目次
吾唯足知について
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それでは「吾唯足知」という四字熟語は見たことがあるでしょうか?
その読み方、また意味についてみていきましょう。
漢文読みですと、「吾唯知足」ですね。
その読み方、また意味についてみていきましょう。
漢文読みですと、「吾唯知足」ですね。
足るを知ると説いた老子の教えとは?仏教や竜安寺との関係も - POUCHS
足るを知るは老子の説いた教えですが、これと同じような教えが仏教にもありました。今回は、この足るを知るについて、語源をはじめ、仏教や竜安寺の知足のつくばいとの関係について、さらにはミニマリストの生活についても考察していきます。竜安寺の見どころも紹介しますよ。
吾唯知足の読み方
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「吾唯知足」は、われ ただ たるをしる。と読みます。
吾唯知足の由来
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「知足」からきたものでしょう。(足るを知る)です、自己の分際に応じて、むさぼりの心を起こさないこと、という意味です。
法句経には、「知足は第一の富なり」とあります。
また老子には
人を知るものは智なり(知人者智)
自ら知るものは明なり(自知者明)
人に勝つものは力あり(勝人者有力)
自ら勝つものは強し(自勝者強)
足ることを知る者は富み(知足者富)
強(つと)めて行う者は志有り。(強行者有志。)
其の所を失わざる者は久しく、(不失其所者久。)
死して而も亡びざる者は寿(いのちなが)し。(死而不亡者壽。)
他人をわかるのは智慧であるが、自らをわかるのはさらにすぐれた明知である。
他人に勝つのは力だが、自分に打ち勝つのは本当の強さである。
足るを知ることが真に富むことであり
努力して実行するのが目的を持つ人である。
自分の依るべき立場を失わないものは永続し
肉体はなくても滅びないものは、真の永続である。
「足るを知る~」と次の「努力をして実行する~」が対になっているのを見ると、「知足」というのは、ほどほどで満足といった、単なる自己満足ではないでしょう。自己満足していたら、努力は必要ありませんよね。
老子は「道」を説いた人です。最後の二行、「自分の依るべき立場を~」から「~真の永続である」まではおそらく「道」のことじゃないでしょうか?
そして、実は老子の「道」は禅宗の「無」「無字」ととても似ているのです。
法句経には、「知足は第一の富なり」とあります。
また老子には
人を知るものは智なり(知人者智)
自ら知るものは明なり(自知者明)
人に勝つものは力あり(勝人者有力)
自ら勝つものは強し(自勝者強)
足ることを知る者は富み(知足者富)
強(つと)めて行う者は志有り。(強行者有志。)
其の所を失わざる者は久しく、(不失其所者久。)
死して而も亡びざる者は寿(いのちなが)し。(死而不亡者壽。)
他人をわかるのは智慧であるが、自らをわかるのはさらにすぐれた明知である。
他人に勝つのは力だが、自分に打ち勝つのは本当の強さである。
足るを知ることが真に富むことであり
努力して実行するのが目的を持つ人である。
自分の依るべき立場を失わないものは永続し
肉体はなくても滅びないものは、真の永続である。
「足るを知る~」と次の「努力をして実行する~」が対になっているのを見ると、「知足」というのは、ほどほどで満足といった、単なる自己満足ではないでしょう。自己満足していたら、努力は必要ありませんよね。
老子は「道」を説いた人です。最後の二行、「自分の依るべき立場を~」から「~真の永続である」まではおそらく「道」のことじゃないでしょうか?
そして、実は老子の「道」は禅宗の「無」「無字」ととても似ているのです。
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また、老子の道徳経にはこのような「知足」もあります。
得ると亡う(うしなう)と孰れか病(うれい)ある (得与亡孰病)
是の故に甚だ愛めば(おしめば)必ず大いに費え(ついえ) (是故甚愛必大費)
多く蔵すれば必ず厚く失う (多蔵必厚失)
足るを知れば辱められず (知足不辱)
止まるを知れば殆うからず(あやうからず) (知止不殆)
名誉や財産の欲にとらわれわが身を損なう害を知らないでいる。
ものおしみをしていると、必ず大きな浪費をすることになり、
たくさんの貯蔵をしていると、必ず大きな損失をこうむることになる。
誠の満足を知るものは、屈辱を受けてわが身を汚すことから免れ
適切なところでとどまることを知る者は、わが身を危険にさらすことから免れる。
これは「知足の計」といわれています。
それでは真の満足、「知足」とはなんでしょうか?
ほどほどの生活で満足するとか、シンプルライフのような意味だけではありません。
老子の「知足」は「道」と深く関係するのです。もっと深い意味を持ってくるのです。
得ると亡う(うしなう)と孰れか病(うれい)ある (得与亡孰病)
是の故に甚だ愛めば(おしめば)必ず大いに費え(ついえ) (是故甚愛必大費)
多く蔵すれば必ず厚く失う (多蔵必厚失)
足るを知れば辱められず (知足不辱)
止まるを知れば殆うからず(あやうからず) (知止不殆)
名誉や財産の欲にとらわれわが身を損なう害を知らないでいる。
ものおしみをしていると、必ず大きな浪費をすることになり、
たくさんの貯蔵をしていると、必ず大きな損失をこうむることになる。
誠の満足を知るものは、屈辱を受けてわが身を汚すことから免れ
適切なところでとどまることを知る者は、わが身を危険にさらすことから免れる。
これは「知足の計」といわれています。
それでは真の満足、「知足」とはなんでしょうか?
ほどほどの生活で満足するとか、シンプルライフのような意味だけではありません。
老子の「知足」は「道」と深く関係するのです。もっと深い意味を持ってくるのです。
吾唯知足のそれぞれの意味
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それでは、それぞれの意味を解説して「知足」の意味に迫っていきましょう。
吾
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われ(我)ですね。
「我、思う故にわれあり」(デカルト)の「われ」です。
ラテン語だと
cogito (考える)ergo (故に)sum(存在する)
です。考える故にわれあり、で「我」というのは存在そのものにかかっていきますね。
さらに遡って、アウグスティヌスだと、もっとシンプルになっていきます。
sum (存在する)cogito(考える)
考える、それが存在である、になります。
この当時のsum(存在する)ものは「神」のみでしたから、私たちの考える意識の根底には「神」がいるということになります。
(吾、我)というものが、存在そのものにかかっていき、かなり哲学的なものになるのはおわかりになったでしょうか。
「我、思う故にわれあり」(デカルト)の「われ」です。
ラテン語だと
cogito (考える)ergo (故に)sum(存在する)
です。考える故にわれあり、で「我」というのは存在そのものにかかっていきますね。
さらに遡って、アウグスティヌスだと、もっとシンプルになっていきます。
sum (存在する)cogito(考える)
考える、それが存在である、になります。
この当時のsum(存在する)ものは「神」のみでしたから、私たちの考える意識の根底には「神」がいるということになります。
(吾、我)というものが、存在そのものにかかっていき、かなり哲学的なものになるのはおわかりになったでしょうか。
唯
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唯は(ただ)と読みます。
(ただ)には、(直接)(ひたすら)(わずか)(単に)(ちょうど)(むなしく)(しばらくの間)(むやみに、まったく)などのさまざまな意味があります。
「吾唯知足」の「ただ」は、ひたすら、という意味がちょうどあてはまるでしょう。無心に、という意味です。
(ただ)には、(直接)(ひたすら)(わずか)(単に)(ちょうど)(むなしく)(しばらくの間)(むやみに、まったく)などのさまざまな意味があります。
「吾唯知足」の「ただ」は、ひたすら、という意味がちょうどあてはまるでしょう。無心に、という意味です。
知
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「知」は(知る、わかる、理解する)から(知り合い、友人)などの意味がありますね。
また「智」もあります。
「智慧」の「智」であり(かしこさ、ちえ)です。
「知足」の「知」は、かしこさとか知識ではないでしょう。また、頭での(理解)でもなく、身体的にも理解する、または腑に落ちるというニュアンスの(わかる)が適切な意味でしょう。
また「智」もあります。
「智慧」の「智」であり(かしこさ、ちえ)です。
「知足」の「知」は、かしこさとか知識ではないでしょう。また、頭での(理解)でもなく、身体的にも理解する、または腑に落ちるというニュアンスの(わかる)が適切な意味でしょう。
足
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「足る」には、(満足する)(十分である、満ち足りている)(相応している、値する、価値がある)(必要なだけある)といった意味があります。
今まで老子の「知足」を見てきましたが、「知足」は自己満足のような意味だけではありませんね?
「知足」の「足る」は、十分であるといった意味になります。
それではいったい、「何が十分」なのを「知る」のでしょうか?
今まで老子の「知足」を見てきましたが、「知足」は自己満足のような意味だけではありませんね?
「知足」の「足る」は、十分であるといった意味になります。
それではいったい、「何が十分」なのを「知る」のでしょうか?
吾唯足知は龍安寺に刻まれている!
「吾唯足知」は、実は龍安寺のつくばいに刻まれている文字なのです。
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