家を進められる
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この答えに感動した般若多羅は達磨に出家を勧めたのでした。国王はこれを承諾。ですがまだ達磨はこの時すぐに出家することはありませんでした。まだ年齢も若く、出家する時ではなかったのです。達磨自身も出家するにはあるきっかけがあったからでした。
父親の死をきっかけに出家
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まもなく父である国王は病気で亡くなってしまいました。
周りの者たちは国王の死に泣き叫んでいましたが、その様子を見た達磨だけは「死んだらどうなるのだろう」と考え1週間父の棺の前で瞑想に入ります。ですがどれだけ考えても答えに至ることはありません。
そこで達磨は般若多羅のところに弟子入りすることにしたのでした。
周りの者たちは国王の死に泣き叫んでいましたが、その様子を見た達磨だけは「死んだらどうなるのだろう」と考え1週間父の棺の前で瞑想に入ります。ですがどれだけ考えても答えに至ることはありません。
そこで達磨は般若多羅のところに弟子入りすることにしたのでした。
40年以上の厳しい修行により一人前として認められる
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般若多羅は弟子入りを受け入れ、彼に菩提達磨という名前を授けました。般若多羅の下での修行は非常に厳しい物でした。40年間修行に耐え、ようやく一人前となったのです。
一人前となった時、どこへ仏教を伝えに言ったらいいのかを師に尋ねたところ「自惚れずにまだまだ私のところで修行を積みなさい。私が死んだら67年間インド中をくまなく歩いて仏教を伝えなさい」との答えが…。
達磨は本当にその通りにしたのですが、弟子入りしたのが7歳以上になってから、一人前になったのが40年後、更に修行をして師がなくなってから67年間インドにいたことになります。
一人前となった時、どこへ仏教を伝えに言ったらいいのかを師に尋ねたところ「自惚れずにまだまだ私のところで修行を積みなさい。私が死んだら67年間インド中をくまなく歩いて仏教を伝えなさい」との答えが…。
達磨は本当にその通りにしたのですが、弟子入りしたのが7歳以上になってから、一人前になったのが40年後、更に修行をして師がなくなってから67年間インドにいたことになります。
中国に渡ったのは100歳を超えてから
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つまり達磨が中国に渡ったのは120歳頃になります。ちょっと信じにくいのですが…。
現在でも当然インドから中国に歩いて行くにはとても大変です。西遊記で三蔵法師が通ったのはシャンテン山脈の南側。非常に厳しい道のりです。他の修行僧たちもこちらのルートを通っていたようですが、死者も出るほどの過酷なところです。
周囲も無理だと止めたようですし、達磨本人も厳しいと思ったのか陸路での旅は諦め、商人が使う船に乗せてもらって一人で行くことにします。それでも120歳の体には応えますし、当時の船のクオリティも相まって、結局中国に行き着いたのは、中国に旅立ってから三年後のことでした。
現在でも当然インドから中国に歩いて行くにはとても大変です。西遊記で三蔵法師が通ったのはシャンテン山脈の南側。非常に厳しい道のりです。他の修行僧たちもこちらのルートを通っていたようですが、死者も出るほどの過酷なところです。
周囲も無理だと止めたようですし、達磨本人も厳しいと思ったのか陸路での旅は諦め、商人が使う船に乗せてもらって一人で行くことにします。それでも120歳の体には応えますし、当時の船のクオリティも相まって、結局中国に行き着いたのは、中国に旅立ってから三年後のことでした。
嵩山少林寺に滞在し手足が朽ち落ちる程の修行を続ける
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その後達磨は嵩山少林寺に滞在、修行を続けます。修行の内容は9年間壁を見つめて座禅を組み続けること。その過酷な修行に手足は腐って切断しなければいけないほどでした。
当時の中国は禅のことはすでに300年前から知られていましたがそれほど実行する人も深く知られたものでもありませんでした。修行を続ける間、達磨は有名になっていきます。名声が広まり、妬むものから石を投げつけられたり毒を盛られたりしていました。時にはぶつけられた石で歯が折れてしまうほど。それでも達磨は動くことなく修行を続けたのでした。
当時の中国は禅のことはすでに300年前から知られていましたがそれほど実行する人も深く知られたものでもありませんでした。修行を続ける間、達磨は有名になっていきます。名声が広まり、妬むものから石を投げつけられたり毒を盛られたりしていました。時にはぶつけられた石で歯が折れてしまうほど。それでも達磨は動くことなく修行を続けたのでした。
初めての弟子「慧可」
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達磨がひたすら修行に打ち込む中、ある1人の僧侶が弟子になりたいと言って達磨のもとを訪れます。僧侶が挨拶のため話しかけても達磨は振り向くこともしません。
最初、僧侶は言葉が通じないのかと思ったそうですが、話しかけてくれるまで門の前で待つことにしました。12月の寒い時期で、少林寺には雪が降っています。明け方、雪が僧侶の膝まで来る頃、ようやく達磨が話しかけます。僧侶は仏教の教えを請いにきたことを告げますが、命がけで聞きに来るものだと断られてしまいます。
その言葉に感激した僧侶は短刀で自分の左腕を切り落とし、達磨の元に差し出しました。そこでようやく弟子入りを許されたのです。その僧侶の名前は慧可(えか)と言います。達磨の最初の弟子となったのでした。
最初、僧侶は言葉が通じないのかと思ったそうですが、話しかけてくれるまで門の前で待つことにしました。12月の寒い時期で、少林寺には雪が降っています。明け方、雪が僧侶の膝まで来る頃、ようやく達磨が話しかけます。僧侶は仏教の教えを請いにきたことを告げますが、命がけで聞きに来るものだと断られてしまいます。
その言葉に感激した僧侶は短刀で自分の左腕を切り落とし、達磨の元に差し出しました。そこでようやく弟子入りを許されたのです。その僧侶の名前は慧可(えか)と言います。達磨の最初の弟子となったのでした。
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ですがこの腕を切り落としたという話は後から付けられた伝説ではないかとされています。実は慧可は最初から腕がなかったと言われているからです。
慧可はのちに達磨に「私が教える骨髄を得た」と認められ、禅宗の第二祖となりました。
慧可はのちに達磨に「私が教える骨髄を得た」と認められ、禅宗の第二祖となりました。
日本に渡り聖徳太子と面会したという説も存在する
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達磨は聖徳太子とあったことがあるという説が残されています。
聖徳太子が大阪に視察に行った帰りにボロボロの老人が倒れていました。ボロボロの服をまとっていても上品な感じがするので和歌を返したところ返歌が返ってきたので、後日様子を見に行かせるとすでにその老人は亡くなっていたという話。
宮城県の松島は聖徳太子が生まれるまで達磨が長い間待っていたことから「待つ島」で松島になったという話も残されています。
ですがこの2人、生きていた時代に85年の開きがあり、どうやっても会うことができないのです。そもそも達磨はインド人。和歌の概念はありません。聖徳太子も達磨も非常に日本人に親しまれているのでこのような話が広まったのでしょう。
聖徳太子が大阪に視察に行った帰りにボロボロの老人が倒れていました。ボロボロの服をまとっていても上品な感じがするので和歌を返したところ返歌が返ってきたので、後日様子を見に行かせるとすでにその老人は亡くなっていたという話。
宮城県の松島は聖徳太子が生まれるまで達磨が長い間待っていたことから「待つ島」で松島になったという話も残されています。
ですがこの2人、生きていた時代に85年の開きがあり、どうやっても会うことができないのです。そもそも達磨はインド人。和歌の概念はありません。聖徳太子も達磨も非常に日本人に親しまれているのでこのような話が広まったのでしょう。
日本と達磨の関係
鎌倉時代に禅宗が日本に渡り、長い時間をかけて渡ってきた中国とはまた違った形の親しまれ方になった達磨大師。子供の頃から親しまれているだけに、身近な様々な場所に達磨を見かけることができますね。簡単なものでは雪だるまなんていうのも達磨からきています。
しかし、あの赤い達磨は意外にも歴史は浅いのです。あの形の由来となったものも、鎌倉時代からではなく、もう少し時代を降った室町時代からになります。日本の達磨はどのようにして庶民に広まって行ったのでしょうか。
しかし、あの赤い達磨は意外にも歴史は浅いのです。あの形の由来となったものも、鎌倉時代からではなく、もう少し時代を降った室町時代からになります。日本の達磨はどのようにして庶民に広まって行ったのでしょうか。
起き上がり小法師
まずは起き上がり小法師です。一方に重りが入っていて、倒してもまた起き上がってくることから「七転び八起き」という諦めない精神を表す言葉もここからきていますね。まさに達磨大師のような言葉です。この起き上がり小法師は1400年ごろに中国で作られ、室町時代に日本に伝わりました。
江戸時代になるとこの起き上がり小法師に達磨大師が描かれ、何度倒しても起き上がってくるので子供たちの間で大人気のおもちゃとなりました。
現在でも赤ちゃんのおもちゃとして形を変えながら愛され続けています。もちろん赤ちゃんは達磨大師なんて知りませんが、こんなに小さな頃から私たちは達磨と触れ合っていたのです。
江戸時代になるとこの起き上がり小法師に達磨大師が描かれ、何度倒しても起き上がってくるので子供たちの間で大人気のおもちゃとなりました。
現在でも赤ちゃんのおもちゃとして形を変えながら愛され続けています。もちろん赤ちゃんは達磨大師なんて知りませんが、こんなに小さな頃から私たちは達磨と触れ合っていたのです。
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