2019年10月21日 更新

陰間とは?春画で描かれた陰間茶屋での売春の歴史を紹介!

浮世絵や春画でも残されている陰間は、江戸時代に一世風靡し、瞬く間に多くの男性を虜にしました。茶屋を利用し陰間と遊び、気に入れば高額な身請け金を支払い手に入れます。そんな陰間の生涯は、浮世絵や春画で描かれているような、華やかで優雅なものではなかったのです。

1629年女性舞伎が禁止となる

Geisha Girls Kimono - Free photo on Pixabay (718125)

女性歌舞伎が盛り上がりを見せ、売春行為が頻発していたことを重く見た江戸町奉行所は、1629年(寛永6年)女性が出演する女性歌舞伎を禁止しました。今後一切、女性が歌舞伎の舞台に上がることは許されなくなります。女性の歌舞伎出演が許されなくなると、今度は若衆歌舞伎と呼ばれる歌舞伎が流行しました。

若衆歌舞伎とは、美しい少年が前髪を切り落とし、女形を演じる歌舞伎です。若衆歌舞伎は、女性歌舞伎以上に盛り上がり、江戸各地で盛んに行われるようになっていきました。

女形が誕生し売春が頻発

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美しい少年が女装し、妖艶な舞を披露する若衆歌舞伎は、男性を中心に一世風靡します。出演する少年たちのあまりの美しさから、男性客は次第に性の対象として役者たちを見るようになりました。

若衆歌舞伎が盛んになってからそれ程時間はかからないうちに、美しい少年たちは売春行為を始めます。すると江戸町奉行所は、再び風紀の乱れを指摘し、若衆歌舞伎まで禁止しました。女性が舞台に上がることは許されず、若衆歌舞伎まで禁止されたものの、女形と呼ばれる役者は残されます。

男性が女装し、女性の役として歌舞伎に出演することは許されたのです。当然、女形による売春行為も残りました。女形を禁止しなかった背景には、一般市民の娯楽を奪わないためとも言われていますが、町奉行や権力者たちが陰間を寵愛していたからだとも言われています。

陰間茶屋が登場する

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女形が残され売春行為も行われていましたが、大々的には禁止されていました。売春行為は風紀を乱すという理由から、表立って行うことは許されなかったのです。そのため、隠れて売春を行える場所が必要になりました。それが、茶屋です。

当初茶屋は、場所を提供しているだけであり、売春行為を黙認するという場所として存在していました。しかし次第に、専属の少年を雇い、売春専門の陰間茶屋が登場します。陰間茶屋には、多くの少年が所属し、訪れた客と性行為を行っていました。

男性版「遊郭」のような存在です。これまで陰間は、女装し女性らしく振る舞うことを良しとしていましたが、陰間茶屋の登場以降、男性らしい身なりの少年も登場し始めます。

明治維新後消滅

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女形が売春行為を行ったり、専属の茶屋で売春行為を行う少年たちが減少し始めたのは、明治維新前後になってからでした。明治維新以前は、歌舞伎役者に限らず売春行為は禁止されていたものの、有力者の中にも愛好者がいたため、完全に撲滅されることなく、商売として残り続けます。

江戸時代中期から後期にかけ、時代の変化と共に再び風紀が見直されるようになりました。風紀の乱れを正していく過程で、陰間茶屋は次第に廃れ明治維新以降、完全に消滅します。明治維新以降も、個人的に売春を行っていた少年たちは存在していましたが、発覚した場合罰せられるようになりました。

陰間の知られざる世界

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陰間と呼ばれた人々は、時代の流れや文化によって繁栄し、そして衰退していきました。消滅した陰間と共に成長した歌舞伎は、現在日本の代表的な文化として定着し、明暗が分かれたと言えるでしょう。

現代にも残されている文化について、学び知る機会は非常に多いものの、消え去った文化を知る機会はそれほど多くありません。消え去った文化の中には、現代にも通ずるものがあり、それらを知ることは知識の幅を広げ物事を多方面から見ることができる広い視野を提供します。

ここからは、消え去り知る機会の少ない陰間の世界を、さらに深掘りしていきましょう。陰間の生活や生涯、どのような流れで性行為が行われていたのか、赤裸々にご紹介していきます。

活動期間は12~20歳

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当初陰間は、役者を目指し修行しつつ売春行為を行う少年たちを示す言葉でした。しかし、陰間茶屋が誕生した頃から、役者や舞台とは無関係の、売春業を生業とする少年たちを示す言葉として用いられるようになります。ここでは、後者の少年たちの生態や生涯について、ご紹介していきましょう。

陰間茶屋で売春行為を行っていた少年たちは、自ら進んで陰間という世界に、足を踏み入れたわけではありません。遊女と同じく、ほとんどが両親や親族に売られた少年たちでした。遊女と同じく買われた少年たちですが、働く期間は遊女よりも非常に短かったと言われています。

遊女は15~27歳頃まで働いていましたが、陰間は12~20歳程度までしか働けませんでした。陰間の労働期間が短い理由の1つは、体の変化です。客の中には男性らしい容姿を好む人もいましたが、少年らしい儚い美貌を好む人が大半でした。
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さらに、男性らしく成長してしまった場合、力でねじ伏せることも難しくなり管理がしにくかったことから、陰間の現役期間は短かったと言われています。

また、肛門を使用した性行為は、体への負担も大きく、長期間働くことが難しかったようです。このような理由から、陰間の労働期間は短く、16歳前後が書き入れ時と言われました。

1回1~4万円

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外見や作法によって性行為の値段は変わりますが、陰間は1回1~4万円程度で取引されました。陰間を1晩買い取り、数回性行為することも可能でしたが、その場合金額も跳ね上がります。しかし、肛門を使用した性行為は、1晩でそれほど多く行えるものではありませんでした。

1日に1~5人程度の客の相手をし、年季が開ける20歳までほぼ毎日働きます。陰間茶屋で働く少年の中には、遊女と同じく、病気を患ったり精神を病んでしまう者も少なくありませんでした。

身請け金は4,000万円以上になることも

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陰間は、年季が開ける20歳になると陰間茶屋から出ることを許されます。その際、遊女と同じく客に引き取られるケースもありました。身請け金と呼ばれる対価を支払えば、年季が開ける前に少年を買い取ることもできます。しかし、身請け金は非常に高額でした。

陰間茶屋を代表する少年ともなれば、現在の価値にして4,000万円以上だったとも言われています。最下層の少年であれば、数百万円程度です。このように高額な金銭が必要であったことから、身請けされる少年はそれほど多くなかったと考えられます。

メイン客は僧侶

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陰間と呼ばれる美男子を好む文化の礎を築いたのは、驚くべきことに神に仕えた僧侶たちでした。陰間のメイン客は、高貴な僧侶たちだったのです。江戸時代、僧侶と呼ばれる人々は、あらゆる禁欲を経て高貴な存在になり得ると考えられていました。

禁欲の中には、食事はもちろん、女性と性行為してはいけないという内容もあり、厳しい場合、女性との会話も禁じられていたようです。女性との接触を表す女犯(にょぼん)が知られれば、島流しや道端に晒されるなど厳しい罰則が科せられます。

厳しい禁欲、修行を行っていた僧侶たちでしたが、性欲は抑えられないものでした。隠れて結婚する僧侶もいましたが、厳しい罰則を恐れ多くの僧侶は、男色の道を選択します。
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