目次
- 岩手県雫石にある慰霊の森が怖い
- 全日空機雫石衝突事故の概要
- 1971年7月30日13時28分戦闘機が松島基地を出発
- 1971年7月30日13時33分旅客機が千歳空港を出発
- 14時02分航空自衛隊の戦闘機と旅客機が空中衝突
- 旅客機が空中分解して乗員乗客162名全員死亡
- 戦闘機の乗員は脱出に成功
- 事故の原因
- 教官が訓練空域を逸脱していることに気づかなかった
- 双方の回避が間に合わなかった
- 航空路監視レーダーが設置されていなかった
- 裁判の行方
- 教官と訓練生が逮捕される
- 訓練生には無罪が言い渡される
- 教官は禁固3年執行猶予3年の判決
- 民事裁判では国・保険会社・全日空に支払いが命じられる
- 教官は失職・訓練生は救難機パイロットに転向
- 事件後に墜落現場が慰霊の森として整備される
- 慰霊の森の場所とは
- 2003年までは毎年慰霊祭が開催されていた
- その後は遺族らや地元住民、全日空社員が整備
- 慰霊の森が心霊スポットになった理由
- 事故が一瞬で亡くなったことに気づいていないとする説
- 遺体が悲惨な状態だった
- 慰霊の森の心霊体験
- 車に手形がたくさんつく
- 体のバラバラのパーツが足を引っかけてくる
- カーステレオから声が聞こえる
- 積もっていない雪にタイヤがはまる
- 日本で起きた航空事故
- 日本航空350便墜落事故
- 日本航空123便墜落事故
- 中華航空140便墜落事故
- 面白半分で慰霊の森へ行くのは不謹慎
via pixabay.com
旅客機側は衝突する7秒前には訓練機に気づいていたと推定されています。しかし接触を予測していなかったため衝突する直前まで回避操作が行われませんでした。
戦闘機側の教官は訓練生よりも早く旅客機の存在に気づき回避するよう指示を出しましたが、指示を出すのが遅く回避が間に合わなかったのです。
訓練生はまだ経験が浅く、教官が操縦する戦闘機との位置関係を維持することに専念していて接触する2秒前まで旅客機に気づきませんでした。
戦闘機側の教官は訓練生よりも早く旅客機の存在に気づき回避するよう指示を出しましたが、指示を出すのが遅く回避が間に合わなかったのです。
訓練生はまだ経験が浅く、教官が操縦する戦闘機との位置関係を維持することに専念していて接触する2秒前まで旅客機に気づきませんでした。
航空路監視レーダーが設置されていなかった
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当時は航空路監視レーダーが設置されていませんでした。ノンレーダー管制という、航空路管制は操縦士からの位置通報を元に地図盤上で識別して指示や許可を与える方法が主流だったのです。
また、ジェットルートはジェット機より低い高度を飛行するレシプロ機旅客機が運行されるようになっても変更されずジェット機やプロペラ機が混在している状態でニアミスが多発していました。
現在は自衛隊レーダーサイトによる訓練支援、航空路監視レーダーによる航空路管制、訓練空域と航空路等の明確な分離、航空局と航空自衛隊間の演習訓練空域使用に関する連絡調整システムが確立されているため同様の事故は起きていません。
また、ジェットルートはジェット機より低い高度を飛行するレシプロ機旅客機が運行されるようになっても変更されずジェット機やプロペラ機が混在している状態でニアミスが多発していました。
現在は自衛隊レーダーサイトによる訓練支援、航空路監視レーダーによる航空路管制、訓練空域と航空路等の明確な分離、航空局と航空自衛隊間の演習訓練空域使用に関する連絡調整システムが確立されているため同様の事故は起きていません。
裁判の行方
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自衛隊の教官と訓練生は逮捕されて刑事裁判と民事裁判が行われました。刑事裁判で教官側は無罪を訴えましたが教官には禁固3年執行猶予3年の判決が言い渡され、訓練生は無罪となっています。
事件後に教官は失職し訓練生は救難機のパイロットに転向するなど事故はそれぞれの人生に大きな影響を及ぼしました。民事裁判では自衛隊の過失が大きいと認定され、国が全日空と保険会社に賠償金を支払うべきだとする判決が出ています。
それぞれの裁判の行方を見ていきましょう。
事件後に教官は失職し訓練生は救難機のパイロットに転向するなど事故はそれぞれの人生に大きな影響を及ぼしました。民事裁判では自衛隊の過失が大きいと認定され、国が全日空と保険会社に賠償金を支払うべきだとする判決が出ています。
それぞれの裁判の行方を見ていきましょう。
教官と訓練生が逮捕される
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教官と訓練生は岩手県警に逮捕され業務上過失致死と航空法違反で起訴されました。1975年3月11日に行われた第一審では教官に禁固4年、訓練生に禁固2年8月の実刑判決が言い渡されています。
第一審で盛岡地裁は旅客機の飛行経路について「管制上の保護空域内西側」を飛行していたとし、衝突地点について「本件全証拠によるもこれを確定することができない」としました。
弁護側は旅客機の操縦者に過失があったと主張しましたが裁判所は自衛隊側の過失があったことを否定するものではないとしています。
第一審で盛岡地裁は旅客機の飛行経路について「管制上の保護空域内西側」を飛行していたとし、衝突地点について「本件全証拠によるもこれを確定することができない」としました。
弁護側は旅客機の操縦者に過失があったと主張しましたが裁判所は自衛隊側の過失があったことを否定するものではないとしています。
訓練生には無罪が言い渡される
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1978年5月9日に仙台高裁で開かれた第二審では教官の控訴が棄却されたものの訓練生には一審判決を破棄して無罪が言い渡されました。訓練生は事故当日の臨時の訓練空域の位置や範囲、ジェットルートの経路を知らなかったためです。
また、旅客機は接触する29秒前から訓練生の注視野外にあったので注意義務違反が認められないとされました。旅客機の飛行経路と接触地点については事故調査報告書の推定通りだと認めています。
また、旅客機は接触する29秒前から訓練生の注視野外にあったので注意義務違反が認められないとされました。旅客機の飛行経路と接触地点については事故調査報告書の推定通りだと認めています。
教官は禁固3年執行猶予3年の判決
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上告審で弁護側は教官の無罪を主張しましたが1983年9月22日に最高裁は教官に対して禁固3年執行猶予3年の判決を言い渡しました。
訓練生への見張り義務違反はあったものの教官一人に刑事責任を負わせるのはひどすぎるとして一審よりも減刑となりました。
減刑に至ったのは上司が航空路に隣接した訓練空域を設定したうえに教官らに説明しなかったことや上官の命令による訓練を教官らは拒否できなかったとして、上司の自衛隊基地幹部の怠慢があったことを認定したからです。
訓練生への見張り義務違反はあったものの教官一人に刑事責任を負わせるのはひどすぎるとして一審よりも減刑となりました。
減刑に至ったのは上司が航空路に隣接した訓練空域を設定したうえに教官らに説明しなかったことや上官の命令による訓練を教官らは拒否できなかったとして、上司の自衛隊基地幹部の怠慢があったことを認定したからです。
民事裁判では国・保険会社・全日空に支払いが命じられる
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民事裁判は乗客の遺族が国に対して起こしました。また全日空は国に損害賠償を求める訴訟を提起し、国は全日空に損害賠償を求める反訴を提起しました。
全日空は事故による営業損失8億円、保険会社は全日空に支払った航空保険25億円、国は墜落した戦闘機と遺族に支払った賠償金を合わせた19億円を請求します。
1978年9月20日に開かれた第一審では国と全日空の過失割合は6対4であるとされました。1989年5月9日に開かれた第二審は第一審から10年後に行われ、自衛隊の過失を一審より重く判断し過失割合は2対1となりました。国は全日空に7.1億円、保険会社に15.2億円、全日空は国に6.5億円支払うよう判決が下されました。
全日空は事故による営業損失8億円、保険会社は全日空に支払った航空保険25億円、国は墜落した戦闘機と遺族に支払った賠償金を合わせた19億円を請求します。
1978年9月20日に開かれた第一審では国と全日空の過失割合は6対4であるとされました。1989年5月9日に開かれた第二審は第一審から10年後に行われ、自衛隊の過失を一審より重く判断し過失割合は2対1となりました。国は全日空に7.1億円、保険会社に15.2億円、全日空は国に6.5億円支払うよう判決が下されました。
教官は失職・訓練生は救難機パイロットに転向
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教官は有罪判決を言い渡されたため失職し、再審請求は辞退しました。パイロット職に復帰することなく2005年に亡くなっています。
訓練生は救難機パイロットに転向して定年退職するまで人命救助を行いました。また、事故の責任を取るため当時の防衛庁長官と航空幕僚長が辞任しています。
1991年には日本国内のほぼ全域を17基のレーダーでカバーし、1基が故障しても他のレーダーでバックアップが可能なレーダー管制システムが完成しました。
訓練生は救難機パイロットに転向して定年退職するまで人命救助を行いました。また、事故の責任を取るため当時の防衛庁長官と航空幕僚長が辞任しています。
1991年には日本国内のほぼ全域を17基のレーダーでカバーし、1基が故障しても他のレーダーでバックアップが可能なレーダー管制システムが完成しました。
事件後に墜落現場が慰霊の森として整備される
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旅客機の墜落現場は事件後、慰霊の森として整備されました。2003年までは毎年慰霊祭が開催されその後は遺族や地元住民、全日空社員が整備をしています。
2007年からは全日空の研修施設内で事故機の部品が公開されるようになりました。未だに航空機の部品などはすべて回収しきれておらず、2006年には墜落現場から数百メートル離れた急斜面に窓枠や座席などの部品が10点近く埋まっているのが発見されています。
老朽化が進んだため2019年には大規模な改修が行われることになった慰霊の森について見ていきましょう。
2007年からは全日空の研修施設内で事故機の部品が公開されるようになりました。未だに航空機の部品などはすべて回収しきれておらず、2006年には墜落現場から数百メートル離れた急斜面に窓枠や座席などの部品が10点近く埋まっているのが発見されています。
老朽化が進んだため2019年には大規模な改修が行われることになった慰霊の森について見ていきましょう。
慰霊の森の場所とは
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慰霊の森は岩手県岩手郡雫石町西安庭の航空機が墜落した山中を整備したものです。麓までは車で行くことができ、入り口に「全日空機遭難者慰霊碑のぼりぐち」という碑が建っています。
慰霊碑がある場所には階段を上って行かなくてはなりません。階段を15分ほど上がっていくと慰霊の森の看板があり、慰霊碑の他に納骨堂や航空安全祈念の塔もあります。
階段付近に登山者のために杖が置いてあり階段には段数が書いてあるそうです。
慰霊碑がある場所には階段を上って行かなくてはなりません。階段を15分ほど上がっていくと慰霊の森の看板があり、慰霊碑の他に納骨堂や航空安全祈念の塔もあります。
階段付近に登山者のために杖が置いてあり階段には段数が書いてあるそうです。
2003年までは毎年慰霊祭が開催されていた
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